信じる

「え……」


 前々から気になっていた、と呟くシュタールに戸惑いの声をあげながら視線を向けるアナスタシア。

 シュタールは少しばかり苦い表情になりつつ、それでも確りとした声音で言葉を続けた。


「俺達には、顔は確かに笑っているけれど……笑っていないように見えるのだ」

「どういう、ことですか……?」


 呆然とした表情のまま口にする問いは、掠れてしまっている。

 矛盾した言葉の内容に首を傾げて見せたかったけれど、ひどくぎこちない仕草で微かに首が動いただけだった。

 獣人達は、魔力を有さない。その代わりに『直感』とも呼べる感覚に秀でているという。

 だからこそ戸惑い、距離を隔てようとしてしまうのかもしれない、とシュタールは言う。

 笑っているけれど、笑っていない。

 分からない。いや、分かっている。どこかで察している。

 シュタールが何を言おうとしているのか。わらっていないとは何を意味しているのか。

 心のどこかで悟り、触れられたくないと思う。だからこそ、続きを聞く事を恐れている。

 シュタールは一度言葉を切りアナスタシアを見つめていたが、やがて再び口を開いた。


「アナスタシア殿の心が見えない。まるで、笑顔で本心を覆い隠しているように感じる」


 シュタールの言葉に、アナスタシアの顔が目に見えて強張った。

 それは、今までの人生において是とされてきた……是とするように言われてきた事だったからだ。

 本音とは、心の奥に秘めるものであると。人に対して心を見せてはならないと。

 笑みで全てを覆い隠して、適切な距離を保ち続けることこそ、社交には必要な事と教えられた。

 人々の日々を支え導く立場として、辛い思いも、苦しい思いも、見せてはならない。

 王妃、或いは聖女の顔に全てを許し給う微笑みがなければ、民は不安に惑う。だから微笑み続けなさい。常にそう言われて生きて来た。

 聖女でも妃でもなくなればば、笑わなくてもいいと思っていた。

 けれど全てを失い、閉じ込められた日々において。傷つけようとする全てから心を遠ざける為には。微笑み続け本当の心を閉じ込めておかなければ、心を保っていられなかった。

 アナスタシアは確かに、微笑み続けてきた。けれど、心は微笑んでいなかった。

 それを今、シュタールは指摘するのだ。それこそが、アナスタシアと民を隔てる壁なのだと――壁を作り出していたのは、アナスタシアの心だったと。


「アナスタシア殿が誠実な人柄であり、一生懸命に尽くしてくれていることは疑いようがない。皆も、それは認めているだろう。だが……」


 俯いてしまったアナスタシアに、シュタールが浮かべている表情は見えない。

 彼は、きっと伝えづらい言葉を口にしなければいけないことに、苦しそうな表情を浮かべているのだろうと思う。

 そして、それでも真っ直ぐにアナスタシアを見つめているのだろう。この誠実で実直な獣人の王は、とても優しいから……。


「皆は自分達が『信用されていない』と思ってしまっているのかもしれない……」


 笑みを浮かべながら優しげに言葉を紡いだとしても、本心を知られまいとする異邦人。

 何故、そこまで頑なに心を知られまいとするのか。それは、自分達が信頼されていないからでは。この人間は、自分達を信じようとしていないのでは。 

 ただでさえ、同族ではない相手だ。少しでも疑いを抱いてしまえば、素直に近づく事は難しい。動向を伺いながら警戒し、自然と距離は隔たってしまう。

 けれど、それならアナスタシアは。


「どうすれば、信じられるのですか」


 震えながら呟いた声は震えてしまっていて、低い呻き声のようだった。

 シュタールが目を見張った気配を感じる。

 アナスタシアは顔を上げ、シュタールを見つめる。

 寄る辺の無い子供のような……頼りものを無くした、追い詰められた眼差しで。


「信じていたものが。築き上げてきたものが。一瞬で消え失せるくらい儚いものだと思い知らされて。全部、全部、なくなってしまったのに」


 堰を切ったように言葉を口にしながら、言ってどうするのと自分を責める己がいる。

 この人のせいじゃない。

 この国のせいじゃない。

 そう思うけれど、溢れだした心は止まらない。

 今まで微笑みで蓋をして覆ってきた醜いものが、もう止まらない。


「人の心も、何もかも。私の世界は脆く頼りない、実態すらあやふやなものだらけだったと思い知らされたのに。何一つ確かなものなど存在しないと思わなければ。失った時に、ただ辛いだけなのに」


 あの時、エリオットとマデリンが深い仲となっていたのに気付かなかったことにも呆然としたが、あまりに早い人々の心変わりにも呆然としていた。

 昨日まで微笑んでくれていた人間が、塵芥でも見るような眼差しで彼女を追い払う。

 婚約者と妹の裏切りと、信じていた世界の崩壊と、周囲にいてくれた人々の移ろいと。

 衝撃に心が死んでしまったような感覚を覚えながら、アナスタシアは思った――人の心は、こんなに容易いものだったのだな、と。

 愛されていると、思われていると思っても、それが如何に呆気なく失われるものなのか。

 人の心がどれ程脆く、信じるには危ういものであるのか。

 血のにじむような思いで築き上げてきたものも、一瞬で水泡に帰されてしまった。

 当たり前のように信じていた世界は、如何に儚く消え去るものであったのか。

 アナスタシアは笑顔を浮かべ続けるようになった。それ以外、浮かべられぬようになった。

 癒えることのない衝撃に死にかけた心を抱えたまま、穏やかな笑顔を壁として、他者とは線を置いて接するようになった……。

 ぽつり、と足元に一つ雫が落ちた。

 頬に濡れた感触がある。呆然と見開いている瞳から、頬を一筋の涙が伝っているのだ、と知る。

 自分は今、泣いているのだと気付いた。

 裏切りを知り、婚約を破棄されても。それまで持っていた全てを奪われ、光の当たらない場所へ追いやられても。そして罪人として切り捨てられても、今まで一度として泣かなかったのに。

 見つめる銀灰色の瞳を感じながら、アナスタシアはゆるゆると頭を左右にふる。脳裏に過る過去を拒絶したいとでもいうように。

 泣き笑いのような表情を浮かべながら、震える声音は更に続く。


「皆を信じていない、というのは、きっと違うのです」


 シュタールにも、フロイデにも、ロイエにも。アインマールの民たちにも。信頼を損なうような非は、誰にもない。

 それなのに、信じられないのは。信じてはいけないと、戒める己がいる理由は。


「私が信じていないのは、皆ではありません。私が信じられないのは、私です……」


 アナスタシアが信じていないのは。一番信じられないのは、アナスタシア自身だ。

 自分を取り巻くもの、見るもの、感じるもの。

 自分が考えること。成し遂げること。

 どれが正しく、どれが確かなのか、分からない。だって『私の世界』に確かなものなんてなかったのだから。それを、かつての自分は全く疑おうとせず、気付けなかったから。

 今だって、シュタールに願われ取り組みに打ち込んでいるけれど、自分のしている事が正しいのか分からない。

 自分の出来る事に力を尽くしてはいる。だが、自分自身で本当にそれが正しいのか分からないまま進んでいる。

 だからこそ、人々はアナスタシアの為す事を信じられず距離を置くのかもしれない。

 微笑みで心を隠しながら自分を信じられず、自分の進む道を信じられない。そんな人間がどうして信頼されるだろう。


「自分すら信じられない人間が、どうすれば他を信じられるようになるのですか」


 雫はゆっくりと伝い続け、また一つ煌めきながら床に落ちていく。

 自分がもう何を言っているのかもわからなくなりつつある。それなのに、自分は止まることなく言葉を紡ぎ続けるのだ。


「私はもう何を、どう、信じればよいのか分からないのです」


 揺れてぼやける視界に、静かに佇むシュタールの姿が映っている。

 雪豹の獣人王は、黙したままアナスタシアを見つめていた。ただ、真摯な光を宿した眼差しでまっすぐに。

 アナスタシアがそれきり口を閉ざすと、二人の間には重苦しい沈黙が横たわる。

 再び俯きながら、この人に話す事ではないと分かっているのに、と止められなかった自分を嫌悪する。

 シュタールも、きっと今のアナスタシアを見て呆れたことだろう。

 沈黙がとても痛く感じる。今のシュタールの表情を見るのが、怖くてたまらない。

 唇を噛みしめ、震えそうになる自分を抑えていたアナスタシアの耳に。

 沈黙を破り飛び込んできたのは、思いもよらぬ言葉だった。


「ならば、俺を信じてくれ」


 アナスタシアは、思わず目を見開いた。

 何を言われたのか理解できなくて。

 耳に触れた声音が、あまりに優しく温かで。慮る感情に満ちていて。

 恐る恐る顔をあげたアナスタシアの眼差しと、シュタールのそれが交錯する。

 はしばみ色の視線の先には、白銀の獣人王の顔には真摯で、慈しみに満ち笑みがあった。


「俺だけは何があろうと貴方を信じ、誠実であると誓う。けして裏切らないと誓う」


 静かに、諭すような声音でもあった。

 シュタールは、そっとアナスタシアの手をとると、大きな両の掌にて包む。

 剣を握る故に固い感触を覚える手から伝わる温もりは、不思議なほどにアナスタシアの全身に拡がっていく。張り詰めていた心を、解いていく……。

 アナスタシアの手を握りしめると、シュタールは静かに言葉の続きを紡ぐ。


「貴方にはあまりに悲しい出来事があり過ぎた。だから、何も信じられぬのかもしれない。だが最後に一度だけ、貴方を信じる俺を信じてくれ」


 希うように、シュタールは告げた。

 アナスタシアが自分を信じられずとも、シュタールはアナスタシアを最後まで信じる。

 だから、そんな自分を信じて欲しいと……。

 咄嗟に、言葉を返す事が出来ない。

 これ程に真摯で誠実な言葉を向けてくれているというのに、心が揺れていて言葉が紡げない。

 あまりに……あまりに、胸が苦しくて。胸を何か熱いものが満たして、溢れていくようで、息が出来ない。

 信じたいと願う気持ちと信じてまた失われるのを恐れる気持ちが、心をそれぞれ反対の方向へと引こうとする。

 暫くの間、アナスタシアの唇から言葉が零れることはなかった。

 そして。


「シュタール様……」


 鬩ぎ合う心に口を閉ざしていたアナスタシアが、沈黙を経て口にしたのは獣人王の名だった。

 万感の思いを込めて唇から紡ぎ出された己の名を聞いて、シュタールは包み込むような笑みを浮かべる。

 一度、二度と頷くアナスタシアの頬を伝う涙の雫をそっと伸ばした指先で拭いながら、シュタールは呟く。


「シュタールでいい」


 その瞬間、アナスタシアの顔に無防備ともいえる表情が浮かんだ。

 純粋な問いを宿す眼差しを向けながら首を僅かに傾げるアナスタシアに、シュタールは続けて言った。


「様、はいらない。シュタールと呼んでくれ」

「……それならば、私も。アナスタシア、と」


 涙を掬った指先の感触に少しだけ鼓動が走るのを感じながら、アナスタシアは囁くようにして答える。

 少しだけ頬に熱を感じながら、小さいけれど確かに己の願いを言葉として紡いだ。


「わかった、アナスタシア」


 シュタールの端整な顔に弾けるような笑みが浮かんだ。

 無邪気とも言える程、明るく温かな笑顔を見て。はにかんだアナスタシアの表情は、それまでとは違って不器用だけれど、とても嬉しそうなものだった――。


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