温もり

 アナスタシアは、与えられた部屋から窓外を見つめていた。

 大聖堂だった城の上層にある部屋からは、街を行く人々の姿を臨むことができる。

 人々が行き交いながら、少しの戸惑いと喜びとを含んだ眼差しを灯りに向けている。

 身体には確かに疲労を感じるけれど、今まで感じた事のない充足感が胸には満ちていた。

 口元にはいつもと違う自然な笑みが浮かんでいることに、本人は無自覚だ。

 少し離れて隣に立ち、アナスタシアが窓外を見る姿を見つめるシュタールはそれに気付き、笑みを深めていた。

 アナスタシアが、ふとある光景に目を留めた。

 幼子がはしゃいで街灯の回りを駆けまわっていて、母親らしき女性がそれに優しく声をかけている。

 やがて、疲れたらしい幼子を、母親は優しい苦笑いをしながら抱き上げた。幼子は満足そうな笑みを浮かべて母に抱かれている。


「……お母様の胸というのは、温かなのでしょうか」


 母子の姿に目を細めていたアナスタシアは、我知らずのうちに呟いていた。

 それを耳にしたシュタールは驚いたように目を見張り、まじまじとアナスタシアを見つめてしまう。

 向けられる強い驚きに気付いたアナスタシアは、自分が無意識に呟いてしまった言葉に気付いて口元を抑えてしまう。

 何ていうことを、と消え入りそうにつぶやくアナスタシアに、シュタールは首を傾げつつも口を開いた。


「母親の胸とは、そういうものではないのか?」

「……アインマールにおいては。或いはアルビオンでも、一般的な家庭ではそうなのかもしれません」


 悲観的な言葉にならないように気を付けるが故に、迂遠な言い回しになってしまう。

 更に怪訝そうな様子を見せるシュタールに寂しげな眼差しを向けながら、何とか笑みを浮かべようとする。

 それが少しばかり悲しい苦笑になってしまっている事に気付けないまま、アナスタシアは言った。


「私は、お母様の胸が温かであったのか、知らないのです」

「母上は、抱き締めてくれることがなかったのか……?」


 僅かに戸惑い口籠りながら問うシュタールに対して、アナスタシアは静かに頷いた。

 何故、と言いたげな雰囲気を感じ取ったアナスタシアは、一つ息を吐いた後に呟く。


「王妃となる為に、必要なことではなかったからです」


 静かで、どこか他人事のように淡々とした声音でアナスタシアは語り始めた。

 アナスタシアの母は、傍流王族の姫だった。

 姉たちはそれぞれに他国の王に嫁ぎ妃となっている。

 だが、母が嫁いだのは如何に公爵家といえ臣下である事には変わらず。自分だけが降嫁であったことを大層不満に思っていたらしい。

 だからこそ、王妃となるに充分な資質を備えた娘に期待を寄せた。自身が王妃として君臨することはできずとも、妃に相応しい子を育て、王妃の母となれるならば、と。

 母は、娘が王妃とすることだけに心血を注いだ。王妃となる為に必要なものは教えであれ、物であれ、人であれ。過不足なく、惜しみなく与えてくれた。

 だが、母がアナスタシアを抱き締めてくれたことは、記憶に残る限りではない。

 何故なら、それは王妃となる為に必要なことではないからだ。

 母の胸は温かであると人は言う。けれど、人がごく自然に知り得ることを、アナスタシアは知り得ない。

 仕方ないと諦めてきたことだった。求めても得られない、追っても届かない、彼女にはとても遠い真実だ。

 アナスタシアの言葉を聞いたシュタールは、暫くの間無言のままだった。

 暖炉の薪が爆ぜる乾いた音だけがその場に響く時が続いた。

 重い空気にしてしまったことに気負いを感じて、アナスタシアが口を開こうとした時、ふと空気が揺れた。

 問いを紡ごうとしたけれど、出来なかった。

 何が起きたのか、すぐには理解出来なかった。

 自分の身に生じた事が、分からなかった。


 ――気付いた時には、アナスタシアはシュタールの逞しい両の腕の中にいた。


「シ、シュタール様……?」

「少しは温かいだろうか」


 アナスタシアの小柄な身体をすっぽりとその広い腕の中に捉えてしまいながら、シュタールは問う。

 怜悧な風貌とは裏腹な、情け深く温かで、優しい声音で。

 だが、問われたアナスタシアはそれどころではない。

 男性に抱き締められたことなど、今まで一度もない。婚約者であるエリオットとて手の甲にキスがせいぜいで、それ以上触れようとはしなかった。

 温かい、どころではないし、そのような問題ではない。

 ただひたすらに、熱い。頬が燃えるように熱く感じる。

 胸が早鐘を打つ。頭の先から足の先まで、どうしようもない律動に支配されている。

 離してくれと言いたいけれど、口を魚のように動かすばかりで声が出てこない。

 広く温かな胸に頬を寄せていることが、戸惑いはあっても不快や恐れに繋がらない事が、不思議でならない。

 どうすればいいのか、どうしたいのか。

 さして力を込めて抱かれているわけではないのに、アナスタシアが心に苦しい、と呟いたその時……。


「何をしてらっしゃるのですか! シュタール様!」


 不意に、怒りの籠った女性の声が響いた。

 すっかり茹でられたように赤くなり、くったりとしてしまっていたアナスタシアは何とかそちらへと眼差しだけを向ける。

 そこには、腰に両手をあてて憤怒の形相を浮かべているフロイデと、深い溜息をつきながら何とも言えぬ表情を浮かべるロイエが居た。

 アナスタシアを腕に抱いたまま、シュタールは現れた臣下達の様子に首を傾げる。


「いや。アナスタシア殿が、母親に抱き締められた事がないというから」


 含みもなにもない、心底不思議そうに呟かれた言葉に、アナスタシアは返す言葉がない。

 しかし、それを聞いたフロイデは更に王を怒鳴りつけた。


「貴方のような逞しい胸板の母親が居てたまりますか! そもそも、そんなに女性に軽々しく触れたり、あまつさえ抱き締めるなんて持ってのほかです!」

「王よ。気持ちは分かりますが、その行いはどうかと……」


 フロイデに落ち着くよう窘めているが、ロイエの呆れ顔と溜息は消えない。

 離してさしあげなさいと側近に言われて、シュタールは漸くアナスタシアを解放した。

 そのまま脱力し崩れ落ちそうになったアナスタシアを、フロイデが慌てて支える。

 フロイデがアナスタシアを椅子に座らせ落ち着けている間、ロイエは渋い顔でシュタールに向き合っていた。


「姉上はよくこうしてくれたから、良かれと思ったのだが……」

「リーリエは貴方にとって血の繋がった肉親ですが、アナスタシア様はそうではないでしょう」


 説教を受けた子供のような表情でシュタールはロイエに反論しようとするが、ロイエは溜息交じりに更に言葉を重ねる。

 参謀ともいえる側近に懇々と教え諭されて、シュタールはまた申し訳なさげにアナスタシアに頭を下げることとなった。

 アナスタシアは曖昧な表情のまま、きにしないでください、と棒読みするしかできなかったが……。

 どうやらフロイデはアナスタシアに茶を運んできて、ロイエはシュタールを迎えにきたようだった。

 ロイエに促され辞去の旨を伝えるシュタールに、アナスタシアはふと気になったことを問いかける。


「お姉様が、いらっしゃるのですか……?」


 シュタールは先程、姉上が、と言っていた気がする。

 彼には姉がいるのだろうか。

 だが、少なくともこの王都に来てからそのような人物を見かけたことはない。会話にのぼったのも、今が初めてである気がする。

 理由があって他所にいるのだろうか、と不思議に思ったのだが。


「……数年前に、病で亡くなった」


 答えを口にするシュタールの表情には、寂しげな色があった。

 傍らのロイエの表情にも、翳りが生じたように感じる。

 触れてはならない話題に触れてしまった、と気付いてアナスタシアが蒼褪める。

 姉がどのような人であったのかは知らないし、どのような家族であったのかも知らない。

 だが、彼が浮かべた表情で、シュタールが姉の死を悼み、哀しみを抱いていることだけは分かったから。

 ごめんなさい、と身体を縮めながら俯くアナスタシア。

 申し訳なさに顔を上げられないままでいたところに、耳に届いたのは優しい声音だった。


「気にしないでくれ。……何れ、話せたらいいと思っている」


 弾かれたように顔をあげてしまって、シュタールを見つめたなら。

 向けられた眼差しは、包み込むような温かなものだった。

 彼は、アナスタシアを見つめて微笑んでくれていた。

 そのまま、アナスタシアとフロイデを残してシュタール達は部屋から去っていく。

 黙って見送り、彼らの姿が見えなくなった後。

 アナスタシアは、思わず両手で口元を覆ってしまっていた。

 シュタールの残した笑みに心がざわめく。

 けれど、それはけして不快なものではなくて。

 何かが心にふわりと拡がるような、何かが灯るような、不思議で温かな感覚だった――。

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