王の願い

 長い話になると思ったのだろう。

 立ち尽くすアナスタシアに、フロイデは椅子を用意し勧めてくれる。

 シュタールが促すように頷いたのを見て静かに腰を下ろす。

 ロイエもまたシュタールへと椅子を用意した。

 シュタールは静かに座ると、アナスタシアへと居住まいを正して向き合う。

 フロイデはアナスタシアの傍に控え、ロイエはシュタールの傍に控える。

 シュタールは語り始めた。

 アインマールの国が存在するのは吹雪の閉ざされた常冬の『白き荒野』。

 太陽がさす事など殆どない土地においては農業とてままならず、飼う事のできる家畜の数とて多くない。

 当然ながら暮らしぶりは厳しく、国の中だけでは人々を支え切れない。だからこそ彼らは生活の糧を、アルビオンとの取引にて頼らざるを得なかった。

 それについては、アナスタシアも知っている。アルビオンの貴族がアインマールを蔑む時によく言っていたのを耳にしたからだ。

 獣人達は自分達の情けがなければ生きていけない、と。アインマールの生命線を自分達が握っていることを嘲笑う者達を、苦々しく見つめたことは今でも思い出せる。

 アルビオンの上層部は、獣人達の国を国として認めていなかった。あくまで属領のように扱っていた。

 目障りに思い、排除したいと思っていた者達もあるようだ。

 だが、厳寒の荒野を進軍することの厳しさと見返りの無さ。加えて、獣人達の戦闘能力の高さ故に踏み切ることはなく。代わりに、相手を雪原の蛮族と格下に貶め続けていた。

 そんな中、ある時、アルビオンの王太子からある要求が突きつけられたという。


「王太子は、心臓石を要求してきた。それも、今あるものを全てかき集めても到底足りない数の石を」

「な……!」


 アナスタシアは言葉を紡ぎきれない程に驚愕する。

 心臓石、それがアインマールの獣人達にとってどんな意味を持つものであるか知っているからだ。

 獣人は死しても遺体が残らない、不思議な種族である。

 だが、死んだ獣人の心臓だけは宝石として残る。それこそが、心臓石と呼ばれる石だ。

 魔術的に貴重な素材である他、純粋に世にも美しい宝石として珍重されているのだ。

 獣人を蔑む人々も心臓石の美しさは認めており、密かに獣人を殺して心臓石を密売するものもいる噂されていた。

 よりにもよって、エリオットはその心臓石を……死した獣人が残す形見ともいえる宝を差し出せと要求したのだ。

 頼りないところはあったが、けして人に理不尽を強いるような人間ではなかったはずの王太子が突きつけた要求にアナスタシアは蒼褪める。

 何故そのような、というアナスタシアの裡に浮かんだ問いに答えるように、シュタールが感情を抑えた低い声音で続ける。


「何でも、妃となった女が心臓石の冠を作りたいとねだったらしい」


 あげかけた叫び声を、必死に抑えた。

 アインマールに向けられた理不尽な要求は、エリオットの妃となった女――アナスタシアの妹のマデリンが原因であると知って、愕然とする。

 王太子妃となったマデリンが、ドレスや宝石をエリオットにねだっているのは聞いていた。だが、何故よりにもよって獣人の心臓石を。それも、そんなに沢山の。

 しかも、身を飾るティアラではなく『冠』と聞いてアナスタシアの問いは深くなる。だってマデリンは王太子の妃だ。冠なんて必要ないはずなのに、どうして……。

 何のために、という問いは駆け巡るけれど答えは出ない。

 屋敷にて身を縮めてうつむいていたマデリン。

 手を差し伸べても振り払い去ってしまった妹。あの日血を吐いて倒れた彼女が、何を思い、何を願っているのか。

 答えを出せるほど、自分は妹のことを知らないのだとアナスタシアは気付く。

 シュタール達も、アナスタシアと心臓石をねだる女ことマデリンが姉妹であることは知っている様子だ。

 呻きながら身体を振るわせるアナスタシアを少しだけ痛ましげに見つめていたが、やがてシュタールは更なる続きを紡いだ。


「そのような数は用意できない、と告げた我々に。王太子は、足りないというなら、口減らしも兼ねて『始末』すればいいだろうと」


 聞いた内容を、すぐには理解できぬほどにアナスタシアは動揺した。

 顔色は、もはや無いに等しいほど失われていて。震える唇は何かを紡ごうとするけれど、空気しか零れない。

 よもやエリオットがそこまで非道な発言をするとは思っていなかったのだ。

 マデリンをひたすらに愛するからといって、可愛い妻の我儘を叶えてやりたいからといって、強いてはならぬ理不尽も分からない程に愚かだったのか。

 国の将来を担う王太子が、そのような発言を他国に対してつきつけるなんて。

 あまりに有り得ない、あってはならない事すぎて愕然としたアナスタシアは、言葉を紡げぬ代わりに揺れる瞳をシュタールに向ける。


「普段から、心臓石を対価にすることにどれだけ我々が苦しんできたか……」


 口惜しげにシュタールの端整な顔が歪む。

 ロイエもフロイデも、揃って俯いたのを感じる。

 心臓石は王国において特権階級に出回る事があった。それは、アインマールから時折物資の対価として差し出される事があったからだ。

 アインマールの多くの男達は他国に傭兵として赴く事で生活の糧を得る為の資金を調達してくるという。

 だが、それすら叶わなくなったら。彼らは家族が残した心臓石を売る選択肢を選ばなければ生きていけない。ささやかな工芸品では、人々を支え得る糧を得るには足りないのだ。

 心臓石は、遺体を残さぬ獣人が残す唯一の形見。それを生きていく糧を得る為とはいえ、対価として人に差し出すことは、どれほど苦痛であるだろうか。

 エリオットは、それをマデリンの我儘を叶えるためだけに、同胞を殺してまで差し出せと要求したのだ。

 当然ながら、シュタールとアインマールの民たちはその非道な要求を拒絶した。

 だがその結果、更なる理不尽が突きつけられることとなってしまう。


「王太子は報復として。……商人達にアインマールとの一切の取引を停止させた」

「何て、ことを……!」


 かろうじて絞り出した非難の声は随分と掠れてしまっていた。

 アルビオンとの取引は、資源に乏しいアインマールにとっては人々の命を支える為の命綱。それを断たれたのだ。しかも、あまりに一方的で理不尽な要求を拒絶したことで。


「それなら……今は、どのように……」

「フロース帝国や遠方に物資の調達に行っているが、大分足元を見られている。……そう遠くないうちに、食料にも事欠く有様になるだろう」


 アナスタシアは震える声で、かろうじて切れ切れな問いを口にする。

 答えるシュタールの声は淡々としているが、その言葉の底には無念や激しい焔のような憤りが隠されているのを感じる。

 理不尽を拒否した結果、更なる理不尽に国が晒されている。その為に、民は緩やかに飢えつつあり、終わりが迫りつつある。滅びの足音は、すぐそこまで聞こえつつある。

 だが、アナスタシアはある事に気付いた。

 シュタールの銀灰の瞳には、王国への憤りと悔しさはあるが、諦めと絶望は見られない。

 むしろ、何かに賭けようとする悲痛なまでの意思を感じるのだ。

 そこで、アナスタシアは一つの可能性に思い至る。


「まさか。……『聖女』と引き換えに、交渉を持ちかけるおつもりで……?」


 浮かんだ可能性は、シュタールがアナスタシアを交渉の材料として、物資の取引を再開させようとしているということだった。

 聖女とは、条件を満たし相応しいと国が認めた人間に与えられる公の称号であり、王家と共に国の威信を背負う存在ともいえる。

 民にとっては、王家に寄り添う崇拝の象徴でもあるのだ。

 その聖女を対価とされたならば、国としては交渉の席につかざるを得ない。狙いとしては間違ってはいない――アナスタシアが、今もなお『聖女』であったならば。

 そこまで考えた時、アナスタシアは深い溜息を吐いた。

 努めて平然であろうとしてひどく複雑な表情になってしまっている気がする。けれども、アナスタシアはその事実について口にしないわけにはいかない。


「私は聖女と呼ばれて『いた』者です。今の私に、聖女としての地位も価値もありません」


 アナスタシアは俯きながら、低く囁くような声でその事実を告げる。

 確かにかつては聖女を呼ばれていたが、王宮を追われ屋敷の片隅に幽閉された段階でもはや形骸と化しており、王太子妃毒殺未遂の罪人となったことで正式に称号は剥奪された。

 だから、今のアナスタシアは。


「今の私は、王国を追放された罪人でしかないのです。私を交渉材料にすることはできないと思います」


 罪人として王都を追われ辺境の監獄に収監されるはずだった、無価値なものでしかない。

 公爵家に交渉を持ちかけたとしても同じ事だ。追放された罪人など、あの人たちにとっては家名を汚す恥でしかない。交渉に応じることは有り得ない。

 アナスタシアは、今は何の対価にもなり得ないのだ。

 室内に、重苦しい沈黙が満ちる。

 だが、言い終えて唇を引き結んでしまっていたアナスタシアの耳に飛び込んできた思いもよらぬ言葉が、それを破った。


「俺は貴方を王国との交渉の為に攫ったのではない」


 咄嗟に、戸惑いの声が零れそうになった。

 聖女としての価値以外で、何をこの身に願うというのだと、怪訝に思ってしまう。

 恐る恐る顔をあげて見上げた先には、真っ直ぐに自分を見つめる真摯な眼差しがあった。


「追放されようが、称号が失われていようが。それでも貴方に、聖女と呼ばれるだけの魔力と叡智があることには変わりはない」


 揺れる眼差しを真っ向から受け止めながら、シュタールは静かに言葉を紡ぐ。

 何も無いはずのアナスタシアに、獣人の王は価値があるというのだ。それは、アナスタシアにとっては先程までとは違う意味で心を震わす衝撃だった。

 呆然と見つめるアナスタシアへと、シュタールは続ける。


「俺が望むのは、この地に春を呼ぶことだ」

「春、を……?」


 鸚鵡返しに呟くアナスタシアに、シュタールは深く頷いて見せる。

 吹雪に閉ざされ続けた、常に冬の白き大地に春を呼ぶ。その意図をすぐには理解できずに、アナスタシアは目を見開いたまま、シュタールを見つめるしか出来ない。


「この地には資源と呼べるものは殆どないし、作物とて碌に収穫できない。探すことも作ることもできないのは、ひとえにこの地が常に冬に閉ざされているからだ」


 雪に覆われた大地では、作物を育てることはできない。

 極寒の厳しい環境下では、資源となり得るものを探すこととて難しい。

 女達の工芸品や、男達が傭兵として稼いでくる金だけでは頼りなくあり、不安定である。

 それらに頼る限り、国としての将来は先細りだ。


「王国からの物資に頼り続けるならば、アインマールに未来はない。たとえ取引を再開させられたとしても、根本的な解決にはならない」


 今のままでは、例え今回は物流を再開できたとしても、命綱を握られている状態なのは変わらない。王国側の意向一つで簡単にアインマールは困窮することになる。

 シュタールは一度苦痛の表情で大きく息を吐くと、顔をあげた。

 そこには、毅然とした決意の表情があった。


「だからこそ、この地に春を呼びたい。国を、他に頼らず続いていけるようにする為に」


 春を呼び、大地に緑を取り戻したい。この国で畑を耕し作物を得て、土地に未来と可能性を見出したい。

 切望の籠る声音で、シュタールはアナスタシアに告げた。


「何故にこの地は雪に閉ざされているのか。何故にこの地から春が失われているのか。それを探り、原因を突き止めたい。その為には、貴方の魔力と叡智が必要だ」


 この土地が雪に閉ざされたのは何時の事なのか、もはや定かではない。

 多くの歴史を遡っても、この荒野の名は白の色と共に記され続けている。かつては違ったのか、それとも最初から雪に閉ざされていたのか、それを知る事すら出来ない状況だ。

 けれど、この獣人王は原因を探りあてたいという。

 原因があるという確証はないと言えるのに、それでも挑みたいと。

 過去に始まりともなる根源を探しだし、この地に、国に、人々の未来を繋ぐために春を呼びたいのだと……。

 あまりに真剣であり迷いのない、真っ直ぐな眼差しに気圧されるような心地がする。

 シュタールは、アナスタシアへと静かに頭を垂れた。


「無理やり連れてきた上で、と言われるのも覚悟の上だ。どうか、この地に春を呼ぶために力を貸して欲しい」


 アナスタシアはすぐに応えることが出来なかった。

 傍らのフロイデや、ロイエが息を飲みこちらを見つめているのを感じる。

 願われた内容を理解したならば、出来るのか、と裡に問う声がある。

 あまりに途方もない試みであり、勝算の低い賭けだ。あまりに現実味のない絵物語だ。

 今、アナスタシアを見る彼らの眼差しに宿る期待はいつか諦めに代わり、言葉は何れ蔑みに変わるだろう。

 けれども、アナスタシアにもう他に行ける場所はない。

 この地がアナスタシアを必要とし、求めてくれるのであれば。誰からも見捨てられた価値なき自分に、今暫くの間であっても価値を少しでも見出してくれるのなら……。


「必ず期待に沿えるとは言えません。それでも……?」


 気が付けば、低く囁くような声音でそう呟いていた。

 尚も誰かに必要とされることに縋ろうとしている自分を、浅ましいとも思う。自分の足で立てない自分を、自分を信じられない自分を情けないとも思う。

 けれどもこの人は、アナスタシアにはまだ残されたものがあると言ってくれた。

 その言葉が、不思議なほどにアナスタシアの空虚な裡に響いたのだ。

 切れ切れに呟いたアナスタシアの言葉を聞いたシュタールの顔に、喜色が宿る。

 獣人の王は、微かに明るさを帯びた眼差しを向けて一度大きく、静かに頷いて見せた。

 向けられる眼差しには、確かな心がある。

 アナスタシアは、瞳を一度伏せ、再び開いた。そして。


「貴方に、協力致します」


 その言葉は、自分でも思いもよらぬほど穏やかで落ち着いた響きを帯びていた。不思議な程に、滑らかに口から紡がれた。

 浮かべ慣れてしまった柔らかな笑みを浮かべながら、アナスタシアは静かに告げた。

 アナスタシアの言葉を聞いたシュタールの顔が、漸く先程までの苦痛に耐えたものから変化する。

 怜悧すら思えた雰囲気が雪解けを迎えたように緩み、温かな笑みが浮かぶ。


「ありがとう、アナスタシア殿」


 思わず惹きつけられていたアナスタシアへと、シュタールは手を差し出した。

 アナスタシアが知る男性の手とは違う、武骨な手。

 優雅に手を取るではなく、握手を求めるように無造作なまでに差し出された手へと。

 アナスタシアは静かに、希望と諦めを同時に宿す心を覆い隠す笑みを浮かべたまま。

 そっと、手を差し伸べたのである――。

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