常冬の王国

 今は春だというのに、据えられた暖炉では勢いよく炎が爆ぜていた。

 燃え盛る焔が健闘していても、少しでも熱から遠ざかれば肌寒く感じる。

 窓辺に立つアナスタシアは、無言のまま分厚い二重の硝子越しに外を見つめた。

 見える景色は白い色に覆われていて、ここが本当に常冬の国であるのだと実感する。

 彼女は今、吹雪に閉ざされた常冬の荒野……伝え聞くのみだった『白の荒野』と呼ばれる地にある獣人達の国にいるのだ。


「アナスタシア様、もう起き上がられても大丈夫ですか……?」

「もう大丈夫です。しっかり休ませてもらったので、もう何ともありません」


 声をかけられて、アナスタシアは微笑みながら振り向いた。

 白くぴんと張った長い耳を持つ女性の姿がある。

 柔らかく波打つ髪を緩くまとめた、優しそうな緑の瞳。素朴な雰囲気を持っている彼女の顔には親しみやすそうな笑みがある。

 アナスタシアの世話をしてくれることになった女性であり、名をフロイデという。見てもわかるが、兎の獣人であるとのことだった。

 彼女の話によると、アナスタシアはアインマールに到着して暫く眠り続けていたらしい。

 いつ、どのようにして未知の国に足を踏み入れたのか。アナスタシアに、アインマールに到着した時の記憶はない。

 罪人として追放される途中盗賊の襲撃を受け、窮地に陥っていたところを白銀の獣人王に救われた。

 あの後、シュタールは言葉を失っているアナスタシアを突然抱えたかと思えば、人にはあり得ざる速さで駆けだした。

 横抱きではなく、文字通り肩に抱えて。

 事態の目まぐるしさに加えて、尋常ではない速さにさらされ、揺られ続けたアナスタシアは途中で気を失ってしまったようだ。

 次に目を覚ました時、アナスタシアは既にアルビオンから離れたアインマールに居た。

 毛皮や羊毛で織られた布にて精一杯温かく、少しでも心地よくと配慮されたのを感じる木造りの寝台に寝かされ、傍には心配そうにこちらを伺う獣人の女性の姿があった。

 聞いたところによると、魂が抜けそうな程蒼い顔で気絶しているアナスタシアを、荷物のように抱えて帰還したという。

 出迎えた皆は、揃って驚愕して絶句したという。

 我に返ったフロイデは激怒したそうだ。女性に何たる扱いをするのだと。

 付き従っていた人間達に止めなかったのか、と怒ったものの。そもそも、一行の中で最も優れた身体能力を持つシュタールが全速力で駆けだしてしまったので、離されないようについていくだけで精一杯だったとか。

 幼馴染でもあり、長くシュタールに仕えているという侍女は沈痛な面持ちで頭を下げた。


「シュタール様は、普段周りに男性か、男性に肩を並べる女傑しかいないので……。淑やかな女性の扱いには屯と慣れていなくて……」


 世の女性が全て貴方の周囲にいるような女傑ではないのだ、と言って聞かせていたのにと苦い顔をするフロイデ。

 日頃の彼女の苦労が伺える様子に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。

 フロイデの話からするとシュタールに悪意はないのだ。

 彼は、ただ日頃周囲の女性に何気なくそうしているようにアナスタシアを扱っただけであり、アナスタシアがそれに耐えきれなかっただけなのだ。

 それはそれでどうなのか、と思わないでもないが、ここはアルビオンではない。価値観も風習も違う地だ、ただ野蛮だと非難することもできまい。

 もっとも、フロイデの様子からして、それが獣人にとって当たり前という訳でもないようではあるが……。


「きつく言って聞かせておきましたので、ご容赦下さいませ……」

「いえ、その……お気になさらず……」


 拳を握りしめつつ改めて頭を下げるフロイデを見て、アナスタシアは恐縮してしまう。

 来た経緯はどうあれども、丁寧に接してもらっている。

 アナスタシアに与えられていた部屋は、造りこそ質素であるものの、快く過ごせるようにと様々な配慮が為されていた。

 清潔に整えられた室内に、絶やされることのない火。絹よりもよほど温もりを感じる布地の寝台。せめてもの慰めに、というように置かれた小さな工芸品。

 家畜を育てることも難しい地において、羊毛を紡いで織りあげた布は貴重なはずだ。狩りにて獣を得ることもそう容易ではあるまい。

 なのに、それらを惜しむ事なくアナスタシアにと提供してくれている。少なくとも粗末に扱う心算は感じない。むしろ、尊ぶ賓客のように丁重に扱われているのを感じる。

 アインマールに到着してから、今日で三日ほど経過していた。

 最初は見知らぬ獣人達の只中に放り出された心地で、緊張に身を固くしてしまっていた。

 だが、今後貴女様のお世話をさせて頂きます、と微笑んでくれたフロイデの温かな笑顔と献身的な態度とに、多少心の強ばりは解れたように感じる。

 少なくとも、一先ずの笑みを浮かべることが出来る程度には。

 アナスタシアをここに連れ来た王は、フロイデにアナスタシアを任せると慌ただしく出立したという。何でも、少し離れた場所にて事故が発生し、その対応に向かったとのこと。

 そろそろお戻りになる、と今朝方フロイデは言っていた。戻られたら、今回アナスタシアをこの国へ連れてきた理由を話すだろうと。

 シュタール王の真意は分からない。何故にこの常冬の国に連れてこられたのも今は謎。

 だが、感じる心遣いの数々に、緊張は続くものの、不思議と恐ろしいとは感じないのだ。

 ひたすらに申し訳ない、と謝りつづけるフロイデを、アナスタシアが制していたその時。

 少し控えめな様子で、扉を外から叩く音が聞こえた。

 フロイデはそれが誰によるものか見当がついていた様子で、扉に歩みより静かに開くと同時に外へと声をかけた。


「どうされました、ロイエ様」

「フロイデ、聖女様とお話することは可能ですか?」


 そこにいたのは、やや年嵩の男性だった。

 明るい茶の獣耳を持つ、落ち着いた声音と口調の男性である。剣を佩いてはいるが、どこか文官を思わせる雰囲気がある。

 フロイデの呼び方からするに、それ相応の地位にあることが察せられる。

 兎の獣人の女性は、ちらり、とロイエと呼ばれた男性とその背後に視線を向けた。

 そして一呼吸おいてから、盛大に溜息を吐いてみせつつ口を開いた。


「……静かにお話なさるというなら」

「ということです。さあ、シュタール様」


 それを聞いた瞬間、アナスタシアの肩が目に見えて跳ねた。

 開ききっていなかった扉の向こう、ロイエの影になって見えなかった場所にもう一つ人影があることに気づいたからだ。

 それは他の誰でもない、アインマールの王シュタールだった。

 フロイデと言葉から察するに、早々に対応の目途をつけ、強行軍にて帰還したらしい。

 断りを入れて、シュタールはロイエを従えて室内へと足を踏み入れる。

 そして、アナスタシアから少し距離を置いて立ち止まると、真っ直ぐにアナスタシアを見据えてきた。

 アナスタシアとシュタールは、初めてあった時のように正面から向き合うことになる。

 あの時も圧倒され息を飲んだが、改めて対面するとやはりその威容に圧倒されてしまう。

 息をすることも躊躇うほどに緊張してしまったアナスタシアを見て、シュタールは暫し沈黙していた。

 だが、やがて意を決したという風に口を開く。


「その。……申し訳なかった……」


 思わず、目を瞬いてしまった。

 突然、シュタールはアナスタシアに対して頭を下げたかと思えば、謝罪の言葉を口にしたのである。それも、自らの行いを悔いるような、非常に沈痛な面もちで。

 アナスタシアは一瞬唖然としてしまったが、すぐに慌てながら頭をあげるように願う。

 確かに経緯について色々思うことはあるものの、仮にも一つの国を統べる人間に、こうまでされては気が引ける。


「配慮が足りなかった。本当に、申し訳ない」

「……貴重な経験をしたと思う事にします」


 重ねて謝罪するシュタールに対して、アナスタシアは何とか笑みを浮かべながら言う。

 嘘ではない。人には有り得ざる速さで荒野を駆け抜けるなど、アナスタシアには到底無理なことだ。

 未知の世界を体感できたと思えば、確かに貴重な体験ではあると思う。耐えきれなかったという事実を置いておくならば。

 少しばかりぎこちない笑みになってしまったものの、恐縮しないで欲しいという意図は伝わったようだった。

 苦笑いして感謝を口にしたシュタールは、次いで表情を引き締めた。

 そして、アナスタシアの瞳を真っ直ぐに見つめながら告げる。

「貴方に話があってきた。……貴方を、この国に連れて来た理由について」

 銀灰色の眼差し受け止めたアナスタシアは、思わず目を見張る。

 それはアナスタシアも知りたいと思っていた事だ。

 何故、シュタールはあの場に現れたのか。そして、シュタールは何故にアナスタシアをアインマールへと連れ去ったのか。


 ――『我らが国の為、貴方を攫いに来た』


 アインマールの為、とシュタールはあの時言ったのだ。

 それが何を示しているのか聞きたい。大きく動いたアナスタシアの運命に関わる、その理由を知りたい。

 知らないということは恐怖にも繋がる。

 歓迎されているように思える今の状況も、語られる言葉次第では一気に揺らぐことだって有り得るのだから。

 アナスタシアは、シュタールを見つめながら静かに一度頷いた。

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