冤罪
案内されて向かった先。王宮の庭園に設けられた席にて、妹は姉を待っていた。
お腹は目立つ程には見えなかったが、家にいた頃より顔色もよく肌の艶も増している。
何よりも家では見られなかった笑顔は、愛されていることによる自信が満ちていた。
アナスタシアが姿を現すと、マデリンは喜びながら立ち上がり出迎えた。
朗らかに笑う妹を見て、強張り続けていたアナスタシアの表情が少しばかり緩む。
裏切りの衝撃はまだ癒えたとはいえないけれど、かつて笑顔を見せることのなかった妹が笑えているのなら。それはせめてもの救いなのではないか、と思って。
あまりにささやかで惨めな救いではあるけれど、と心の中に苦いものはある。
だが、マデリンが少しでも歩み寄ろうとしてくれた事は素直に嬉しいと感じた。
マデリンを糾弾できる性格であれば、まだ楽であったかもしれない。けれどアナスタシアは、柔らかな……曖昧な笑みを浮かべながら相槌を打つしかできなかった。
マデリンのお腹の子供は順調だという。このままであれば、月が満ちれば元気な赤子が生まれることだろうと、妹ははにかむ。
侍女が淹れた茶を二人で口にしながら、話題は当たり障りのないものばかりだった。
落ち着いた穏やかな時間が流れている故か、核心に迫る話題をアナスタシアもなかなか自分から切り出せない。
マデリンも同様なのか、自然と話題は何気ないものが続いていた。
それでも、何時までも避け続けるわけにも、目を背け続けるわけにはいかない。
アナスタシアが意を決して、かつての騒動について言及しようとした、その時だった。
妹の口元に紅い花弁が散った、一瞬そんな錯覚をしてしまう。
すぐに陶器が割れる薄く甲高い音、次いで何かが崩れ落ちたような鈍い音が響いて。
侍女達の悲鳴と共に、その場が俄かに慌ただしくなる。医者を呼ぶ声と、走り寄る荒々しい靴音が聞こえる。
何が起きたのか、全く分からなかった。目の前で起きている出来事が理解できなかった。
呆然としていたアナスタシアだったが、すぐに弾かれたように我に返る。
微笑みながら語り合っていたはずのマデリンが、口から血を吐いていた――そう気付いた瞬間、アナスタシアは急いで妹の傍に膝をついて抱え起こそうとした。
否、抱え起こそうとした。
急に強く両腕を引かれ、引きずられるようにしてマデリンから引き?がされる。
何を、と声をあげながら視線を向けると、兵がアナスタシアを拘束しているではないか。
何故王宮の兵士たちがアナスタシアを捕らえるのか。
今はそれどころではない。一刻も早くマデリンの状態を確かめて治療しなければならないのに、と一瞬唇を噛みしめたものの、すぐに離してくれと叫ぼうとした。
だが。
『お姉様……どうして……。私は、仲直りできたら……って……』
耳に届いたのは、弱弱しく掠れた声の、切れ切れな言葉だった。
どうして、とはどういう事なのかと問いたい。
何故と問いたいのはアナスタシアの方だ。
そのような言い方をされたら、それはまるで……。
『王太子妃様が、姉上に毒を盛られたわ……!』
『元聖女様が、王太子妃様を殺そうと……!』
――アナスタシアが、マデリンに毒でも盛ったようではないか……。
脳裏に浮かんだ考えを裏付けるように、周囲の侍女達が次々に狂乱を帯びた叫び声をあげた。必死に血で口元を染めて倒れ伏したマデリンの名を呼び、周りに群がる。
アナスタシアは自分を拘束する兵士達に蒼褪めながらも必死に叫んだ。
『治癒をさせて下さい……! 今ならまだ……!』
『そんなことを言って、トドメをさすつもりだろう! 信じられるか……!』
どれだけ抵抗しても、兵士たちはアナスタシアを拘束する手を緩めない。
次々に集まる人々の壁により視界は阻まれ、妹の姿は見えなくなっていく。
それでも、と懸命に妹のもとに駆け付けようとするアナスタシアを兵士たちは引きずるようにしてその場から連れ去ろうとする。
尚も抵抗するアナスタシアを、兵士たちは苛立ったように殴りつける。
痛みに視界が真っ白になり衝撃に倒れ伏したところに、罪人のように縄を打たれた。
地を引きずるようにして庭園を後にさせられたアナスタシアの目に、もう妹の姿は見えなかった。
アナスタシアは、何が起きたのかも分からぬまま地下牢に入れられた。王太子妃であるマデリンを毒殺しようとした罪人として。
濡れ衣だと幾ら訴えても、マデリンの治療をさせてくれと叫んでも、誰も聞く者はない。
一体何が起きたのだろう、と一筋の光もささない薄暗い地下牢で問い続ける。
マデリンが吐いた血の色が焼き付いて離れない。
姉を責める言葉を残したマデリンは、果たして無事なのか。それすら知る事ができないまま、焦燥の時間は過ぎる。
どれだけ時間が経過したのかわからないが、やがてアナスタシアは牢から出された。
罪人として縄で戒められたまま、病床の国王に代わり国政を担うようになっていたエリオットの前に引きずり出されたのだ。
平伏させられたアナスタシアを見るエリオットの目には、かつて婚約者として見つめていてくれていた時のような温かな色は存在しなかった。
このような顔も出来たのか、呆然とするほどに毒々しい、憎しみに満ちた眼差しでアナスタシアを見下ろしていた。
エリオットは眦をつりあげながら、叫ぶ。
マデリンは命をとりとめた。だが、腹の子は助からなかったという。
王太子妃であるマデリンに毒を盛り、王家の跡継ぎとなったかもしれない子を害した罪は許されない。このまま断頭台に送ってやる、とエリオットは宣告した。
あまりに一方的な断罪に、アナスタシアは顔色を失う。
王族を害したというならばそれは確かに極刑に値するだろうが。それもまた取り調べを行った上で罪に問うべき話である。
裁判にかけられることすらないのか、と愕然としたのも少しの間のことだった。アナスタシアは、出来得るかぎりの強さで。震えそうになる声を必死に抑えながら口を開いた。
そもそも、あの席を用意したのはアナスタシアではないし、茶を注いだのだって侍女である。マデリンのカップどころか茶のポットに触れてすらいないあの状況で、如何にすればマデリンに毒を盛れるというのだろう。
それを必死に訴えたものの、愛しいマデリンを害され子を失い、怒り狂うエリオットは聞く耳を持たない。侍女を買収でもしたのだろうと、証拠を提示することもなく決めつけて怒鳴り続けた。
その場にいる人間は、誰もエリオットを制止しない。
エリオットの剣幕に口を出せないのもあるだろうが、縄を打たれたアナスタシアに対する視線はあまりに冷え冷えとしたものだった。
その場にいる誰もが、アナスタシアがマデリンを殺そうとしたことに疑いを持たないのだと気付いて愕然とする。
アナスタシアが捕らえられたと聞いても、父母は異議を唱えるどころか、姿を現すことすらなかった。
王太子妃を害そうとする恐ろしい罪人が我が公爵家の人間であるはずがない、と妹に付き添い続ける両親は言い放ったらしい。
当家に縁もゆかりもない罪人の処遇は、王太子殿下にお任せしますというのが両親の意向であるという。
裁きとも言えぬ、あまりに一方的な断罪だった。
そのまま、アナスタシアは断頭台に送られるかと思われた。
だがその時、一人だけ王太子の結論に異を唱えた人間が居たのだ。
エリオットの異母兄である、セオドアだった。
国王の第一王子でありながら、出生に事情を抱えるが故に王太子の地位を与えられることはなく。王宮にいる時ことより歓楽街にいることの方が多い、周囲も手を焼く放蕩者と言われている王子である。
セオドアは、碌な審議もせずにアナスタシアを処断した場合に起こり得ることについて考慮しろ、と訴えた。お前は国外に巨大な敵を作る気か、とも言っていた気がする。
アナスタシアにはそれが何を示しているのかわかったものの、言われたエリオットは何の事であるのか全く気付いていない様子だった。
頑なにすぐに処刑を執行させようとするエリオットにセオドアは、アナスタシアは仮にも聖女の地位にあった人間であると主張した。
そんな人間を裁判もなしに処刑してはアルビオンの国威にも関わる、と日頃の放蕩ぶりが嘘のような真摯さで訴え続ける。
エリオットが異母兄に対して声を荒げかけた時、侍女がその場に飛び込んできた。
マデリンがエリオットを呼んでいる、という報せを持って来たのだ。
糾弾は一時中断され、アナスタシアは再び牢へと引きずり戻される。
そして再び牢から出された時には、アナスタシアは死を覚悟していた。首を落される時がやってきたのだと。
だが、エリオットから宣告されたのは思いもよらぬ言葉だった。
元聖女アナスタシアを王国から追放し辺境の牢獄にて幽閉する、と……。
呆然として言葉を失うアナスタシアに、エリオットは顔を歪めて続けた。
他でもない毒を盛られた被害者のはずのマデリンが、涙ながらに訴えたのだという。
如何に罪人であっても唯一人の姉だと。せめて命を奪うことだけは勘弁して欲しいと。
子を奪われた哀しみを堪え、涙を零しながら切々とエリオットに懇願したのだと。
エリオットはマデリンの慈悲深さに心を打たれたと涙ぐみすらしながら、アナスタシアに国外追放を言い渡した……。
元聖女、偽りの聖女と蔑みと憎しみを込めて罵る人々の暗く歪んだ眼差しにさらされながら、アナスタシアは罪人を護送する馬車にすぐさま押し込まれることとなる。
何の申し開きの場も与えられることなく。何をいう気力すら失ったまま。
犯してもいない罪にて過去も未来も失った罪人として、辺境の地に送られることとなったのだ……。
そのまま、荒れた道を馬車で揺られながら進むだけだった道行きに、異変が起きたのは王都から離れて暫ししてからだった。
アナスタシアの乗った馬車は、盗賊の集団に襲撃されたのである。
お義理程度につけられていた最低限の護衛は早々に逃げ出し、御者は声をあげる間もなく命を奪われた。
引きずりだされたアナスタシアは、自分を見つめる下卑た数多の眼差しに、蒼褪め思わず息を飲む。
盗賊達は、売り飛ばす前に精々楽しむか、と嘯きながら手を伸ばしてくる。
アナスタシアは、伸びてくる手をすり抜けながら必死に逃げた。
けれども、相手は多数の男であり、アナスタシアは武器も持たぬ女。あっという間に、逃げ場のない場所へと追い詰められてしまう。
魔力こそ強く、治癒には長けるものの、アナスタシアは戦いの技を有さない。
強い魔力を有するが故に、人に魔力を以て攻撃できないのだ。
それは精神的な自制だった。自分が魔力にて人を攻撃すればどれだけの害が及ぶかを理解するからこそ、裡に制約が生じているのだ。
出来るのは、防壁を造り男達が近づこうとするのを防ぐことだけ。
せめて可能な限り男達の接近を拒もうとした瞬間、それは起きた。
張り巡らせた防壁が、硝子が割れるような甲高い音を立てて打ち消されたのだ。
何事がおきたのだと唖然とするアナスタシアの目に、男達の一人が持っているある道具が目に入る。
あれは……と目を見張った瞬間が仇となる。
身を強張らせた隙を狙い、男の一人がアナスタシアの手を捕らえ、引きずり倒す。
なすすべもなく男達に囲まれながら、地面に倒れ伏すアナスタシアは、痛みと衝撃に顔を歪める。
聞こえる野卑な笑い声を危機ながら、おかしい、とアナスタシアは感じていた。
この男達は、確かに風体は確かに盗賊だ。
だが、辺境の街道を荒らす盗賊が、何故高度な『魔力封じ』の道具を持っているのだ。
王都でもそれなりの地位にある人間にしか手にすることは許されないはずなのに。
それに、皆揃って薄汚れて荒々しい風体ではあるが、その中に一人だけ。
調度、男達に指示を出している司令塔とも言える人間の動きが、妙に洗練されているように思えるのだ。
疑問は尽きなくとも、アナスタシアは自分の命運が付きたのを感じた。
近づいてくる気配に、顔を歪めて目を閉じた、その時だった。
突如として、野太い男の悲鳴がその場に響き渡った。
何事が起きたのかと問う声はすぐさま悲鳴に代わり、また倒れる鈍い音。
何が、誰が、と叫ぶ声もまた同様の流れを辿っていく。
一体何が起きているのだろうと、アナスタシアは恐る恐る目を開いた。
拡がり行く視界の中で、強い風に煽られながら血飛沫が舞い、呻き声と共に男達が一人、また一人と倒れていく。
銀に輝く風が次々とならず者達の間を吹き過ぎ、紅が散る。
否、それは風ではなかった。風のように俊敏な人影だった。
人影はやがて、魔封具を持っていた男を、そして逃げようとしていた司令塔の男をも切り伏せて。
手に武器を持ち動く相手が自分以外にいなくなったのを確かめて、おもむろにアナスタシアのほうを向いた。
視界に映ったのは流れる銀色。白銀の人影。
その人影をしっかりと眼差しにて捉えた時、アナスタシアは思った――白く凍てついた冬を体現したようなひとだ、と……。
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