巡る追憶

 ――巡る追憶で、アナスタシアは一人だった。


 かつては確かに多くの人に囲まれ暮らしていたはずなのに、その頃のことがもう思い出せなかった。周りにいたはずの人々の顔も、既におぼろげになってしまっていて。

 アナスタシアは粗末な小屋にて一人で過ごしていた。

 身の回りの世話を焼いてくれる人間はいない。

 誰とも言葉を交わさず。何をするでもなく、窓をぼんやりと眺める日々を送っていた。

 かつては刺繍を嗜みもしたが、今は針を持つといえば破れた衣服を繕う時ぐらい。

 本を読む事も、絵筆を持つ事もない。歌を口ずさむ事も、楽器をかき鳴らす事もない。

 小屋には、何も無いからだ。生活に必要な最低限の品がおざなりにあるだけで。

 気の毒に思った使用人が食事とお下がりの衣服を差し入れてくれる事が慈悲である暮らしの中、小屋には無聊を慰めるようなものは何一つ存在しない。

 小屋を囲む樹々の合間に豪奢な屋敷――アナスタシアの父母が暮らす場所が垣間見える。

 両親は勿論娘がこの小屋に暮らしていることを知っている。この場所に暮らすよう申し付けたのは他ならぬ両親である。

 死なない程度に最低限のものを与えておけ、と扉の向こうで命じているのを聞いて以来、二人とは顔を合わせていない。

 立ち上がり窓へと歩み寄ろうとしたアナスタシアは、壁にかかっていた鏡を覗き込む。

 そこには、曖昧な笑みを浮かべてはいるものの感情の色の伺えない、人形のような表情をした一人の娘が映っている。

 くすんだ紅茶色の髪に、はしばみ色の瞳。髪の毛は父に似た。瞳の色は母に似た。けれど、二人はアナスタシアを見ると溜息を吐く。

 太陽に当たる事が殆どない為に、肌は色こそ白いがやや病的ですらある。

 ことさら不細工とは思わないが、際立って美しいとも言えない顔立ちだと思う。

 そう、あの華やかで美しい妹とは大違いだ、と心の中で自嘲気味に呟く。

 人は、アナスタシアを『地味』というが、まさしくその通りだと自分でも思ってしまう。

 大輪の華のようであった妹と比べたら、人は尚更そう思うだろう。

 今、王太子の妃となった妹は王宮に暮らしている。

 アナスタシアがかつて、何れ王太子妃になる者として暮らしていた場所で……。




 アナスタシアは、アルビオン王国の公爵家に生まれた。

 アルビオンは、女神とも称される強大な魔力を持った女王に開かれた、自然の恵みに満ち溢れて栄える王国である。

 魔法が生活の中にある事が当たり前であり、王都全体に魔力を循環させる魔術回路が巡らされているため、魔力が比較的少ない人間でも恩恵を受けられるように出来ている。

 父はその王国において権勢を誇る公爵家の主であり、母は傍流王族の姫だった。

 アルビオンにおいて、支配階級である王族や貴族はそれぞれに強い魔力を持ち合わせるのが常である。

 その例に漏れず、貴族と王族の結びつきで生まれたアナスタシアは、生まれながらに目を見張る程の魔力を有していた。

 そして、強い魔力を持つ者を歓迎する王室に迎えられる事が自然と定まり、幼い頃から王太子の妃になるべく王宮にて育てられることとなったのだ。

 時から特に治癒に長けた強い魔力を持ち、精霊の声を聞く事が出来たアナスタシアは成長するにつれて、聖女の称号を与えられた。

 両親から必ずや将来の王妃にと多大な期待を寄せられ。家の為に一族の為に、学びを修め、完璧な聖女であり王妃となる事を求められた。

 息苦しくはあったけれど、けして不満に思うこともなく、苦痛と思う事もなかった事は覚えている。

 アナスタシアには、妹が一人いる。

 マデリンという名の妹は、一族には珍しい輝く黄金の巻き毛に蒼穹を写し取ったような蒼い瞳を持つ、咲き誇る大輪の花を思わせる華やいだ美貌を持つ少女だった。

 だがその反面、貴族において当然に求められる資質――魔力には恵まれていなかった。

 彼女が魔力を殆ど有さないと知った途端、父と母はマデリンを失敗作や落ちこぼれと蔑み、虐げるようになる。

 母に至っては「人生の汚点」とまで言う始末であり、言葉だけではなく人前であっても平然と打ち据えた。

 顔しか取り柄がないのだから、愛玩用にでもくれてやるしかあるまいという父を幾度宥めただろう。

 マデリンが怪我をしていないことは、記憶にある限りではなかったと思う。

 教育と聖女の務めで忙しい合間を縫って屋敷に帰るたびに、アナスタシアは妹を庇い続けた。魔力があろうが無かろうが、アナスタシアにとっては唯一人の妹だから。

 けれど、せめて自分だけは最後までマデリンの味方でありたいと願い続けた姉を、妹は暗い眼差しで見つめたまま手を振り払い逃げていってしまう。

 妹との距離を縮めることが叶わないまま妃教育が終わりを告げ、そろそろ正式に婚礼を挙げる支度を始めようかという頃のある日。

 アナスタシアの世界は、突如足元から崩れる事になるのだった。

 夫となるはずだった王太子エリオットから、突然の申し出があったのだ――君との婚約をなかったことにして欲しいと。


『君には済まないと思う。けれど、私は真実の愛を見つけてしまったのだ……』


 申し訳なさそうに視線を逸らしながら言うエリオットは、見違える程に美しく装ったマデリンの肩をしっかりと抱いていた。

 エリオットは、マデリンを妃に迎えることにしたと告げた。

 あまりに脈絡のない話に呆然として言葉を返す事もできないアナスタシアに向けて、エリオットは更なる爆弾を落したのだ。

 何と、マデリンはエリオットの子を身籠っているのだという。

 二人がいつの間にそのような深い仲になっていたのか。全く気付かなかったことに言葉を失っていたが、更には腹に子までいると聞くに至って開いた口が塞がらなかった。

 思わぬ裏切りに目を見開き絶句しているアナスタシアに、エリオットは言う。

 建国の祖の再来とまで言われる魔力を有し、王太子妃として完璧な素養を持つアナスタシアの存在が重かったのだと。

 マデリンはそんな彼の心に寄り添い癒してくれた、かけがえのない存在なのだと。そしていつしか相思相愛となり、深い仲となっていたのだと。


『お姉様、ごめんなさい。でも、私はエリオット様を……』


 エリオットに肩を抱かれながら俯くマデリンの口元に、笑みが浮かんでいたように見えたのは気のせいだっただろうか……。

 アナスタシアが受けた衝撃が覚めやらぬうちに、周囲は呆気ないほどあっさりとマデリンを王太子妃にすることを認めた。

 マデリンが王太子妃と決まった途端両親たちは揃って手のひらを返し、魔力はなくても優しい心映えで王太子を支える素晴らしい娘だと持ち上げ、一族の宝とまで呼ぶように。

 対してアナスタシアを、恥ずべき役立たず、魔力をひけらかす高慢な娘と蔑むようになり、人々は彼女の側から蜘蛛の子を散らすように離れていった。

 同時に何故か、それまでアナスタシアが築いてきた功績も為してきた努力も、全てが全てなかったことされた。

 王宮に暮らすようになってから、アナスタシアが怠惰に、高慢に暮らし続けたと語る人間まで現れるようになったのだ。

 しかも、それだけではない。

 気付いた時には、マデリンを長年に渡り虐待していたのは、両親ではなくアナスタシアということになっていたのだ。美しい妹に嫉妬した姉は、宿下がりする度に妹を罵り、打ち据えて笑っていたと……。

 何故と問う暇もなかった。

 その噂は驚く程の速さで人々の間に広まり、社交界でもアナスタシアの悪評は広まっていた。聖女どころかとんだ悪女だと、人々はアナスタシアを嘲った。

 王宮から退去するように命じられ、与えられていた物が全てマデリンの物となるのを目にしながら、他に行き場所がなく戻った屋敷にて。

 父母はアナスタシアを見て吐き捨てるように、外れの小屋に閉じ込めろと命じた……。

 あっという間に崩れた世界。

 それまでとはうってかわって粗末で孤独な環境に置かれ、慣れぬ暮らしを強いられて、アナスタシアはただただ呆然とするばかりだった。


 だが、敷地の片隅にある小屋に幽閉にされるようにして暮らすようになって暫し経ち。

 使用人達の噂話に、エリオットが残虐な顔を見せるようになり、マデリンがここぞとばかりにドレスや宝石にと浪費に明け暮れていると聞こえるようになったある日。

 マデリンから、アナスタシアを王宮へ招待したいという旨を認めた手紙が届いたのだ。

 叶うならば姉妹の関係を修復させて欲しい、と――。

 両親は難色を示したものの、今や王太子の妃であるマデリン直々の招待とあれば断るわけにもいかない。

 かくしてアナスタシアは、比較的ましな古着で見た目を取り繕い、久方ぶりに王宮に足を踏み入れることになった。

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