父親(ゴースト視点)
言葉になっていない叫び声が寝室の中を駆け回った。
ナイフで切り裂いた喉に指先を突っ込み、内臓をぐちりぐちりと掻き回して、舌を引きずり出す。
脂汗を散らして、全身を痙攣させている。
顔面を執念深く何度も何度も殴りつけた。
男の鼻が折れて流れてきた血で拳が汚れても気にしない。
動悸も震えも全く無くて、冷徹な意志だけが存在する。
鋭く冷え切った思考の中、ふと真横の窓を見た。
神聖なる王の魂はその死を悲しむ民の悲愴な嘆きと共に不死の煙となって満月にも届いている筈だったが、人々が起き出す気配は微塵もない。
地区は一つの生き物のように、新たな日常の産声を無言で聞いていた。
暖かな日差し中で、二人で庭園を歩いた記憶がある。
当時、死んだ母親とそっくりな顔立ちのおれの存在を認識出来なくなった実父の存在が恐ろしくて仕方がなく、空想上の友達に話しかけ続ける頭のおかしい子供として振舞い使用人達を困らせていた。
そんなおれの前に教育係として連れてこられたラニ・タクディールは、おれの演技に気づいていても、おれの気持ちなんて知らなくて、そのはずなのに、穏やかに話かける。
「初めまして。皇太子様」
おれはその時、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
空想上の友達の存在を盾にして、ただ思いつく限りの支離滅裂な言葉を重ねて、狂乱するフリをして目の前の少年を試していたことだけは覚えている。
「なるほど」
彼は暫くしてから小さく二度頷く。
おれの指差す方に身体を向けて、右足を引き、右手を身体に添え、左手を横方向へ水平に差し出すようにお辞儀をする。
「では、ご挨拶をさせてください。まず、俺はご友人様をなんとお呼びしたら良いでしょうか?」
聖者だ、この人はきっと地上に舞い降りた聖者に違いないと、彼に手を引かれておれはただ庭園を歩いていた。
空想上の友達を実在性を守るように話題を振る彼に対して、おれのことを見て欲しかったんですとか、本当のおれはおかしくないんですとか、現実が怖くて堪らないんですとか、そんなことを喚き始めたおれに、彼は少しだけ困ったように眉を下げる。
「それなら、俺が、あなたが怖がらなくていい世界にするから」
桜の匂いの混じる風が、彼とおれの間に通り過ぎた。
あの一瞬をおれは生涯忘れることが出来ないのだろう。
どこまでも慈愛に満ちた眼差しは、おれの全てを暴いた上で許している。
許された気持ちになってしまう。
視界がぐらりと揺れて、緩やかに薄い水膜が張られていく。
涙が溢れて止まらなかった。
この男になら、おれは泣きついていいのだ。
どうしてか、心からそう思えた。
彼に、お父様であることを求め出したのはこれがきっかけだったんじゃないだろうか。
それから、おれは口癖のように幾度となく繰り返した。
「おれは、おれよりもお父様が次の皇帝陛下になったらいいと思うよ」
「……、…」
そう言うと、決まって彼は貝のように口を閉ざす。
流石に公の場では渋られたけど、二人きりの時はお父様と呼ぶことを許してくれた。
やはり、おれのお父様は優しい。
おれのような人間でも多少なりとも普通の子供として甘えられるような気持ちになれる。
宮殿から出たことがないおれにとっては、お父様が唯一身近にいる同年代の他人であった。
おれの人生はほとんどがお父様で出来ている。
教育係という役割の通り、彼はあらゆる技術や知恵を教えてくれた。
出会いからずっと、その背中だけを見つめ追いかけてきたのだけど、おれの実力では到底追いつける気がしない。
「おれは、おれよりもお父様が次の皇帝陛下になったらいいと思うよ」
「……」
黙り込んだお父様はおれの分のティーカップをテーブルの上に置いた。
枝葉まで赤いヤマザクラをモチーフに、しなやかに舞う花弁や枝が繊細なタッチで白磁に写し込まれている。
白くなだらかなカップの中で、薄い琥珀色が揺れてベルガモットの爽やかな香りがした。
この食器だって、おれよりも彼に使われた方が嬉しいだろうに。
黒い瞳はおれの姿を偽りなく反射させ、窓から差し込む柔らかな日差しが苛烈な輝きとなって彼を彩る。
太陽を直に見つめた時のような眩暈にも似た眩しさが、おれの目の奥をじわりじわりと灼いていた。
「おれは、おれよりもお父様が次の皇帝陛下になったらいいと思うよ」
翌日もその翌日も、馬鹿の一つ覚えのように自分の主張を繰り返す。
そして、彼の選択はいつだって沈黙であった。
地区中を恐怖に陥れた皇帝陛下の女漁りが、ある女を理由にピタリと止んだ。
彼女を前にした皇帝陛下は、初めて女神を見た敬虔な信者のように、ぼうと惚けているのに瞳だけがぬらぬらと光っていて、奇跡を目の当たりにした人間が浮かべる表情とはなんとも気味の悪いものだと思ったほどだ。
白雪のように翳りのない肌も、無垢な童のようにいとけない微笑も、挙動に合わせて羽衣のように揺れる空色の髪も、けぶるような長い睫毛も、煌めく星を宿す左右の色の異なる瞳も、その存在のすべてが。
おれがお父様を運命だと思ったように、奇跡だと信じたように、皇帝陛下の眼には彼女がそう映ったに違いない。
血筋なのかなあ、と他人事のように思った。
彼女と俺が直接話したことはない。
そもそも、亡くなった女王陛下の実子であるおれが、皇帝陛下のハレムの女達と接近することは禁止されている。
お父様も、ある日を境にあの女を気にかけるようになった。
理由は分からない、きっかけが何かは知らない。
ただおれにとって、水墨画の上から水を垂らした後のような、世界の全部に霞がかかったように朧気な視界の中で、いつだってお父様の存在だけが鮮明なのだ。
そんな彼が、皇帝陛下の隣に立つ彼女を見つめる横顔がどうしようもなく、寂しそうで。
ああ、駄目だ、やっぱり諦めがつかない。
お父様には幸せになってほしいなあ。
「おれは、おれよりもお父様が次の皇帝陛下になったらいいと思うよ」
最早言い慣れた言葉は躊躇いなく喉から滑り落ちる。
耳にタコが出来るほど聞かされたであろう主張に、お父様はゆっくりとおれの方を向く。
そう言われることがわかっていたように、驚いた様子もなく目を細める、そして。
「俺も、そう思うよ」
いつもとは違った返答をした。
腕を力強く引かれ、傾いた身体を抱き止められる。
いつだっておれを導いてきた手のひらで頭を数回優しく撫でられて、そのまま首の裏を押さえつけると、耳元に唇を寄せて、彼は酷く甘く、囁いた。
「ねえ、あなたにお願いしたいことがあったんだ」
だから、手初めに今夜、おれは。
▼ E N D
ファムファタルの本懐 ハビィ(ハンネ変えた。) @okitasan
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