耐毒(ラニ視点)
一番古い記憶は五歳の頃で、天井に換気口のある部屋。
二つの換気扇の他に、鉄製の扉がひとつだけあったが、取っ手も何もない。
ただの重い鉄の板が、コンクリートの壁に埋めこまれているだけに見えた。
ふ、ふ、と少しずつ早くなる呼吸を抑えるように、目を瞑る。
空気中に散布している毒が回って、唇や舌先がゆっくりと痺れて重くなっていく。
ズキズキと鈍痛が止まないのはきっと頭を打ったせいだ。
ブルブルと震える腕で後頭部の痛む箇所に触れてみるが、指の感覚はとうに抜けていて、たんこぶが出来ているのかすらよく分からない。
あの人は、昔から俺のことを容赦なく殴る。
いつからか俺は泣かなくなって、泣かない俺を可愛くないと思ったらしく、段々と訓練の内容はエスカレートしていった。
後々聞いた話によると、俺があの人から施された訓練内容の八割は、本来ならば五十年ほど前に区内のとある軍事訓練施設内で実施されたもので、約三年間で廃止されたものらしい。
廃止された理由は、単純に訓練の最中に生命を落とす確率が高かったからだ。
当時、その軍事訓練施設は厚生病院を名乗っていて、特定の条件を満たす孤児の子供達が厚生という名目の下、優秀な軍人になる為の軍事訓練が行なわれていた。
全てが能力で差別化されていて、戦闘訓練の成績優秀者は優遇され、劣った者は冷遇される。
最も過酷な訓練は食事だったという。
なお現在は、この地区の歴史の暗黒面とされて、施設は立ち入り禁止の場所として完全閉鎖されている。
痛い、痛いよ、本当に、いたい。
ズキズキ、ガンガン、頭が痛い。
最初は後頭部だけだった痛みが、頭全体に広がっている。
怪我の痛みとは到底思えなくて、ぎゅっと目を瞑って、体を折り曲げようとしたけど、手足はガクガクと自分の身体じゃないものみたいに揺れるばっかりで、上手く動かなかった。
真っ暗な視界の中で痛みに耐える。
どうしよう、気持ち悪い。
こんなに頭が痛いのに、吐き気も出てきた。
本当に、どうすればいい。
ぐるる、と胃の中がかき混ぜられるような感覚がして、ぎゅるり、と搾り取られるように痛みが走る。
胃痛とは少し違う気もするが、同じような気もする。
目を瞑っているはずなのに、自分を軸にぐるぐる回っているような、自分の横たわる地面が動いてるような感覚、だろうか。
ただ横になっているだけなのにグラグラとする感覚に悪寒が走る。
目を開けていると回転する視界が、気持ちが悪い、動くな、止まれ、止まって、お願い、お願い、お願いします。
喉の苦しさを緩和させようと咳き込むと、ビチャビチャと耳障りな音が聞こえた。
気持ち悪い、まさか俺、今吐いた?
灰色の天井がぐるぐると、スプーンでかき混ぜられるようにぐるぐると回っている。
照明はいろんな色に見えて、ビカビカと光っていて、その鮮やかさにまた吐き気が込み上げてきた。
喉を締められて、酸素を塞き止められるような息苦しさ。
くらくらと焦点が合わず、また胃の中身がせり上がってきて、腹に変に力が入る。
冷たいコンクリートは脂汗と唾液と吐瀉物を受け止めて、異様な匂いを放っていた。
どれくらいの時間が経過したのかは分からないが、換気扇が回る気配はない。
初めの頃は吐いたらすぐに気絶出来たのに、毒に対する耐性が着いてきたせいで、この部屋に閉じ込められる度に、俺は長く苦しむようになった。
はっきりとしない意識の中、耳鳴りが騒がしくなって、どんどんと動悸が激しくなっていく。
いたい、きもちわるい、くるしい、くるしいよ、いやだ、しにたくない、しにたくない、しにたくないよ、いやだ、いやだ、しにたくない、しにたくないよ。
混濁した意識の中で、ふと、丸くて白い光が現れた。
よく見ると、それは扉で、辺りは真っ暗闇になる。
暗闇の中で、その扉の輝きだけが鮮明だった。
あの扉を開けてしまえば、もう淡い期待を抱くことは許されない気がした。
俺が信じていたものが世界からいなくなってしまう。
これからはどうやって訓練を耐えればいいのだろう。
そう思うといつまでも往生際悪く扉を開けられずにいたところだった。
「血縁に拘る人間というのは存外に多いが命を賭けることができるのは特別な才能ではなく、どちらかといえばありふれた感性だろう。例え家族という社会形態を持たない人間だろうと、中身は大して変わるものではない。自分の帰属する集団へのある種の陶酔か献身か。何にせよ、その根本にあるのは幻想だ」
その声は、どこまでも平坦だった。
蹲ってすらいない、喚き散らしてもいない。
抵抗なんて、最初からしていなかった、出来なかった。
これだけ淡々と、朗読でもするかのように言葉を吐き出せるのは、この思考とずっとずっと共生してきたからだろう。
「明日があるなんて言葉は綺麗事だろう。でも、俺にそんな余裕はない。地獄があることは変えられない。過去は何一つだって変えられない。だから、明日しか無いんだ。この先にどれだけ苦しいことがあろうが、もう俺には明日しかないんだよ。明日を何度も繰り返して、やりたいようにやって、失くしたくないものはずっと握りしめていて、欲しいものには手を伸ばせばいい。ないものねだりは世の常だ。神様が用意してくれたはずの平等は最初からなかったんだから、俺が自分の手で用意するしかない」
背後から大きな手を重ねられて、そのままドアノブをひねる。
扉が、開いた。
「心配しなくても、全部が大丈夫になるからさ」
いつの間にか、気を失っていたらしい。
換気扇が回る音がする。
部屋の隅には、トレーが置かれて、食パンが一切れと牛乳がコップ一杯分載せられていた。
吐き気は勿論、息がしづらい。
食欲は無いが、飢餓感はあるという奇妙な感覚。
何かを食べなければいけないことだけは分かった。
まだ動きの鈍い腕を使い、ほふく前進の要領で進む。
必死に手を伸ばして、食パンを掴んで、小さくちぎっては、口に含む。
吐き出しそうになる前に、指でパンを喉奥に突っ込んで、顎を掴んで無理矢理に動かして咀嚼する。
牛乳を飲み干して、やっと意識が安定してきた。
お腹空いたな。
「ラニ、お前は強いな」
耐毒訓練から三日後、あの人に会った。
あの人は、嬉しくて仕方がないとばかりに俺の頭を撫でる。
犬や猫を愛玩するような乱雑な手つきであった。
「はい。父さん」
俺は淡々と笑顔を作って、ただ返事をする。
本当に、悲しいのは。
きっと目の前の男を殺しても、何の感情も湧かないことで、俺が人でなしであることだった。
▼ E N D
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