第十一葉:舟渡鳴子(2)

 夜。いつもより早く自習を切り上げて、自室に戻る。鳴子は柄のない白パジャマに着替えていて、チェストのそばに立っていた。

「ただいま。聞いた側が待たせてごめん」

「話をまとめる時間が欲しかったし、ちょうど良かったよ」

 返事の声は、いつもより落ち着いていた。鳴子はチェスト上の写真立てを持ってベッドに腰掛け、ワタシも眠る支度を済ませてベッドに座る。

 互いに背中を向け合っているけど、今はその方が良いかもしれない。

「改めて、聞くよ? いい?」

「……うん。どうぞ」

「鳴子が男の人を怖くなった原因、教えて欲しい」

 尋ねるワタシの手のそばに、鳴子はそっと写真立てを置いた。写真館で撮られた昔ながらの構図の家族写真で、鳴子によく似た垂れ目で短髪のお父さん、ツリ目で横に一房まとめ髪のお母さん、お父さん似で白髪パーマのお婆さん、小学校高学年くらいで今と同じ髪型(ミディアムヘア)の鳴子が、フォーマルな格好で写っている。

 全員が穏やかな笑みを浮かべた、幸せを形にした写真。

「その……、先に言っておくと、わたしがこうなったことに悪者は誰もいないんだ。現実では何も起こってないし、パパも悪くないの」

「パパ? 現実??」

「順番に説明するね。あれは、わたしが八歳になった頃のことで~~」

 悪者はいない、そう言って鳴子が語り始めたことは、確かにそうとしか言えない、誰も責めることができない出来事だった。


──


 田園と住宅が混在する、とある地方都市の郊外。田んぼと道路を挟んで隣あった住宅地の一画に建つ、ベージュ色壁の築浅の平屋が、舟渡家の住まい。外回りは車二台分の駐車場だけで庭はほとんど無く、田舎にしてはコンパクトな作り。もう少し大きな家にもできたが、子どもが鳴子だけであることと、ローンと貯蓄のバランスを考えて抑え目に建てられた。

 共働き夫婦、子ども一人、祖母の四人暮らし。特別裕福ではないものの、生活は安定し衣食住にも困ることがない、幸福な家庭。真面目で優しい父親、やや気が強くしっかり者の母親、素直で物分かりの良い鳴子こども、穏やかで面倒見の良い祖母。普通の理想を詰め込んだような家族。


 そんな普通の中で一つだけ、特別なことがあった。


「パパ! 今日の夜は夢にいってもいーい?」

 空気が涼しい秋の朝。玄関に腰かけ靴を履く父親の背に、八歳の鳴子が覆いかぶさった。父親の座高より頭一つとちょっとの背丈や間延び口調には、第二次性徴前らしい幼さがある。

 出勤前で作業着姿の父親は振り返り、手と視線を重ね、落ち着いた声色で答えた。

「いいけど、今日は飲み会があるから遅くなるよ?」

「夢の中でまってる!」

「それならいいか。じゃあ、行ってきます」

「やったー! いってらっしゃーい!」

 両手を上に喜ぶ鳴子。そんな鳴子の声を、リビングにいる祖母や母親は、微笑ましく聞いた。普通の家にはない特別。鳴子が持つ【他人の夢に入れる】不思議なチカラ。血縁にも知り合いにもそんなチカラを持つ者はいない、明らかな超能力。

 しかし鳴子の家族はさほど問題に思っておらず、最初にチカラが発現した五歳頃からずっと、深く気にせず過ごしていた。薄くしか記憶に残らない明晰夢に鳴子が現れるだけで、それで何か起きるということもなかったからだ。

 両親としてはむしろ、共働きでコミュニケーションが取れない時間を夢で補える分、歓迎していた面すらある。


 ただ、この日だけは。


「ただいま……。遅くなった……」

「おかえり。アナタちょっと飲み過ぎじゃない?」

「大学の時の……、話が……、盛り上がってね……」

 日付をまたいだ深夜。鳴子の父親は珍しく深酒をして、千鳥足で帰宅した。妻の介助を受けて寝室に転がり、そのまま就寝。ここまで酩酊状態で眠ったのは、鳴子が生まれてから初めてのこと。

 そんな状態ながら、父親はそのことを気に留めていなかった。普段から晩酌することはあり、酔ったまま鳴子と夢で過ごすことは、過去にもあったからだ。


☆☆☆☆☆


「あ、パパ! おっそーい!」

 父親の夢の中、現実と同じ家のフローリング床のリビングで、鳴子が頬を膨らませる。鳴子は父親が眠ってすぐ、夢から夢へ移動してきていた。

「ごめんね、鳴子。昔のお友達と、久しぶりに会ったから……」

 弱った声で返す父親。酔いで意識が途切れ途切れらしく、テーブル前の椅子に座り、そのままグッタリしてしまう。

「ええー、お話してくれないのー? おきてー、おきてよー!」

「……」

「あーもう。パパったら、だらしないんだー」

 体を揺すっても父親は無言。鳴子はつまらなさそうに口を尖らせ、仕方なく暇つぶしに家の中を歩き回った。自身の何もない白い夢よりは、見知った家だとしても何かある方が面白いからだ。

「そうだ! ……パパー、おきないと入っちゃうからねー?」

 父親の個室(兼寝室)扉の取っ手に触れて尋ねる。数秒待っても返事はなく、鳴子はニヤリと笑い冒険気分で扉を開けた。

「わー……、本がいっぱい……」

 目に飛び込んできたのは、壁面を埋める天井高さ近い本棚。みっちり本が詰まっていて、見上げて鳴子は驚いた。幼い鳴子には並んでいる本の内容は理解できなかったが、ほとんどが睡眠や夢に関するモノ。父親が鳴子のために勉強した本である。

「よくわかんなーい。……あれ?」

 どういう偶然か、そのほとんどから外れる本を鳴子は手に取った。読み返されることがなく、下段に纏められていた本の一つ。父親が大学生時代に学んだ学科の専門書を。内容を理解できないことは他の本と同じだったが、違いは本の奥にあった。

「まっくらだー。どうしてー??」

 本を除いた先、本来は背板があるはずの場所が渦巻く暗闇になっている。しかも手を伸ばせば、どこまでも奥に通じる。気になった鳴子は夢中で、下から二段分の本と棚板を取り去った。

「どこにつながってるんだろう……!」

 冒険気分は本物の冒険に。好奇心にまかせて、鳴子は暗闇へと進んだ。

 その先が初めて経験する、淀んだ夢だと知らずに。


~~


「……ここはどこ?」

 辿り着いた先は、灰色の波板で作られた簡素な小屋の前。建物裏かつ植え込みの木々に挟まれた、薄暗く人気のない通り。鳴子には全く見覚えがない、父親の記憶が作り出した場所だった。

 存在が確かな物体は小屋しかなく、通りの終わりも植え込みの先も見えず。他に行く当てもなかったので、鳴子は小屋に近づいた。

「うぇ……、変なにおい……」

 周囲に漂う煙と残り香を吸って、顔をしかめる。そうなるのも無理はなく、ここは大学の校舎裏喫煙所で、匂いはタバコの煙によるもの。

「だれか、いる……?」

 小屋の扉に近づいた鳴子の耳に、会話が聞こえてきた。男性の声と女性の声。僅かに開いていた扉の隙間から中を覗く。

「(パパ……? でもちょっとちがう……??)」

 鳴子は首を傾げた。中には二人いて、地味な服装の男性の顔は父親によく似ている。けれども少し違うようにも見えて、父親だと確信が持てない。

「(もうひとりは……、だれだろう??)」

 もう一人は、見ず知らずの女性。女性としては背が高く、体型は細身。肩にかからない程度の黒髪に、稲妻を思わせる黄色のメッシュが鮮やか。口紅は暗色で、服は上下とも黒。顔立ちは見た目の鋭さに負けない、ツリ目で格好の良い美人。

 男性と女性は二人ともベンチに座って、親し気に話しながらタバコを吸っていた。

『まさかキミが吸えるようになるなんて。でも、無理してるでしょ?』

『無理なんかして──げほっ、げほっ』

『ほら、言わんこっちゃない』

 女性は立ち上がり、終わりかけだった自分のタバコを円柱型の灰皿へ。

『……やっぱり、キミには似合わないよ。だから、もらったげる』

 仕方なさそうに笑って、咳込む男性の手に指を絡めてタバコを取り、自身の唇に運ぶ。鳴子は恥ずかしくなって、手で顔を覆い、指の隙間から見つめた。

「(わぁっ! なんだかステキ──あれ? おねえさん、ケガしてる???)」

 タバコを追った視線の先で、女性が唇の下に怪我をしているのを見つけた。内出血の青黒いアザ。

 男性も気が付いていて、苦し気な顔をする。

『そのアザは……』

『あぁ、これ? また殴られただけ。いつものことだから』

 笑って言う女性。

 男性は拳を握った。

『そんなこと、一度だってあっちゃダメです……!』

『……優しいんだね。キミと付き合う人はきっと──ごめん、アイツからだ』

 電子音がして、女性はポケットから携帯電話を取り出し、溜息を一つ。

『はぁ。呼び出されたから行くね。じゃあ、またいつか』

 まだ長いタバコを消して灰皿に投じ、喫煙所の扉へと女性が進む。取っ手を握ったところで、男性が追いかけ、女性の肩に手を振れた。

『待ってください』

『……ごめん』

 小さく呟き、男性の手を除けようとする女性。

 男性は掴んだ肩を引いて、女性を振り返らせた。

『行ってほしくない! これ以上、貴女が傷つくところを見たくないんだ! 聡くて、分別があって、カッコいい貴女が、どうして!』

『……買いかぶり過ぎ。アタシはダメ男から離れられない、ツマラナイ女だよ。似合わないって、言ったでしょ?』

 肩を掴む手に手を触れ、女性が別れを告げる。

『さよなら』

 視線を落とす男性。一瞬の静寂の後、記憶の中の世界に白い霧が広がった。

 しかし。


『嫌だ!!!』

 怒号。真面目な印象の男性からは想像もつかない、強く厳しい声。白い霧が消え去った。男性は女性の肩を押し、無理やりベンチに座らせる。

『似合わないなら、似合うようになる……! だから……』

『……』

 女性は何も返さず、黙って首を横に振るばかり。

 その瞬間、男性は片手の甲で女性の頬をぶった。

『ッ……』

『これで……、これなら、アナタも──どうして!!!』

 頬を赤くしながらも、女性が立ち上がろうとする。

 男性はそれが許せなかった。

『行くな!! 行かないで!!!』

 悲痛な声。同時に、ざりざりと金属が擦れる嫌な音。どこからともなく太く重い鎖が現れ、女性の手足に巻き付き、自由を奪っていく。

 縛られ、身動きが取れなくなった女性を見て、男性は笑った。

『……はは。ははは。これで──』

 これでもう、どこにも行かない。自分のもの。

 仄暗い達成感を噛みしめながら、最後の仕上げを済まそうと扉に視線をやって。

『──あ、あ……』

 男性は父親に戻った。

『鳴、子……?』

「パパ? どうして?? 女の人、ぶって……」

『違う! 違うんだ鳴子!! パパは──』

「──こないで!!!」

 扉から差し込む光へ伸ばした手は、さっきやったのと同じように、小さな手の甲で退けられた。そうしてようやく白い霧が立ち込めて、淀んだ夢は散っていった。


☆☆☆☆☆


──


「~~これが、男の人が怖くなったきっかけ。でも、でもね!」

 話を聞いて固まるワタシに、鳴子は慌てて弁明(?)する。

「夢の中ではパパ、暴力を振るっちゃってたけど、現実ではそんなことしてないんだよ! 『さよなら』って言われて何も言えずに別れて、その日以来、二度と会えなかったって」

 曰く、父親は夢の出来事を覚えていて、翌朝現実で鳴子に謝り、当時のことを説明したらしい。忘れたことにして心の奥に封じていた、大学時代の苦い恋の思い出を。

 鳴子は自分のトラウマになった出来事のハズなのに、なぜだか嬉しそうに話した。

「嫌なところもあったけど、話を聞いてわたし、ちょっとドキドキしちゃった。お互い名前も知らない、あえて知ろうとしない、喫煙所だけの関係。一歩が踏み出せなくて突然終わっちゃった、切ない恋。なんだかロマンチックじゃない?!」

「ワタシは……、色恋はわかんないわ」

「えー。よく考えてみてよ! パパったらタバコ吸えないのに、その女の人に会うために無理してたんだよ! 成人してタバコの練習に入った喫煙所で偶然出会って、吸えないの笑われて、だけどなんだかんだ仲良くなって……。色々あって恋は終わっちゃったのに、何年も経って同じタバコの匂いを嗅いで思い出すなんて~~」

 恋愛話に興味の無いワタシをまるで気にせず、鳴子は喋り続ける。大半は忘れたけど、鳴子の父親の古い記憶が、大学生時代の友人とその友人が吸っていたタバコの銘柄(の匂い)で想起されたこと、飲酒による酩酊状態で記憶の封が緩んだことは、興味深い気がしないでもない。

「~~で……って、櫂凪ちゃん、聞いてる?!」

 ベッドの真ん中まで来て、顔を覗き冗談っぽく頬を膨らませる鳴子。

 正直に言って、とりあえず平謝り。

「ごめん、聞いてなかった。ずいぶん楽しそうだけど、昔の恋を引きずってたなんて知って気まずくない? なんだか浮気っぽくて」

「大丈夫、ママは昔から知ってたから! また同じ夢みてるって笑ってたくらい。それにママだって、女王様になってカッコイイ騎士を侍らせる夢見てたし! 誰だって、夢だけに出てきちゃう想いがあるもの。現実で自制できてればいいんだよ」

「そういうものかな」

「そういうもの! パパは現実でちゃんとママを大事にしているし、誰にも暴力を振るったことない。夢でも、あの時以外で見たことなかった。わたしが勝手に覗いて、勝手に過剰反応しちゃっただけなの」

 明るかった鳴子の表情が、徐々に曇っていく。語気が強まって、切迫している感じがした。

「なのにパパはものすごく責任を感じて、一滴もお酒を飲まなくなっちゃった。わたしのために仕事を無理して、夕霞に入れてもくれて……。パパは本当に優しい人で、何も悪くないのに……!」

「大丈夫。誰も悪くないの、わかってるよ。だから、落ち着いて」

 気持ちが強くなり過ぎないよう、手に触れてゆっくり言い聞かせる。鳴子はハッとして、肩を落とした。

「あっ……、ごめん。わたし熱くなっちゃった……」

「ワタシが聞いたんだから謝ることない。嫌なこと聞いてごめんね」

「そっちこそ、謝ることないよ。話せて良かったと思ってるから。……そろそろ消灯だね」


 話に夢中になっているうちに、気づけばもう消灯時間。今日のところは話は終わり。各々寝る支度を済ませ、部屋の灯を消した。


「おやすみ、鳴子」

「おやすみ、櫂凪ちゃん!」

 元気良く言って横になった鳴子は、あっという間に寝息を立てた。窓から差し込む月明かりで見えた寝顔は、寝入りの元気さと違ってどこか弱った表情。……あ、今晩は他人の夢に行くか決めてなかったな。

 触れると起こしてしまうかもしれないので、こちらを向いて眠る鳴子になるべく近づく。

 意識が薄れるまで、鳴子のことを考えた。


 念押しして言われた通り、鳴子の父親は絶対に暴力を振るわない、本当に優しい人なんだろう。……だけど。いや、だからこそ。その【本当に優しい人】の【攻撃的な一面】が、鳴子の心に深い傷を作ったんだと思う。

 結果、心の傷は同じ属性の人(男性)に反応するようになって、鳴子は男性が怖くなってしまっている。最も信頼できる男性に恐怖を覚えたのだから、信頼できない他の男性はますます恐ろしく見えるのも当然だ。


「ワタシに、何が……」


 心の傷を刺激する属性じゃないから、ワタシはそばに居られる。でもそれは、傷を癒すためにはなり得ない気がして。心に寄り添う方法を見つけられないまま、ワタシは無責任にも眠りについた。

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