第15話 哀しい日

 とうとうこの日が来た。

 黒崎智彦、貴様に復讐するときが。


 メイドにふんしたその男は、口の端を上げた。


 彼の名は藤堂とうどう


 藤堂は智彦が取引をやめた会社の社長の息子だった。

 智彦に切り捨てられたことで会社は経営難におちいり、彼の会社は破綻はたんした。


 智彦のせいで会社がつぶれたと思った彼は、復讐を計画した。


 彼は少し前から新人のメイドとしてこの家に侵入していた。

 智彦が一人になり、油断するその時を息をひそめ待っていた。今までもその機会は幾度とあったが、あの旭という執事が邪魔だった。


 少しの気配も見逃さず、常に黒崎家の人物に気を配りつづけていた。


 あいつには隙がなかった。

 しかし、最近旭は屋敷を空けることが多くなっていた。


 これは絶好の機会だ、そう思った藤堂は計画を実行することにした。




 今、智彦は大きな広間の豪華なソファに一人座り、のんびりとくつろいでいる。

 隙だらけだ。


 幸運なことに、旭もどこかへ出かけていない……今ならいける!


 藤堂は部屋のドアをノックすると、扉を開けた。


「失礼いたします」


 智彦はメイドなどに関心がないようで、こちらを見ることもなかった。

 警戒心なさすぎだろう、と藤堂は心の中でつぶやいた。


 ゆっくりと智彦へと歩みを進める。


「旦那様……」


 藤堂がすぐ傍で呼ぶと、智彦が振り返った。


 至近距離にメイドがたたずんでいることに、驚いた智彦が目を見開いた。


「なんだっ?」

「旦那様は、藤堂という人物を覚えておいでですか?」


 急に変なことを聞いてくるメイドに、違和感を覚えた智彦は眉を寄せる。


 そのとき、部屋の扉が勢いよく開くと、旭とさくらが姿を現した。

 少し遅れて、聖も駆けつける。


 さくらは智彦に向かって走り出す。


 それに反応するかのように聖がさくらのあとを追っていく。


 藤堂は、急に現れたさくらたちに驚き、行動が遅れていた。

 ふと我に返り、隠し持っていた包丁を握ると智彦に向けて振り下ろす。


 確かに人間を刺した感触があった。が、それは智彦ではなかった。


 包丁が刺さり倒れた人物……それは、


「聖様っ!」


 さくらが叫ぶ。


 智彦に向けられた刃は、智彦をかばったさくらに向かうはずだった。

 聖がさくらを庇わなければ。


 咄嗟とっさに智彦を庇ったさくらを、聖が庇ったのだ。


 失敗したことを知った藤堂は、もう一度智彦を刺そう試みる。

 しかし、颯爽さっそうと現れた旭によって、包丁を握る藤堂の手が蹴り飛ばされた。


 包丁は放物線を描き、遠くの床に落ちる。


「ちっ」


 逃げようとする藤堂を旭は素早い動きで捕らえ、羽交はがめにする。

 手際よく縄で縛り、逃げないように固定していった。


 次に旭は携帯電話で救急車を呼ぶと、聖とさくらを一瞥いちべつし部屋を出て行った。


 さくらは倒れて動かない聖の側へ行き、恐る恐る触れるとそっと揺すった。


「聖様、聖様? どうして、なんで……」


 さくらは泣き叫ぶこともせず、静かに聖に問いかける。

 あまりの出来事に、感情が出てこない。頭が真っ白になり、何も考えることができない。


「聖! 聖! なんで、こんなことにっ……死ぬなあ!」


 智彦は、先ほどから気が狂ったように泣き叫びながら、聖の側に寄り添っていた。


 部屋に戻って来た旭は、冷静に二人を聖から遠ざける。

 そして持ってきた救急箱を手に、応急処置おうきゅうしょちを始めた。


「聖様は……大丈夫ですよね?」


 弱々しく尋ねるさくらに、旭は頷き返す。


「大丈夫、これぐらいで死なない」


 そう言いつつ、聖から流れる血の量に顔をしかめる旭だった。





 病院に運ばれた聖は、すぐに手術室へと運ばれていく。


 皆、祈るような気持ちで聖の無事を待った。

 それは長く、途方もない時間のように思われた。



 待っている間、さくらの体は震えていた。


 恐くてしかたない、聖を失ってしまうかもしれないその恐怖に、さくらは耐えられそうになかった。


「さくらさん、大丈夫ですか?」


 旭が、温かいココアの入った紙コップをさくらに差し出す。

 さくらは戸惑いながらもそれを受け取り、一口飲んだ。


 なんだかほっとして、心が落ち着きを取りどしていくような気がする。


「ありがとう……」


 さくらのか細い声に、旭は優しく微笑む。

 そして、旭は静かにさくらの隣へ腰を下ろした。


 こういう彼の気遣いに、いつもさくらは救われていた。

 本当に旭には頭があがらないことばかりだ。


 旭に感謝しつつ、さくらは聖の無事を祈り続けた。





 旭の処置が早かったおかげで、なんとか一命をとりとめた聖は、病室へと移された。


 しかし、意識は戻らず、聖はずっと眠り続けている。

 医者からは、いつ目覚めるかわからないと告げられた。



 眠り続ける聖に、智彦はすがりつき、泣き叫ぶ。


「聖、すまないっ、こんなことになるなんて!

 私が刺されればよかったのだ、おまえが刺されることなんてなかった。

 ……目を覚ましてくれ!!」


 泣き崩れる智彦の肩に、そっと手を置く誠一。

 悲しげな瞳を聖に向ける。


「馬鹿だな、本当に……」


 誠一の瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。


 聖の横でずっと手を握ったまま動かないさくら。

 何も言わず、固まってしまった人形のように、ただずっと聖の手を握り続けていた。





 それから、一週間が過ぎた。


 さくらは片時も離れることなく、ずっと聖の側にいた。


 智彦も誠一も、さくらが側にいる方が聖も喜ぶだろうと、世話をさくらに任せ、一日に一度見舞いに来る程度だった。


 さくらは聖の手を握りながら話しかける。


「聖様、どうか目を覚まして。

 早くあなたの笑う顔が見たい、優しい声が聞きたい。

 あなたに抱きしめて欲しい……」


 来る日も来る日も、さくらは聖に声をかけ続けた。


 少しでも聖の意識が回復することを祈って話かけるが、反応は一切なかった。



 ある日の午後、さすがに疲労も溜まってきたさくらが立ち上がった際、眩暈めまいがして倒れそうになってしまう。


 すると、さくらは誰かの腕に支えられた。


「大丈夫ですか?」


 倒れかけたさくらを支えたのは、旭だった。


 手には花を抱えている。どうやらお見舞いに来たらしい。


「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」


 気丈きじょうに笑うさくらを見て、旭は悲しげな視線を送る。


「さくらさん、無理はいけませんよ。あなたが倒れたら聖様は悲しみます。

 今日は私がていますから、一度屋敷へ戻って寝てください」


 旭の気持ちは嬉しかった。

 本気で心配してくれているのもわかっていた。


 しかし、さくらは聖と一時も離れたくはなかった。


「ありがとうございます。でも、聖様が目覚めたとき側にいたいので」


 さくらに強い眼差しを向けられ、旭は観念かんねんしたように小さく頷く。


「わかりました。しかし、今日は私も病室に残ります。

 さくらさんが倒れないか、見張らせていただきます」


 さくらも頑固だが、旭も頑固なのを知っている。


「ありがとうございます、旭さん」


 旭の優しさに感謝し、頭を下げるさくら。


 返事の変わりにさくらの頭を優しく撫で、旭は何も言わず花瓶かびんを手に取ると水をみに病室から出て行った。




 その夜、さくらは久しぶりに聖の横で熟睡じゅくすいしていた。


 旭がいることにさくらは安心し、久しぶりに睡魔すいまが押し寄せてきたのだ。


 旭は聖とさくらが仲良く手を繋いで眠る姿を微笑ましく眺めると、持ってきた暇つぶし用の本のページを開いた。

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