第11話 婚約者

 屋敷の中を、一人のメイドが駆け抜けていく。


 さくらは長い廊下を走りながら、ところどころで止まり、辺りをキョロキョロと見渡す。


 そう、さくらは聖を探している。

 専属が解かれたことを報告するためだ。



 智彦の部屋を通りかかったとき、中から大きな声が聞こえ、さくらは足を止めた。


「おまえは何を言っているんだ! 正気か?」


 いつもは温和な智彦が、声をあらげ叫んでいる。


 いけないことだとは知りつつ、どうしても気になったさくらはドアの隙間から中の様子を覗き見る。

 そこにいたのは、聖と智彦の二人。


 ただならぬ雰囲気でお互い睨み合っている。


「僕は本気です、将来はさくらと一緒になりたいと思っています」


 聖のその言葉を聞き、智彦は肩を落として大きなため息を吐く。


「さくらはただの使用人だぞ。

 おまえがさくらを気に入っているのは知っている。

 遊びならいい、しかし結婚は駄目だ」

「なぜですか? 誰を選ぶかは僕が決めます。

 それに、使用人だからって何だっていうんですか。結婚しては駄目な理由になどならない。僕たちは愛し合っているんです」


 いつもは物静かな聖も、ここは引けないとばかりに智彦にってかかる。


 智彦は駄々だだをこねる子どもに、どうしたものかと悩む親のような顔をしていた。

 そして、当主とうしゅらしい顔つきになったかと思うと、はっきり告げる。


「ここは黒崎家だ、一使用人の娘と結婚など許されない。

 そういう家におまえは生まれたのだ。

 私はおまえを愛している、もちろん勘当かんどうなんてできない。

 いいか、よく聞け。人には身分相応みぶんそうおうというものがある。

 聖には、婚約者を用意している。今度紹介するから、そのつもりでいるんだ」


 智彦の一方的な発言に、聖は反論する。


「そんなこと知りません! 僕はさくら以外の人と結婚など」

「黙れ! これは命令だ!」


 迫力のある一喝いっかつに、さすがの聖も黙ってしまう。


 今までこのような智彦を見たことがなかった。それほど真剣だということが伝わってくる。


 有無うむを言わさぬ雰囲気をまとった智彦は、そのまま聖に背を向け、扉の方へ歩みを進めた。


 扉の外にいたさくらは慌てて辺りを見渡すが、身を隠せるような場所がない。

 仕方がないので避難の意味も込め、なくなく扉の端へと移動した。


 智彦は扉を開け、外にいたさくらの方へと顔を向けた。


「……君もわかったかね? 悪いが聖のことはあきらめてくれ」


 その言葉とは裏腹に、智彦の眼差しは優しいものだった。


 さくらが扉の外で聞いていたことに気づいていたのだろう。申し訳なさそうに目をせた智彦は、さくらの頭を優しい手つきで撫でてくれる。


 智彦もきっと苦しい立場なのだろう。

 この黒崎家の当主とうしゅとして、この家を守っていかなければならない。しかし、そのために愛している息子を苦しめてしまう。


 そんな葛藤かっとうを抱えているのかもしれない。


 さくらは智彦に何も言えず、一礼するとその場から走り去った。






 そして、とうとうその日はやってきた。


 聖の婚約者の北条ほうじょう梨華りかが屋敷へ訪れる。


 梨華は不動産業界で名をせる北条家の娘。

 北条家は不動産業界でもトップに君臨くんりんし、ホテル経営では右に出る者はいなかった。


 彼女は聖と相応ふさわしい肩書かたがきの持ち主だ。


 さらにはその美貌びぼう、彼女はとても美しかった。


 黒く長い髪にえる豪華な髪飾り、華奢きゃしゃな体には着物姿がよく似合い、桜模様が彼女の女性らしさを際立きわだたせている。

 長い睫毛まつげに大きく丸い瞳、そして小さく真っ赤な唇。まるで日本人形のようだった。 


 とても女性らしく、はかなげで、守ってあげたくなるような雰囲気をかもし出している。


 なんであんなにすべてを持っている人がいるのだろう、神様は不公平だ。

 さくらは心の中でそっとつぶやいた。



 応接室へと続く扉の前にはメイドたちが群がる。


 梨華を一目みようと、メイドたちが扉付近に集まっていた。

 皆、そわそわと瞳を輝かせている。


 さくらもその集団の中から、梨華の様子を眺めていた。


「あれが聖様の婚約者ですって」

「まあ、可愛らしいこと」

「お似合いよねえ」

「不動産関係の財閥令嬢ざいばつれいじょうなんですって」


 メイドたちがひそひそと話に花を咲かせていると、コホンと咳払いが聞こえた。


「みなさん、仕事に戻って」


 旭にたしなめられたメイドたちは、渋々しぶしぶ持ち場へと戻っていく。


「大丈夫ですか?」


 旭がさくらに耳打ちする。


「え? 何がですか?」


 さくらは悟られまいと、わざと元気な素振そぶりで振り返った。


「いや、ほら、聖様の婚約者のこと」


 旭は言いにくそうに眉をひそめる。


「はい、大丈夫です。前からわかってたことですから」


 さくらはニコッと微笑みながら答えた。

 好きになったって、両想いになったって、現実はこれだ。

 結局、結ばれはしない。


 そんなこと、わかってた。


 でも、聖がさくらのことを想ってくれた、その事実だけで生きていける。


「さくらさん……」


 旭が心配そうにさくらを覗き込む。


「さ、仕事、仕事」


 さくらが梨華たちに紅茶を出すため、カートを押していこうとする。


「待ってください、私が出しますから、さくらさんはここで」


 旭が止めようとするが、さくらは首を振った。


「いいえ、これは私の役目ですから」


 力強い瞳を向けられた旭は押し黙り、どうすればいいのかわからず引き下がった。


 梨華が現れたことで、さくらは意地になっているのかもしれない。

 しかし、ここでめていても仕方がない。


 今は見守ることしかできないと判断し、旭は心配そうにさくらの背中を見送った。

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