第10話 兄としての苦しみ
さくらはボーっとしながら、廊下を歩いていた。
昨日のことが頭に浮かぶ、すぐにかき消そうと頭を振ってみるがまた浮かんでくる。
その
これが世に聞く恋の病なのだろうか。
さくらにはわからないが、これは重症だ。
それにしても、結局、能力のことは聖に言えていない。
想いは伝えることができ、さくらは晴れて聖と両想いになった。
それは夢のようで、幸せだった。しかし、まだ問題は残っている。
肝心の能力のこと……もし能力のことを知ったら聖はどう思うだろう。
その恐怖心がさくらの心に影を落としていた。
そして、乗り越えなければいけないことがもう一つあった。
聖の父と兄の問題だ。
智彦のことは聖に任すとして、さくらは誠一に集中しなくては。
気合を入れ直し、さくらは誠一の部屋へ向かうのだった。
さくらが誠一のもとを訪ねると、いつも通りの
「何のようだ」
誠一は自室で仕事をしていた。
手元の資料を睨みながら、さくらのことなど
最近、誠一は仕事が忙しそうだった。以前よりも仕事量は明らかに増えている。
多くの仕事を成功へ導き、周りから評価され、智彦からも信頼を得た誠一。
さくらには想像もつかないほどの仕事を任されているようだった。
本人はそれを望んでいるようだが、さくらから見た誠一はちっとも幸せそうには見えない。
無駄かもしれないが、さくらは誠一を放っておくことができず、つい口を出してしまう。
「誠一様、最近、お仕事増やし過ぎではないですか?」
「おまえに関係ない」
すぐに冷たく言い返される。
さくらはしばらく誠一と一緒にいたせいか、以前は苦手に感じていたこの塩対応にも慣れてしまった。
「誠一様、無理なさっているように思います。
なんだかお父様に認めて欲しいから仕事しているような……」
誠一は智彦から褒められたとき、すごく嬉しそうな顔をするのだ。
そのことにさくらは気づいていた。
突然誠一が机をおもいきり叩くとバンッと大きな音が部屋に響いた。
鋭い眼差しで誠一はさくらを睨む。
「うるさい! おまえに何がわかる!
少し一緒にいたからって図に乗るなよ。おまえなんて、あの能力がなければ何の価値もないんだ。
おまえなんてただの使用人、他に変わりのきく、必要のない、意味のない存在なんだ!」
「そうやって、自分のことを思っていたのですか?」
興奮気味の誠一とは
誠一は
「……どういう意味だ?」
誠一の瞳の奥に戸惑いの感情が見え隠れしていた。
「誠一様は御父上に認めて欲しくて、お仕事を頑張っていらっしゃるのでしょう?
仕事で成功しないと、御父上のお役に立たないと、自分の存在価値はないと」
「な……に……っ」
誠一が珍しく動揺していた。さくらを見つめる瞳はゆらゆらと揺らいでいる。
「いいじゃないですか、誠一様は誠一様です。
他の誰も変わることなんかできません。あなたしか持ってない素敵なところがたくさんあります。
きっと旦那様だって、誠一様が仕事が出来なかったとしても愛しておられます。
……最近、誠一様と長く一緒にいてわかったんです。
私はずっと誠一様ははじめからとても優秀な方で、どこか冷たく人を寄せつけない雰囲気をお持ちの方だと思っていました。
……でも、違いました」
さくらが微笑みかけると、誠一は
「違わない、俺はそういう人間だ! ……それでいい」
誠一はさくらを拒絶するように視線を落とした。するとさくらは力強い声で言い放つ。
「いいえ! 誠一様は本当は努力家で不器用で寂しがりで、とても人間臭い方です」
誠一の開いた口が
「な、何を言う! おまえに俺の何がわかるっていうんだ、いい加減なこと言うな!」
誠一はさくらの肩を持ち、真正面から睨みつけてきた。
「おまえに何がわかる? 俺はこの家の長男だ、この家を背負う運命をもって生まれてきたんだ!
父上の期待を背負い、それに応えなければならない。昔から必死にこの家の当主になるために頑張ってきた……。
それなのに父上が可愛がるのはいつも聖だ。
あいつはたいしたこともできないのに、可愛がられていた。
俺は何か
言いかけたところで、突然さくらは誠一を抱きしめた。
誠一は驚きのあまりさくらを凝視し固まってしまう。
「誠一様、ずっと苦しんでおられたのですね……。
私、わかります。私もずっとそう思って生きていました。
私は空っぽで、ありのままの自分では愛されない。誰かのお役に立たないと、誰かから必要とされなければ生きている意味がないと。
……でも違った。
聖様や旭さんが私のことを受け入れ、必要としてくださいました。
そのままでいい、さくらはさくらのままでいいと。
すごく嬉しかった。
私も誠一様と一緒にいて、誠一様はそのままで素敵な方だと思いました。
私はそのままの誠一様が好きです、どうか一人で苦しまないでください」
そのとき誠一は、さくらに母の
誠一の母は小さい頃に亡くなっており、少しの記憶しかなかったがとても優しく温かい人だった。
さくらの温かさは母親のものと似ていた。
今まで張りつめていた気持ちがふっと消えていくのを感じる。
なんだろう、不思議な感覚だ。
自分では気づいていなかったが、俺は誰かに本当の自分を認めて欲しかったのだろうか。
何者でもないありのままの自分を受け入れて欲しかったのか。
その答えを誠一は認めたくはなかったが、この感情は認めざるを得ない。
今まで感じたことのない安らぎに満たされていた。
誠一は悔しそうにさくらを見つめる。
ずっと馬鹿にしていたこんなメイドに俺の心を
「おい、いつまで俺に抱きついている」
さくらが顔を上げると、誠一が見下ろし睨んでいる。
驚き、慌てて
「も、申し訳ございません、なんだか体が勝手に」
さくらも無意識でやっていたようで、顔を赤くして慌てふためいている。
その様子を見て、誠一がふっと笑った。
「誠一様、今の顔、素敵です!」
「はあ? 何を言っている?」
「わからないんですか? いつものムスッとした顔より笑った顔の方がすごく魅力的です。
これからはその笑顔を見せてください、そうすれば皆さんに誠一様の良さが伝わりますよ」
さくらが嬉しそうにはしゃぐ姿を見て、誠一はなぜか悪い気はしなかった。
「阿保か……。それより、おまえ何か俺に用があって来たんだろう」
急に真面目な表情で問いかけてきた誠一の言葉に、さくらはギクッと動きを止めた。
急に緊張感が増し、さくらは硬い表情で誠一を見る。
「あの、誠一様の専属の件なのですが……、
深く頭を下げお願いするさくらに対し、誠一が冷静に返した。
「おまえ、聖に能力のこと言ったのか?」
誠一の問いにさくらはがっくりと下を向く。
「いいえ……」
落ち込むさくらを見て誠一はため息をつく。しばらく思案し、口を開いた。
「いいぜ、もうおまえは俺の専属じゃない」
「本当ですか?」
驚きと喜びに満ちた表情で見つめてくるさくらに、誠一は念を押した。
「能力のことも黙っててやる、自分の口から聖に伝えるんだな」
それだけ言うと、誠一はまた机に向かい仕事の資料に目を落とす。
これ以上、話すことはないとでもいうように。
さくらは深々と一礼し、部屋を出ていこうとする。
「さくら……ありがとう」
さくらは驚いて振り返る。
誠一が照れくさそうにはにかんだ笑顔をさくらに向けた。
さくらは驚きのあまり一瞬動きが止まった。そしてすぐに嬉しそうな満面の笑みを見せる。
扉が閉まり一人きりになった誠一は扉に向かって静かに告げた。
「……頑張れよ」
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