彼の哀傷
フレディは男が着つけを済ませると、自分で上着を整えた。部屋を出ると、落ち着いたドレスに身を包んだ妻がいた。
「いよいよメイナードの婚礼ね」
「ああ」
「ずいぶんと無茶なことをしたじゃない、あなた? ルークがメイナードを、メイナードがルークを愛してくれたからよかったものの、こうならなかったらどうするつもりだったの?」
「結婚には大抵、当事者のほかにそれを望む者がいるものだ」
「まったく、メイナードとルースが愛し合ってくれたようでよかったわよ。わたくし自身、自由な結婚だったから、強制された結婚なんて絶対に嫌だもの」
「これは運命なのだよ」
クラウディアは肩をすくめた。
フレディは式場の通路を歩いている間、すでにいくつかの木製の長椅子に着いている何人かのひとびとにあいさつした。フレディが前の椅子に着くと、つづいてアダルベルトが着き、クラウディアがその隣に着いた。
フレディは恋しい青春に想いを馳せた。
十五歳からはじまった学生生活は、見知ったひとがそばにいないはじめての生活だった。学び舎は、十五歳までに育てた好奇心を満たし、知識にするための場所だ。
神学を学ぶフレディが農学を学ぶジュリアスに出会ったのは入学から間もないころだった。外廊下で方向を見失っているフレディに声をかけてきたのがジュリアスだった。フレディなりに教室を探して歩いていたのだが、「神学の教室はあっちだよ」とジュリアスが人差し指の先を向けたのは、フレディの歩いているのとは反対方向だった。
「あっちに渡って、そのまま向こうへ進むんだ」とジュリアスはいった。
変に廊下を曲がったせいで正しい道から逸れていたらしかった。
「ああ、そうでしたか。どうもありがとう」
「ううん。おれはジュリアス・バログ。おれも前に迷って、神学教室のほうまでいっちまったからわかるんだ」
「私はフレディ・ザック・ヘイリーと申します」
「ザック? ザック・ヘイリー? 皇族とおなじ名前じゃないか」
「ああ、父は、その……」
「ええ、まさか皇帝陛下?」
フレディはどうしてか、彼の反応を受けとるのが恥ずかしくてたまらなかった。
「それじゃあ、きみ、皇太子か!」
顔を真っ赤にしてうつむくフレディに、ジュリアスは「なにを恥じることがある? こんな馴れ馴れしく話しかけて、おれのほうが恥じるべきだろう」といって笑った。
「ここに入るために、なんとか読み書きを覚えたくらいで、礼儀作法はさっぱりなんだ」
「いいんです、いいんです、それでいいんです……」
フレディのおどおどした声は校舎全体に響いた
「まずい、神学教室まではだいぶあるぞ、急がないと遅れちまう」
ジュリアスは「いけ、いけ」とフレディの背を叩いた。それから「またな」と手を振って自分の教室に向かっていった。
自宅へ帰ると、フレディは早速ジュリアスのことを話した。「とてもいいひとに出会えました」と。興奮に顔を赤くして話すフレディを、父は優しく見守っていた。父にとって、母親似のフレディは、妻の存在を感じさせてくれる存在だった。
フレディが次にジュリアスと会ったのは学び舎の食堂でのことだった。一人で食事しているフレディを見つけたジュリアスが前の席へやってきたのだった。
「やあ、皇太子殿下」
フレディはフォークを持った手の動きを止めた。「そ、そんな呼び方はやめてください……」
「皇太子は皇太子だろう?」
「そうだけど……」
「よし、じゃあフレディだ。おれのことは覚えてるかい、フレディ?」
「ジュリアス……」
「正解だ! また会えて嬉しいよ」
フレディは黙って頷いた。
「なあ、もしかして、皇太子だっていうのは隠して通ってるのか?」
「そんなことはないよ。でも、その……ちゃんと友達が欲しいんだ」
「ああ、なんだっけ」ジュリアスは「知ってるぞ」といってこめかみのあたりを掻いた。「ああ……平等……対等!」ジュリアスはそうだ対等だ、といって満足げに手を叩いた。そしてフレディに人差し指の先を向けた。「対等な関係を築きたいんだな?」
「うん」
「なるほど。いいね、そういうことならおれも気が楽だ。フレディ、おまえはおれの友達だ。うん、生まれてから十五年、一歩も出てない地元から離れてこんなところに通ってるんだ、友達は必要だよな」
ジュリアスはチーズと一緒にパンを口に入れた。「神学ってどんなことを勉強するんだ?」
「うん……神に対して理解を深めたり、信仰を深めたり……ずっと本を読んでいるよ」
「読み物までするのか! すごいなあ……農学なんか、この作物はこういう性質でとか、これを育てるにはこういう肥料が必要だとか、そんなことばっかり話してるぜ。大体は先生の話を聞いて終わるんだ。先生のつくったテキストを読んだり、個人的にメモをとったりはするけど、ほとんど文字にはふれないんだ」読み書きの勉強なんて入学のためだけにしたのに、とジュリアスは肩をすくめた。
「すごいじゃないか」とフレディはいった。「作物の性質についてなんて、私にはついていける自信がないよ」
「神とか信仰について学ぶよりずっと楽だと思うよ。植物の種類とそれの好む環境をざっと話で聞いてるだけだからね」
「ねえジュリアス、きみは将来、農業をやるのかい?」
「ああ、親がそうだから。ここまでつづいてきた畑を守らないと」
「そうか」
「おまえもそうだろう? 家のために神学をやってるんだろう?」
「うん」
「こう考えると、祖先たちがちょっと羨ましくなるな。だって、だれに決められるでもなく、その仕事を選べたわけだろ、たぶんさ」
「そうだね」
フレディはジュリアスがパンを口に入れるのとほとんど同時にサラダを口に運んだ。
ジュリアスとの交友は長くつづいた。ジュリアスが神のもとへ逝ってしまうまで——いや、逝ってしまった今もつづいている。
十代の終わりが目前に迫ってくると、ジュリアスとは酒を飲むようになった。学び舎からすこし離れたところに、落ち着いた空気の流れる酒場があった。そこのカウンター、ジュリアスが
ジュリアスは「え、うそ」といって驚いた。危うく
「え、どんなひとだよ?」
「美しいひとだよ」フレディはグラスの中身で自分の感じている恥ずかしさを押し流すことができでもするかのように、
「美しいっていったって、種類があるだろ」
「種類?」
「歳上みたいに静かな落ち着きのあるひとなのか、それとはまた別に気品のあるひとなのか、またあるいは知性的なひとなのか」
「美しくてかわいらしいひとだ。実際に年齢は下だけど、少女みたいに無邪気なひとなんだ」
「へええ、そりゃあいいな。名前はなんていうんだ?」
フレディはまた
「ふうん。たしかに美人そうな名前だ」
「きみは?」
「ジュリアスだ」といって彼はふざけた。それから喉を鳴らして
フレディは小さく笑った。「どんなひとが好きなんだい」
「あんまり華やかなひとよりは、素朴な愛らしさのあるひとがいいな」
「なんとなく、きみの想像している女性の像がわかる気がするよ」
「お、」ジュリアスはおもしろそうにいった。「どんなだよ?」
フレディは
「だいぶ違うじゃねえか」
「でも髪色には自信がある。赤みがかった茶髪だ」
ジュリアスはただ小さく笑った。
「体型は健康的なもので、背は平均より気持ち高い」
「あまり個性のない女性を思い浮かべてるだろう」
「きみがそういうひとが好きだといったんだ」
「たしかに、おれは女性が個性的である必要はないと思ってる。それは間違いない。そうだな、いい方を変えよう。おれが女性に求めるのは、おれが愛せて、おれを愛せることだ」
フレディはチーズを口に入れて頷いた。「たしかにそれが一番いい」それからまたグラスに口をつけた。
「しかし羨ましいなあ。おれはさ、フレディ、必ず結婚したいんだ」
「そのうちに、いいひとが見つかるだろう。そう急ぐことはない、私はまだ二十にもなっていないけれど、きみはいくつだい?」フレディはいたずらに笑って見せた。「あまり変わらないように見えるけれど」
「おれはね、死ぬことが一番怖いんだ。だって、全部なくなっちまうじゃないか。だからせめて、結婚したいんだ。そして子どもが欲しい。おれ自身が死ぬのは、もうしょうがない。だって神の決めたことだ。でも、それでも、おれの全部がまったくなくなっちまうのは嫌なんだ。せめて子どもがいれば、血が残る。なんなら、子どもはおれを覚えていてくれるだろう」
「妻は?」
「残して逝くのは嫌だ。だって理想が叶えば、その妻はおれを愛してるんだから」
「うん、そうだね。そうか、うん」
「そうすると、子どもがいない限り、おれは死んだらもうおしまいなんだ。命と一緒に全部消えちまう。おれはね、それが一番怖いんだ」
フレディは黙ってグラスの脚を指先でなでた。ジュリアスに深く共感していた。
「そうだ、フレディ。おまえにも子どもができるだろう。おれもがんばって子どもを残そう。そしてあれだ、互いの子どもが大きくなったら結婚させよう。ザック・ヘイリーの名前はこの国と一緒に永遠に残るだろうから」
「ヘイリーは母の名前だ。これまで、皇帝は代々、妻の苗字をもらっている」
「じゃあザックか。おれの子どもにザックの名前をくれてやってくれよ」
フレディがジュリアスの真意を測っているうちに、彼はまたごくりと
—…—…—…—
いよいよ聖職者が開式のあいさつをはじめた。
ああジュリアス、きみは永遠になるのだ!——
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