散歩
皇城の、割合近くにある広場まで三人で歩いた。出かける直前、男が皇太子と「お供いたします」「必要ない」「いいえ、なりません」などとしばらくいい合っていた。
広場には、幼い子を連れた婦人が多かった。彼女らはかわいらしい幼子を抱いて歩いていたり、小さなふくふくとした手を引いてゆったりと歩いていたりする。
皇太子の手を引いて進むアダルベルトについて歩いて、薔薇園にたどり着いた。ルークは母から聞いたわずかな知識をひけらかそうとしたが、アダルベルトは皇太子の手を離して奥へ奥へといってしまった。園の中央には薔薇の枝が絡んだ
ルークは長い椅子に腰をおろして、
「つる性の、みたいなことかい?」
「ああ、それだ!」とルークは手を叩いた。「つる薔薇!」
「なにか思い出でもあるのかい?」
「まあね、おれの薔薇に関する数少ない知識の一つだったわけだよ。いい思い出だ」
珍しい鳥の声に誘われるようにして、ルークは花と花の間から園を見た。
「聞いたか、今の声?」
「うん」
「あれは山奥で声を聞ける鳥なんだ、こんな都会で聞ける声じゃないんだぜ」
「なんていう鳥なんだい?」
ルークはちらりと皇太子を見て、すぐに園のなかにアダルベルトを探しはじめた。優しい皇太子はそっとしておいてくれた。
「アダは薔薇が好きなのか?」
「すこし前まで、育てていたんだ。母が買ってきた苗の一つをね。でも虫や病気や寒暖差に傷んでしまって……」
「そうなんだな。皇妃陛下はどこで苗を?」
「どこだろう。立派な苗があったとしかいっていなかったから……」
「そうか。近くで売ってればいいのにな」ルークはふと自分の汚さに気がついて苦笑した。「これじゃあ、なんか、もので好感を買おうとしてるみたいだけど」
「アダは喜ぶだろう」
「そうかな」ルークはふと、アダルベルトの背中を見つけた。「アダの喜ぶ顔か……見たいなあ」
メイナードは、ルークの横顔を眺めながら、胸が苦しいようなあたたかさで満ちるのを感じた。どうしようもなくルークを愛している。いつまでも抱きしめていたい。
ルークがふとこちらを向き直った。「なあ、皇太子?」
「なんだい」
「アダがおれを許してくれたら、皇太子、おれの家族に会ってくれないか」
息をつくと自然と口角があがって、目もとが熱くなった。「ああ、喜んで。ぜひ会いたいよ、ルーク」
「でも……前に話したように、弟はあんなことがあったものだから、おまえを怖がるかもしれない。そのときは、傷つかずに許してやってほしい」
メイナードは二度三度と頷いた。「わかった」
ルークは自然に微笑んだ。「ありがとう」
ルークは自分の視線が皇太子のくちびるにあるのに気がついた。よそへやろうにも目が動かない。次第に、欲求が湧いてくる。
あのくちびるにふれたい——……。
ふと、皇太子が椅子についていた手にふれた。ルークはそれでようやく彼のくちびるから目を逸らすことができた。
「愛している」
「ああ」無意識につづけようとした言葉に驚いて声を飲みこんでしまった。おれも、と、そういおうとしていた。ルークは、はっとして皇太子の目を見た。おれは、皇太子を愛している?……。ああ、驚くべきことにそうなのだろう、皇太子を愛しているんだろう。だってそうでなければ、どうしてふれたいと思う? これほどまでに、彼のくちびるに魅力を感じる? 自分のくちびるで、彼のくちびるのやわらかさを感じたいと思う?
ルークはようやく受け入れて微笑した。「おれも」
子どもが喜ぶように笑う皇太子の目が濡れているように見えた。
「ああ、早くアダの許しがほしい。今すぐに、キスをしたい」
ルークは喉で笑った。「まったくだ」
ふわりと吹いてきた風はいい匂いがした。
「アダだ」という皇太子の声の向けられた方を見てみると、アダルベルトがなにかを持って、上機嫌な様子でこちらに歩いてきているのが見えた。
「なにを持ってるんだ?」
ルークがつぶやいたとき、アダルベルトがちょこちょこと走りだした。「アダ、ゆっくりだ、ゆっくりきて!」と皇太子が呼びかける。アダルベルトはますます急ぎ足になった。皇太子がため息をつくように「おお……」なんていうものだから、ルークは笑った。
アダルベルトは走ったままこちらまでくると、手に持っていた一輪の花を皇太子に差し出した。輝くばかりにあざやかな黄色の薔薇だった。
「私にくれるのかい?」
アダルベルトは鼻に響く声で、楽しそうに無邪気に笑った。
「ありがとう、アダ。でもこれ、だれにもらったの?」
「だめ?」
「ううん、だめじゃないよ。だれ? アダにこれをくれたのはだれ?」
アダルベルトはしばらくぼんやりとした目をして、ふと気がついたように
「皇太子、」と呼びかけると「だめ」とアダルベルトが反応したので、「アダ」と呼びかける相手を変えた。「ちょっと待ってて」
ルークは
女は、ルークがお嬢さんというよりはお姉さんと呼ぶような歳頃で、男は髪に白いものが混じっていて、おやじさんといった歳頃だった。
「あなたたちがここの薔薇を管理してるんですか?」
「ええ」と答えたお姉さんは突然の
「ここは素晴らしい場所だ。お姉さんのはじめられたもので?」
「ええ。夫の土地なんです、はじめはこの一角で、わたくしが趣味の園芸をやっていたんです。でも薔薇って、種類がたくさんあるでしょう? わたくし、一つや二つでは満足できなくなっちゃって、もう一株、もう一株ってやっているうちにこうなってしまったの。ここまでやってしまえば、もうみなさんに解放してしまおうと思って、この薔薇園はできたんですの」
ルークは壮年の男を見た。「そちらの方は?」
「ここを解放してから、お手入れをお願いしているマックス。多くのひとに見せるのに、素人の趣味程度のできじゃあだめでしょう?」
ルークは納得したと伝えるように頷いた。「今はなにをしてるんです?」
「花がらを摘んだり、傷んだ葉をとってもらっているの」
「葉はあちこち傷むんですか」
「雨がつづいたりすれば、弱いものはすぐにね」
「丈夫なものもあるんですか」
「種類は無限といっていいほどあるから、もちろん、何年も傷まないようなものもあるわ。あちらに見える黄色いものなんかは、かなり丈夫だわ」
「おお、あれかもしれないな」
お姉さんが見るので、ルークは「実は」とようやく本題に入った。
「連れがあなたたちに黄色い薔薇をもらったんです」
「ああ、あの天使みたいな子! わたくしにはあの子が胡蝶のように見えたわ。ふわふわと優しい雰囲気を持っていて、美しくて愛らしいの。そんな子があの花を楽しそうに眺めていたものだから、わたくし、ついあの株のなかで一番きれいに咲いているのをあげたの。迷惑だったかしら?」
「いいえ、そんなことは。ところで、私も一ついただきたいのですが」
お姉さんはいかにも不快そうに眉を寄せた。「だめよ、あなたは彼のようにかわいくないもの」
ルークはますます、彼女をお嬢さんと呼んでおくべきだったと思った。
「まあ、そういわずに」
「なんて図々しいこと」
「それがあいつ、とても喜んでいたんですが、すぐに大好きなひとへやってしまったんです。あいつは薔薇の花が好きなので、ぜひあいつに持っていてほしいんです」
「あらら。そういうことならそうといってちょうだいな。彼は何色が好きなの?」
ルークは指先で顎をさすった。アダルベルトは何色が好きなのだろう?
「いいわ、あっちに、さっきのと香りも色も似たものがあるから、それをあげましょう」
お姉さんは無口なマックスを呼んで、別の株の方へ向かった。
マックスのはさみが棘のある青い枝を軽々と切った。彼の小さめだがしっかりとした手が花のついた枝を差し出す。ルークは礼をいって受けとった。
「それはマックスがつくった薔薇よ」
「つくった?」
「マックスは花卉栽培をしているの。ここに咲いている薔薇の多くが、マックスから買ったものなのよ」
「へええ。新種の薔薇を生み出したってことですか」
「ええ」お姉さんは得意げに頷いた。
「すごいな、神みたいなひとだ!……」
「それ、」はじめて聞いたマックスの声だった。見た目以上の年齢を感じさせる声だった。「土に挿しておくといい」
「土? 花瓶じゃなく?」
「うん、うまくいけば根が張って、また花が咲く」
「へえ、種がなくても花は咲くのか! それじゃあ、草むしりってきりがないけど、もしかしたら抜いたあと放っておいたのが根づいてるのかもしれないな」
マックスは笑って、「もしかしたら」と頷いた。
ルークは「どうもありがとう」と丁寧に頭をさげた。
皇太子たちのところへ戻ろうと一歩踏み出したときだった。「少年!」とお姉さんの声に呼ばれた。ルークは一瞬、子どもじゃないと腹を立てたが、すぐにまた彼女をお嬢さんと呼ぶべきだったと思った。
「なんです、お姉さん?」
「彼、天使のような彼の名前は?」
「アダルベルトです。アダルベルト・ヘイリー」
お姉さんは満足げに頷いた。「彼の健康と幸福を祈るわ」
「おれは?」
お姉さんは肩をすくめた。ルークは体ごと振り返って手を振った。「マックス! ありがとう! あなたに幸あらんことを!」
アダルベルトはぱあっと目を輝かせて花を受けとった。美しく咲いた花を鼻に寄せる。無邪気な笑い声がルークを喜ばせた。
「アダ、ありがとうは?」
皇太子の声に促されて、アダルベルトは立ちあがった。それからルークの前に立つと、体をぶつけて腕をまわしてきた。
ルークは思わず笑って、抱擁に応えた。「アダ、おまえはかわいいな」
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