不快

 アダルベルトの落ち着きは、あれから戻ってくることがなかった。皇太子が話しかけても応じないし、彼がふれようとすればその手を払って逃げてしまう。そうして隅の方でちぢこまって泣いているのだ。

 ルークは悲しそうにしている皇太子の腕に肩をあてて彼の気を引いて、ささやいた。「アダはおまえを好きだからこそ不安定になってるんだ、おまえは拒まれてるんじゃない」

 ルークはアダルベルトのそばへいった。廊下の隅っこでちぢこまったアダルベルトは、自分自身を抱いてやるようにして、涙声でなにかつぶやきながら体を揺らしていた。

 「あ、だ……いいこ、だ、……さ、わたし、みて……。あ、だ、……ぶどう、……たべるかい……」

 「アダ……」

 「あ、あ、あだ……ごほんを……もっておいで……よんであげよう……」

 ルークは後ろから、アダルベルトの痩せぎすな体を抱いた。小さな子を抱いているような感覚になった。あまりに細くて、大して身長が変わらないようには思えないほど小さい。

 「アダ。アダ、ごめん、ごめんな。皇太子はおまえを愛してる。皇太子はアダが大好きだよ。だから怖がらなくていいんだ。安心して、皇太子といればいい。今までどおりに暮らせばいいんだ」

 アダルベルトは、絶えず、皇太子との記憶をつぶやいている。

 メイナードはそっと、愛おしい二人の青年を腕のなかに閉じこめた。

 「アダ、愛してるよ。私はきみを愛している。きみを一人にはしない」

 アダルベルトの見たり感じたりしているのは暗がりだった。凍てつくような冷気が肌を刺す暗がりだった。もうメイナードとは一緒にいられないのだと思った。メイナードは自分のことよりもルークを愛しているのだと感じた。そうした気づきと考えが、無防備で脆い精神を過酷な暗がりへ放り出した。なにを見たわけでもない、なにを聞いたわけでもなかった。ただそばにいるメイナードから、そう気づくような、そう考えるようなものを感じたのだった。

 一緒にいられないのなら、メイナードがそばを離れていってしまうのなら、もうそばにいたくなかった。もう、優しい腕も優しい声も、知らずにいたかった。叶わないのであれば、もっとそばにいたいなどと願いたくなかった。思い出で自分をあやすことができるならそれでよかった。

 それだのに、過酷な闇に悲しい光が射してきた。凍てつく肌が切ない体温で溶かされた。そちらへいきたいという願いの種が心のなかに落ちて、瞬間、深く強い根を張った。

 振り返ったら顔が見えた。メイナードの顔が見えた。「愛してる」とささやくメイナードの顔が。新しい涙が恋しいひとの顔を滲ませて、頬へ落としていく。

 アダルベルトは、自分の腕とは別の、苦しい締めつけに抵抗した。メイナードのところへいきたかった。体を締めつけるのは彼の腕でなければならなかった。

 「あ、あー、あ!……ああ、あーあ!……」

 アダルベルトの叫びが皇太子を呼んでいるようにしか聞こえなくて、ルークは苦笑した。抱擁をといてやると、アダルベルトは皇太子に抱きついた。

 アダルベルトは優しい腕に包まれてほっとした。過酷な暗がりはもうすっかり消え去り、世界で一番好きな香りとぬくもりとに満たされて、眠気にも似た安らぎに浸った。

 メイナードはアダルベルトの背をゆっくりと叩いた。


 なんとか落ち着きをとり戻してからというもの、アダルベルトは皇太子にしがみついてまったく離れなくなった。それならそれで構うことではないが、その目が常にルークを見張るように睨んでいる。ルークはその敵意が滲んだような鋭い目と意図せず視線を重ねるたび、気まずく目を逸らすはめになった。

 ルークは手をもみもみ、アダルベルトの目つきをやわらげる方法を考えた。

 「ああ……。そうだ、なあ、皇太子?」

 剣が風を切る音でも聞こえてきそうな調子で、アダルベルトの鋭い目が向けられた。ルークはたまらず両手をあげる。しかし、恐ろしいことに、あんなに皇太子にべったりだったアダルベルトが皇太子からさっと離れてこちらに向かってくる。ルークは神に祈った。

 アダルベルトは勢いよくルークの胸を突いた。どんと鈍い音が立った。

 「アダ!」

 皇太子が顔を青くして向かってくるのを見るか見ないか、ルークは突かれた胸を押さえた。

 「アダ、そういうことをしたらだめだ。だめ。わかるね?」

 ひとの体は生きるためによくできているらしい、心臓を守ろうと大げさなほどの痛みを訴えている。対して心臓の方はまったく無事で、胸の浅いところが痛むばかりでほかに異状はない。

 「皇太子、そう叱ってやるな、おれは大丈夫だ」

 「だめだ」皇太子の返事は早かった。

 ルークは皇太子がすぐにアダルベルトに向き直るのを見た。「まあ待て。アダは感情の表現が苦手なんだろうさ、怒っている、嫌がっているって伝えるにはそうするしかなかったんだ」

 「それでもやっていいことと悪いことがある。腹を立てるのは勝手だが傷つけちゃいけない」

 ルークは痛みに慣れてきた胸をさすりつつ姿勢を直した。ようやくまともに皇太子の顔を見た。はじめて見る表情だった。美しい光の粒を濃縮したような緑色の瞳の奥から怒りが滲んでいる。日ごろの美しさはそのままに、ひどく厳しい光が燃えるように輝いていて、また普段穏やかな口もとはきりりと引きしまっている。

 メイナードは屈んでアダルベルトと目線を合わせた。「アダ。アダ、私を見て。私の目を見て。そう、いい子だ。さっきはどうしてルークにあんなことをしたの?」

 ルークはアダルベルトに対する皇太子の怒りを変に増長させないように、こっそりと咳払いした。視線の先で、アダルベルトが困ったように体を上下に揺らして唸り出した。逃げ出そうと目を逸らすのか、皇太子が「私を見て」と低い声を出す。

 「あ、う……んん、……ん、あ、え……」

 「うん、私に教えて」

 「……あ、え……。うう……。あ、あ……わ、え……」

 ルークはアダルベルトの声に注意しながら、その声のいいたいことを探した。

 「わ、……わ、ら……え、……らえ、」

 「うん」

 「ら、……た、え、……たうぇ」

 ルークはようやくそれらしいものを見つけた。「『だめ』?」

 「だめ?」メイナードはルークの声を受けとってアダルベルトに訊いた。「なの?」

 「ん、んん……だ、め……」

 「うん、そうか。なにがだめだった?」

 「だめ、だめ……。だ、め……だめ!……あ、ああー……る、く……だめ、だめ……」

 「ルーク? ルークがだめなの?」

 「だめ、だめ……。だめ、るぅくだめ」

 「どうして?」

 「だめ、だめ……だ、……あー……だめ、だ、め」

 「ルーク、だめ?」

 アダルベルトはメイナードの袖を引いて必死に訴えた。ルークはメイナードをいなくしてしまう。ルークはメイナードをいなくして、アダルベルトをあの凍えるような闇に放り出す。アダルベルトはルークがなのにメイナードと関係があることを伝えたかった。伝わらないもどかしさに体を揺らしながら、何度もメイナードの袖を引く。

 「だめ、るぅく……るぅくだめ!……」

 ルークは後ろから覗きこむようにして、アダルベルトが皇太子の袖を引っ張っているのを見た。それで確信した。

 「やっぱりそうだ、おれが皇太子を奪っちまうと思って怒ってるんだ」

 「アダ。怒ってもいいけれど、こうやってどんってしたらだめ。どんってしたら『』の。『』は『』。ここだけじゃない、ここも、ここもここも、『』ってしたら『』。『』は『』。わかった?」メイナードは重要な言葉を強調して話した。

 「ね、『』は『』。『』から『』。いいね? 『』をしたら、『ごめんなさい』するの。『』。アダはさっき、ルークに『』したから、ルークに『』するの。できるね?」

 「お、くぉ、……こ、め……」

 「『』」

 「ごめ……あさ……」

 「うん、『』って」

 「ごめ、なさい……」

 「うん、じょうず。ルークにごめんなさいしてきて」

 「あ、あ……」

 アダルベルトが袖を引くと、メイナードが立ちあがった。そして背中を押して歩きだす。アダルベルトはルークもをしたと伝えたかった。けれども伝わらないまま、メイナードに促されてルークの前まで歩いていく。

 アダルベルトは最後にメイナードを振り返った。彼はただ優しく微笑んで頷くばかりだった。アダルベルトは悲しくなった。

 「ごめ、なさい……」

 ルークは微笑んで首を振った。「いいんだ、おれもアダに『』しちゃったな」ルークはこれまでにないほど丁寧にいった。「『』」

 アダルベルトはただ関心に駆り立てられて、見て快くない不気味なものを覗き見た子どものように、わたわたと皇太子のもとへ戻ってしがみついた。

 ルークは自分がよっぽど嫌われているのを見て、苦笑しながらこめかみを掻いた。

 「ああ、アダ。ちょっと散歩でもいかないか? なにかおもしろいものが見つかるかもしれない」ルークは慌ててつづけた。「ああ、もちろんだ、皇太子も一緒だ。もちろん、もちろん……」

 ルークはなんとかアダルベルトの好感を買おうとした。「知ってのとおり、おれは田舎者だ」なにか間違えた気がして肩をすくめる。「ああ、それだから……虫や動物や、植物に詳しい」

 「アダ」皇太子が呼んだ。「虫も草花も好きでしょう?」

 アダルベルトはどこか拗ねたような様子で、皇太子の腕に抱きついた。

 ルークは小さく笑った。「自分以外のだれかが皇太子と仲よくしてたら、そりゃあ妬ましくも思うよな」

 皇太子がこちらを見るので、ルークは「おれだってそうだ」と打ち明けながら肩をすくめて恥ずかしさを隠した。

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