夫妻の呪い

 夫は悪魔を呪った。ベッドで眠る妻の手を両手で包むようにして握りながら、すべて、すべてあの悪魔のせいだと呪った。またそうしながら、妻との過去を嘆いた。

 ああ、ここにくるまでにどれほどの困難があったことか! 我々は悪魔に呪われている! 悪魔は常に我々のすぐ前にあって、神への祈りを残酷に引き裂いてしまう!

 男がこの女の夫となるまでには、まず現在の妻である女の拒絶があった。女は男の心を惹きつけてやまず、男は幾度となく女に愛の言葉を贈った。一緒にいたいと願った。何度目の訴えであるかなんていうのをとっくに忘れてしまったころになって、ようやく、男は女のそばにいることを許された。男はこのまま、人生が幸せに満ちあふれたものになると信じた。しかし次の壁はすぐそこにあった。女の家族が男との結婚を認めなかった。娘のためといいながら、その娘自身の「彼といたい」という願いを頑として承知しなかった。

 男にはとり立てて優れたところはなかったが、また劣った点も特になかった。他人ひとと比べて美しい容貌をしているわけでも、醜い容貌をしているわけでもなく、多くの金を持っているわけでも、その日食べるものに困っているわけでもなかった。それだから、女に対して高い身分でも低い身分でもなかったし、女の家族がこうして特別に結婚を拒むのには理由がないと思った。

 禁を犯したのはそのためだった。夫婦になるより先に親になった。そうすることで家族を説得するのだった。

 そこまでしてようやく、男は女の夫になった。

 あるいは、神は実在するのかもしれなかった。教えにそむいたせいか、子を産むというときになって、妻は死にかけた。子はいつまでも母体を離れたがらず、母はいつまでも痛みに苦しんだ。陽がのぼり、沈んで、またのぼった。そうして生まれてきたのは、悪魔の魂を宿した赤子だった。悪魔の魂は子を蝕み、子から言語と知性を奪った。

 息子の誕生からすべてが狂ったように思う。妻は覇気を失って感情的になることが増え、順調だった家業も、どうしたものかうまくいかなくなった。

 息子と過ごすのは、十年が限界だった——……。

 玄関のドアが勢いよく開けられる音がした。足音が廊下を走ってくる。「おばさま!」姪だった。

 「おばさま、おばさま、あたくし、果物を買ってきたのよ」

 姪は慌ただしく部屋に入ってくると、テーブルにかごをおいて、なかの果物をとり出した。「ねえおばさま、じきに楽になるからね。だってね、あたくし、きのう、皇太子殿下と市場で会ったのよ。だからあたくし頼んだわ、おばさまのためにどうか祈ってくださるようにって」

 姪は持っていた果物をかごのそばにおくと、男を見た。「おじさま、ナイフはある?」

 「キッチンに」

 姪はすぐに部屋を出ていった。

 妻が手を握り返してくるのを感じた。

 「ハンナ!」

 「ああ……ああ、あなた、」妻はかすれた声で、ゆっくりと夫を呼んだ。「あたしたちは呪われているんだわ。まず悪魔に、そして、あとから神に」

 「だ、だったらなんだっていう! 神なんて、神なんて、」男は不恰好に笑った。「神なんてくそくらえだ。呪うなら、呪うなら呪えばいいさ、おれたちが膝をつくことは絶対にない!」

 「あの子を、あの子を捨てたのが間違いだった!」妻は怯えたように、直前までの苦しげな様子がうそのように叫んだ。見開かれた目には涙が浮いている。「あの悪魔はあたしたちを呪っている! だって、ねえ、だって思うでしょう! あたしはあの子を産んだ、苦しみぬいてあの子に会ったのよ。そう、死なずに出会ったのよ! 神はあの子の味方なんだわ、あの子があたしたちを呪っているから、神もまたあたしたちを呪っているの!」

 「ハンナ、」

 「ああ、ああ……あたしはもう死んでしまう、もう助からないのよ!」

 「ハンナ、やめてくれ」

 「だってあなた、あたしは神のくださった機会を捨ててしまった! あの子の親になったのはあたしたちの罪、そしてあの子があの子であったことがその罰、その罰に耐えぬくことこそ贖罪だった! それなのに、ねえあなた、あたしたちは罰から逃げたのよ、あの子を捨てた!」

 「ハンナ!」

 部屋がしんとした。男は妻の手を握って祈った。

 「ハンナ、やめてくれ……そんなことはいわないでくれ。おまえは死んだりしない。あんなお産に耐えたんだ。おまえほど強い女はいない!……」

 あの子を捨てたのが間違いだったと聞こえて、姪は思わず足を止めた。盗み聞きをするつもりはなかった。ただ驚いて足が止まったまま動けなくなった。

 あの子を、捨てた?……あの子ってだれ? まさか、おばさまが天使と呼んで話した、悪魔によって二人の元を離れてしまったという子? その子を、捨てた? おばさまとおじさまが? それじゃあ、悪魔はだれなの! おばさまたち自身じゃない! おばさまは自分の子を捨てて、そのことを悔いているの?

 姪はしかたなく、部屋のドアを開けた。テーブルのそばにいって、果物の皮をむいていく。

 「なあ、ハンナ。おれは一つ、いい情報を持ってるんだ」

 「なんですって?」

 「皇太子殿下、ひいては皇帝陛下についてだ」

 「それがなんだっていうの?」

 「記者に売ろう。そうして、そうしてその金で、医者に診てもらおう」

 「あのひとたちがなんだっていうの? どこで聞いた話なの、事実でなかったらどうするの?」

 「事実がどうかなんてどうでもいい。この話の重要なところは、聞くひとに与える衝撃だ」

 「どんな話なの」

 男は自分がこれから起こすことを想像してにやりとした。「皇太子殿下が、皇帝陛下から生まれたっていうんだよ。父親である皇帝陛下から。しかも皇太子殿下本人が、それを認めるような発言をしている」

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