情愛
メイナードは深い幸福を噛みしめながら、疲れたようにベッドに寝ているルークの服を整えた。
「ああ、皇太子……」かすれた声で呼ばれて、メイナードはびくりとした。「どうするんだ、神はこんなこと許さないぞ」
「そうかな。どうしてそう思うんだい?」
ルークは両手で顔を覆って、ゆっくりこすった。「今のは、実りのない……ことだ」
メイナードは小さく笑った。「そうでもない。きみの熱は私の一部になる」
ルークはようやく、皇太子がなにをしたのか理解した。不思議な冷静さが吹き飛んで、体が燃えるような恥ずかしさにとって代わられた。
ルークは枕を摑んで皇太子に投げつけた。「ばか! ばか野郎! ばかめ、ばかめ! なんてことを!」
メイナードはものすごい勢いで顔にぶつかってきた枕をルークのベッドにおいてやった。「そう怒らないで。もう眠ったほうがいい」
「どの口がいってる!」
皇太子はルークをからかうように、あるいは先ほどのことを強調するように、きれいなくちびるを薄く開いて舌を覗かせた。
「ばか野郎!」
「私は今回のことに関して、自分がそれほど悪い決断をしたとは思わない」
ルークは頭を抱えた。「おれは、おれは……おまえになんてことをさせたんだ!……」
「大したことじゃない。私はきみにふれている間、ずっと幸せを感じていた」
ルークは皇太子を睨んで、彼に飛びかかるようにして自分のベッドに皇太子を押し倒した。
「ルーク……」
「ばか皇太子め、次はてめえの番だ」
皇太子の顔が引きつった。「なんのつもりだ」
「おまえがおれにしたことを、おれがおまえにする」
「だめだ!」
ルークは皇太子の必死な叫びを鼻で笑った。「ほら見ろ。おまえだって嫌だったんだ」
「違う! 決してそんなことはない。しかしきみと私とでは違う。きみは完璧だが、私はそうじゃない。私にとってきみにふれることは幸福だが、きみにとって私にふれることはそうじゃないだろう。きみのすべては私の心身の薬となるが、私はきみにとってそうじゃないだろう」
「おまえがおれの毒になると?」
「なりかねない」
「なら、おれだっておまえの毒になる」
「ならない」
「じゃあおまえだってならない!」
「でも、きみは——」
過剰な優しさは、ときに受けとる側を不快にする。ルークはそういう不快感に煽られて、皇太子にくちづけした。
「二度と、おれの
「ルーク……」
「わかったのかよ⁉︎」
目尻を伝ってこめかみと髪が濡れるのを感じてやっと、メイナードは自分が泣いているのに気がついた。笑ってみたが、涙と情けない声があふれた。
「わかった。わかった、ルーク……」
体に腕を絡めると、ルースは優しく身を寄せてくれた。
「二度とつまらない言葉でおれのひとを貶したり侮辱すれば、おまえであっても許さない。いいな」
メイナードは必死で頷いた。「ああ、わかった、わかった……」
「傷つきやすいんだ、すごく優しいんだ、繊細なんだよ。だから、だからいじめちゃだめなんだ」
「うん……」
ルークは彼がしてくれたように、皇太子の顔のあちこちにくちづけした。彼のまぶたをあふれた切ない水滴もくちびるで舐めた。
「皇太子……おれの大切なひと」
「ルーク」
「うん?」
「ありがとう」
茶化すつもりで笑ったきり、言葉が思い浮かばなかった。ルークはそのままにして、皇太子の胸に頬を寄せた。皇太子の大きな手が、ゆったりと背を叩いてくれる。ルークはあたたかな手のもたらす穏やかな眠気に身を任せた。
メイナードはルークが眠りについたのを確認して、愛おしい彼をベッドに寝かせた。ベッドの横に膝をついて、メイナードはルークの手に、丁寧にくちびるをあてた。
メイナードが自分の部屋に戻ると、アダルベルトは床に丸くなって眠っていた。メイナードはその細い体を抱えあげて、そっとベッドに寝かせた。
「アダ、ごめんね。遅くなってしまったね」
メイナードは髪をすくようにアダルベルトの頭をなでると、彼の眠る自分のベッドに腰かけて、彼の抱えていた本の表紙を開いた。このごろずっと、アダルベルトの選んでくる本は煉瓦のように厚い。メイナードは物語の一番はじめから、ゆっくりと読みはじめた。
目が覚めると、部屋は明るくなっていたがまだ時間は早いように感じた。ルークは仰向けになって額に腕をのせた。深く息をつく。
眠りにつく前、皇太子に対して抱いた感情が恥ずかしい。皇太子のああいう優しさはよく知っているはずなのだ、それなのにどうしてあんなに腹が立ったのだろう。皇太子がこちらに嫌なことをさせたくないあまりもっと求めなければ応えてくれなかったとか、あるいはもっと単純なもので皇太子自身が自分のしたことをされるのは嫌だったとか、あの臆病な優しさに皇太子らしかったり至極当然な理由はいくらでも見つかる。それだからこそ、ルークはあのとき皇太子に対して抱いた感情が恥ずかしくてならない。あのとき、ルークは皇太子の態度がどうしても許せなくなった。彼自身を価値のないもののようにいう皇太子が、どうしても許せなくなった。ひどく感情的になってしまった。
しかしそれは、一体どうしてだろう?……。
ルークは両手で顔をこすって、ため息をついた。
皇太子といると、ひどく感情的になる。ひどく
出会った瞬間にひどく怒って、そのあとすぐに水浴びがしたいと駄々をこねて、昨夜にはまたひどく怒った。
おれはこんなやつだったか?……。
ふとドアが叩かれた。びくりとしているうちに「ルーク」と穏やかな声で呼びかけられる。
「ああ、皇太子?……」
ベッドをおりてドアを開ける。ばかみたいに寛大で神みたいに愛情深くて史上もっとも優れた王のように頼りがいのある、素晴らしい婚約者が現れた。
「おはよう」と彼はいった。ルークは内心で苦笑した。この婚約者に対して自分は、太陽の位置を正確に読むこともできなくなった。素晴らしい彼と
ルークは外側に滲みそうな苦笑を押しこんで「おはよう」と答えた。それから皇太子の体に腕をまわして、あたたかな胸に頬を寄せた。
「皇太子。きのうの夜は、怒鳴ったりしてごめん」
ルークは皇太子の腕が体を包んでくれるのを感じた。
「ルーク……私は、きみのあの言葉や、声や表情に、優しさを感じた。私は嬉しかった。泣いたのは、嬉しかったせいだ」
皇太子の声が耳のそばで優しくつづけた。「そんなふうに謝ることはない」
ルークは胸のなかであふれるものを感じて、皇太子との抱擁をといた。「皇太子……おれは、おれは、おまえが好きだ。好きなんだ、ああ……たぶん、自分で思ってるより、ずっと。なんでかは、……なんでかなんて、理由はわからない。でも、すごく好きだ、それで、……ああ、だから、おまえがなにか、自信を持っていないのが嫌だったんだ」
メイナードはこの上なく幸せな気持ちで頷いた。「うん」
「おまえは、おまえは素晴らしいひとだ。優しくて、何事に対しても丁寧で、おれなんかを愛したりする、変な素晴らしいひとだ、だから……」
「ルーク」メイナードはルークの頬にそっと手をあてた。「私はきみを愛している。心からだ。ルーク・バログを愛している。どうか、そんな言葉でささないで。私の愛しいひとを、そんなふうにいってやらないでくれ」
「でも、おれは……」
きのうの夜を再現するように、メイナードはルークの言葉を聞かないで、彼の愛くるしいくちびるに自分のくちびるをあてた。
「あまり、自分を低いところにおいちゃいけない。きみは神のように尊く、太陽のようにあたたかなひとだ。私はきみに出会えたことを誇りに思う。きみは私の誇りだ。きみはきみを、どうか見さげないで」
ルークは皇太子のやわらかなくちづけを、黙って受け入れた。音を立てて放されたくちびるで、ルークはそっと息を吸った。
「皇太子、……おれは、おまえの配偶者にふさわしいか?」
皇太子は情愛に満ちた優しい笑みを湛えた。「私が配偶者に望む相手は、きみをおいてはだれもいない」
朝食の間、アダルベルトはずっと不機嫌だった。うんうん唸りながら前に後ろに体を揺らしている。
「アダ」皇太子が呼んだ。「どこか痛いのかい? おなかがすいていないのかい?」
アダルベルトは唸る声も揺れる体も止めないで、パンを差し出した皇太子の手を払った。
皇太子はアダルベルトの両手を握って、体ごと彼と向き合った。「アダ。アダ、私を見て。昨夜、部屋に戻るのが遅くなってしまったのを怒っているのかい?」
体を揺らすアダルベルトの唸る声が湿っぽくなってくる。鼻をすする音が混じり、とうとう唸る声は泣き声に変わった。
「アダ、どうしたんだい? なにかあったのかい?」
アダルベルトはわんわん泣きながら勢いよく席を立った。そのままなにかに呼ばれるように廊下へ出ていってしまった。
ルークはふと不安になって、立ちあがりかけた皇太子を呼び止めた。
息子とほとんど同時にクラウディアが立ちあがった。「アダ! アダ! アダルベルト!」クラウディアはかつかつと足音を立ててアダルベルトを追いかけた。
メイナードはルークに呼び止められて座り直した。「なんだい、ルーク?」
「あんなふうに、」ルークは皇太子の耳のそばでささやいた。「……その、親しくしてたからじゃないか?……アダはそれを知ってるのかもしれない。アダはきっと、おれにおまえをとられると思って不安になってるんだ」
フレディはこそこそと話す息子の婚約者の声に耳を澄ましたが、なんとか聞きとれるかというところで「アダ、そんなことはやめて!」と妻の叫び声が響いてきて、ため息を
ルークは皇太子の目を見た。「アダにはおまえが必要だ」すこし寂しいように感じながら、ゆっくり二度三度と頷く。「そばにいてやれ」
メイナードはルークの頬にくちづけして、母の声の聞こえたほうへ向かった。
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