夜のくちづけ
食後、アダルベルトは皇太子が手際よく果物の皮をむいて、切りわけたみずみずしい果肉を皿に並べていくのを見て、機嫌よく笑った。
メイナードはそれぞれ左右の席に着いている二人の愛くるしい青年に、果物を盛った皿を差し出した。
ルークは礼をいって受けとった。「皇太子、意外と器用なんだな」
「不器用に見えるかい?」皇太子はいたずらっぽくいった。
「果物の皮なんてむいたことないだろうと思ってた」
「私たちは神でも老人でも赤ん坊でもない、なにもかもをひとにやってもらうわけじゃないよ」
「ここのひとたちはみんな、庶民とはかけ離れた見た目をして、たまにものすごく庶民的なことをするからびっくりする」
「実際、中身はほかのひととなにも変わらない。変わったところがあるとすれば、ひどく世間知らずなことくらいだ。じょうずな洗濯のしかたも、おいしい料理のつくりかたも、宿の泊まりかたも知らない。神に祈って、書物を読んで、有事に備える。こうした日常には、世間を知る機会はあまりないんだ」
「それじゃあ、おれが教えてやろう」
「それは嬉しい。……でも、ああだけどせっかくきみに教えてもらえるのなら、世界のことよりもきみを知りたい」
神についてとかその教え——特に禁忌について——はある程度知っているが、そういった知識はどれも直接ひとから聞いたもので、書物に教わったのではなかったから、ルークには皇太子がなにをいっているのかわからなかった。それだから顔を赤らめることも、皇太子に対する自分の気持ちと向き合うこともなかった。
「なんだよ、おれのことなら知ってるだろ? よく知ってるはずだ」ルークはいたってまじめにいった。「顔も名前も、あんまりよくない性格も」
代わりにメイナードが赤面するはめになった。
ルークからしてみれば、皇太子は突然に大きな咳払いをして、アダルベルトに世話を焼きはじめた。なにか皇太子の気に障ることをいってしまっただろうかと反省してみるが、皇太子の態度の変化の理由に思いあたることがあるはずもない。しかたがないから彼の用意してくれた果肉を噛んだ。
湯浴みを終えると、メイナードはアダルベルトの髪を拭いて、寝間着を着せた。
「よし、アダ。ご本を選んで、私の部屋で待っていてね」
アダルベルトは無邪気に笑ってうんうんと頷いた。メイナードは彼の湿った髪をなでた。
図書室に向かうアダルベルトを見送って、メイナードは婚約者の部屋に向かった。
ドアを叩くと、返事があるより先に、美しい空間との隔たりがとり除かれて、愛おしい男が出てきた。彼はメイナードの体に腕を絡めた。体が引き寄せられて、尊いあたたかな形にぴったりと重なる。メイナードはルークの体に腕をまわして彼を閉じこめた。彼の蠱惑的な香りに酔う。
ルークは、自分の鼓動は皇太子にも聞こえているだろうと思った。けれども恥ずかしく思っても落ち着くものではないし、むしろこれを、自分の望みを伝える有効な手段の一つとして諦めた。
ルークは皇太子に腕を絡めたまま、部屋のなかに向かって、足を後ろについた。もう一度、もう一度、もう一度。
後ろへ後ろへ進んで、暗い部屋のなか、足でベッドを探した。とうとうふくらはぎをベッドの枠にぶつけて、そのまま背をベッドに倒した。ついに、皇太子を見あげる形になった。
メイナードは、もう何度覚悟したかしれない、発狂の瞬間を改めて覚悟した。ルークを腕に閉じこめたまま、なにか神秘的な力に導かれるようにして、とうとう彼をベッドに連れていってしまった。体は勝手にルークを押してベッドに倒れこんだ。小さな婚約者の体をつぶしてしまわないよう咄嗟についた手の間から、魅力の化身がこちらを見あげている。
「皇太子、」とかすれた声でささやいて、彼はこちらに手を伸ばす。指先が頬にふれて、その温度や心地や衝撃は、体のなかに入りこんで血を熱し、心臓のあたりで破裂するように花開いた。
「おれは、皇太子……おれは、もうだめかもしれない」
「どうした」と尋ねながら、ルークの手にふれる勇気はなかった。ふれてしまえば、いつあふれてしまっても不思議でない乱暴な欲求が彼を傷つけてしまうに違いなかった。
「寂しいんだ、すごく、寂しい……」
苦しくなった。ルークから目を逸らしたくなった。メイナードは感情的になる前に息を吸いこんで言葉にした。「家に、帰るかい」
「違う」ルークがゆっくりと首を横に振ったのは、確実にメイナードの心を救った。
「家に帰りたいんじゃない、……家族に、会いたいわけじゃない」ルークは胸を満たす寂しさを言葉に変えるごとに苦しくなった。自分が寂しいのは、騙して地元においてきた弟への罪の意識からここを逃げ出したいのではなくて、ただひたすらに、皇太子を求めているからなのだ。
「家族に会いたいんじゃないんだ!……」
メイナードは新鮮な苦しみに胸を締めつけられながら、一筋、ルークの目尻の濡れているのを手で拭った。泣かないで、という無責任な願いを飲みこんだ。
ルークはゆっくりと体を起こした。皇太子はわずかな距離を保ったままだった。
ルークは願うより先に、皇太子の首筋に手をあてて、互いの間にあるわずかな距離を詰めた。まずはじめに緊張があって、すぐに吐息がふれて、最後にくちびるの温度とやわらかさを知った。
「家に帰りたいんじゃない。皇太子、そうじゃなくて、……おまえが、恋しいんだ!……」
メイナードは、はじめて蠟燭の燃える芯をつまんでみるような、薔薇の棘にさわってみるような緊張感を持って、ルークのくちびるに近づいた。ゆっくりと、ゆっくりと、そしてついに、そのすこし湿ったあたたかくやわらかな肌に自らふれた。
臆病に離れて、また知りたくなって、苦しくなって離れて、またふれ合った。
メイナードは婚約者のぬくもりを知りたくて、彼の服の、しわだけでなく織り目に至るまでの細かな凹凸を隅々まで記憶するように手を這わせた。
ルークは心地よい緊張のなかに現実を思い出した。「待って、皇太子……」
皇太子は魔法がとけたように、あるいは魔法にかかったように、静止した。
「まだ、結婚の前だし、……それに、こんなふうに、その……感情に身を任せたら、二重に神の怒りを買う」
メイナードは凍りつくような緊張がとけるのを感じた。ようやくルークの顔を見ることができた。
「それなら、私のものにする」
ルークが冷静になりきれない頭で意味を探っているうちに、皇太子はまた動きはじめた。
「ちょ、ちょっと皇太子、待てって!……」
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