『誘惑』

 意識が眠りから浮かびあがってきてすぐ、体の異変に気がついた。体がひどく重い。どんなに農作業に疲れても、どんなに遊び疲れても、こんなに体がだるく重いことはなかった。

 頭がぼんやりとしている。なんとなく息苦しいような感じもある。風邪を引いたのかもしれない、とルークは思った。

 でも、冬の湖で水浴びしても真っ白になった庭で雪遊びをしてもほとんど風邪を引かずにきたおれが、どうしてこんなあたたかい季節に?……。

 実家に手紙を送ってからこれまで数日の間、体調に異変が生じるようなことをした記憶はない。変なものを食べたわけでも、激しい運動をしたわけでもない。

 ふいにひどい寂しさに襲われた。

 皇太子!——。

 瞬間、寂しさに消えかかった理性が、体の不調の原因に思い至った。ベッドの上で身じろぎして受けた刺激に、口から熱っぽい息が吐き出された。

 くそ! こんなの、はじめてだ!——……。


 ドアの前から声をかけても、ルークの返答がなかった。メイナードがルークの身に起きたこととして一つの可能性を考えてそわそわしているうちに、とうとう食事が運ばれてきた。メイナードは、父が「ルークは……」と声を発するのより先に腰をあげた。

 「父上、あの薬はどちらに」

 フレディは目を見開いた。「起きたのか、ルークに『誘惑』が!」

 「どこにあるんです」

 「必要ない、そのまま——」

 「どこにあるんです!」テーブルを叩きはしなかったものの、感情に任せて叫んだ。そのすぐ横でアダルベルトがびくりとした。クラウディアが彼に「アダ、アダ。大丈夫。あなたが怯えることじゃないのよ」とささやく。

 フレディは気が急いているのに気がついて嫌になった。片手で目をこすって深呼吸する。「私たちの部屋だ」

 「父上、あなたがルークをなんだと思っているのか知りませんが、すくなくとも、あなたの夢を実現させるための道具ではありませんよ!」

 「すまない」

 「二度と彼に対する礼を欠いたまねをすれば、私は彼と二人で暮らします。ええ、ただただメイナード・スタウトとして」

 メイナードは感情に任せてまだしばらく父を罵りたかったが、さっさと広間を出て両親の部屋に向かった。同時に、クラウディアにはアダルベルトをなだめる任務が生じた。

 薬の小罎こびんはドアの横に置かれた小さめの棚に並んでいた。メイナードは一本引っ摑んで部屋を出た。ほとんど走るように廊下を進む。

 その体調の変化はおよそ月に一度起きるという。先月はもう終わりに近いころだったから、こちらへくるより前に起きたのだろう。呼びかけて返事がなかったことに、はじめはただ眠たくて眠っているのだろうと思った。しかし、一度体調の変化という可能性に思い至れば、彼が応じなかったのがそのせいであるようにしか思えなくなった。

 ルークの部屋まであと数メートルというころ、ふと、ふわりとめまいがした。ふらふらと足を止める。目元を手で覆って、一つ深呼吸をする。ふらつく頭は一層強くルークを思った。

 不可思議なめまいはルークの部屋の前にくるとなんでもないように消えた。もっとも、ほかのあらゆる健康的な気分と一緒に。快い、無の空間に心が浮かんでいるような心地になった。

 メイナードは指の関節でドアを叩いた。

 「ルーク。ルーク、大丈夫かい」

 声が聞こえた。ルークは救われた心地がした。寂しさに自分の体を抱えてちぢこまったまま、「皇太子、」と声を出した——そのつもりだったが、ほとんどささやくようなかすれ声だった。何度やってもおなじことだった。

 「ルーク、ルーク、入るよ」

 メイナードは今この瞬間ほど、愛しい婚約者の無防備なところをありがたいと思ったことはない。閂のかかっていないドアは抵抗なく開いた。

 ドア一枚の先は別世界だった。が、した。

 心臓がばくばくする。体が熱い、血が沸騰するようだ。ドアを叩く直前にあった心地よい無は幻だったかのように、欲求に飲みこまれた。メイナードは必死で手を握った。一方の手には爪を立て、もう一歩の手では小罎の形を意識した。私はルークを傷つけにきたのではないと自分にいい聞かせる。

 「こ、こう……たい、し……」

 大砲にでも撃たれたようだった。体の中で花火が開いたようだった。潤んだ瞳、熱っぽい呼吸、紅潮した頬、なにより、愛しいひとを包む、色づくばかりに蠱惑する濃密な香り。

 メイナードは口のなかを噛んだ。考えろ、考えろ、考えるんだ、自分がここにいる目的を!

 メイナードは慎重に、ルークの横たわるベッドに近づいた。口のなかに鉄の味が滲み出す。一歩、大丈夫。もう一歩、大丈夫。もう一歩、まだ大丈夫。

 最後の、一歩。

 メイナードはルークを見おろしたまま、今にも割れそうなほど強く握りしめた小罎を、慎重に、長く持った。それから細心の注意を払って差し出した。

 「薬を、持ってきた」かすれた声を言葉に区切った舌は、鉄の味に濡れていた。

 小罎を受けとったルースがなにか身じろぎしたように見えた。メイナードは逃げるように背を向けて部屋を出た。

 洗面台までいくと、口に溜まった鉄の味を吐き出した。

 掃除道具を持ってちょうどそこへやってきた女が、顔を青くすると手に持っていたものを放り出して駆け寄った。

 「メイナードさま! メイナードさま、いかがなさいましたか!」

 「ああ、大丈夫だよ。水をくれるかい」

 「ええ、ええ」

 彼女がそばの樽から汲んできた水で口をすすぐと、メイナードは息をついた。

 「医者を呼びましょうか」女は落ち着かない様子でいった。

 「なんてことはないよ、ちょっと口のなかを噛んでしまってね」

 「そんな!……なにか、ガーゼでも持って参りましょう」

 「ううん、必要ないよ。大丈夫、ありがとう」

 「傷は深いのですか」

 舌でいじると、またじわりと嫌な味が滲んできた。メイナードは洗面台に吐き出すと、苦く笑った。「ああ……ガーゼをもらおうかな」


 ルークは荒く呼吸しながら、震える手で罎のふたを開けた。すこし上体を起こして、なかの薬を呷る。くちびるを湿らせたひどい味の液体を手の甲で拭って、そのままベッドに倒れこんだ。呼吸を整えて、指先でくちびるをさわってみる。

 すこしくらい、慰めてくれてもよかったのに——……。

 深い寂しさのなかに自分の皇太子に対する見方がきらりと光って、ルークはちょっと笑った。

 まったく、くそまじめなやつだ、皇太子は——。

 カイルあいつの話もしたんだ、おれからなにか行動を起こさなければ、皇太子はなにもしてこない。あの堅物皇太子は、むしろおれが懇願してやっと、恐る恐る応じてくれるくらいだろう。慰めが欲しければ、自分から求めないといけない。手紙を書いた夜から、「おはよう」「おやすみ」と抱擁を交わしている。きょうの「おはよう」が欲しければ、さっさとベッドを出て求めにいかないといけない。

 ベッドの下に足をおろそうとしたが、いうことを聞かない重い体に苦笑する。

 ああくそ、堅物皇太子め……——。


 メイナードは持ってきてもらったガーゼで止血して、ようやく広間に戻った。給仕人を呼ぶと、自分の分とルークの分の食事をさげてもらった。

 「ルークの様子はどうだった?」

 父の声にびくりとした。鼻の奥に残ったルークの匂いが濃くなったように感じた。

 メイナードは静かに頷いた。「あなたの、いっていたとおりです」

 「そうか」といった父の声は、それはそれは嬉しそうだった。

 祈りのあとに食事がはじまった。アダルベルトがちぎったパンを「あ、」と差し出してきた。

 「くれるの?」

 アダルベルトは鼻にかかった声でかわいらしく笑った。

 「ふふ」と母が笑った。「メイナードは食べないの?って。ねえ、アダ?」

 メイナードは礼をいって受けとった。アダルベルトは渡したパンがメイナードの口に運ばれるのを見ると、嬉しそうに声を立てた。


 ルークはようやく体が動くようになって部屋を出た。すぐそこの廊下を掃除している者がいたので、「皇太子は?」と尋ねた。幼い迷子みたいな声が出た。

 相手の女は「広間におられるかと」と愛想よく答えた。

 「ありがとう」

 階段を駆けおりて、廊下には四段目から飛びおりた。そのまま広間へ走る。皇太子の姿を見つけると、駆け寄っていって抱きついた。皇太子の胸に額を押しつける。

 「ああ、ルーク!……」

 「おはよう、皇太子、おはよう!……」

 「おはよう、ルーク。気分はどうだい?」

 「うん、大丈夫」

 顔を押しつけた上質な生地がたっぷりと含んだ皇太子の匂いにうっとりする。「皇太子、……いい匂いする」

 「きみもそうだ。きみによく似合う、魅力的な素晴らしい匂いがする」

 ルークはどきりとした。皇太子の顔を見あげる。

 見あげられたほうは婚約者のその愛くるしい姿に目を逸らしたくなった。

 「おれの匂いが、わかる?」

 メイナードはゆっくりと頷いた。「わかるようになった。さっき、きみの部屋に入ってから」

 「それでも、……あんなふうに出ていったのか?」

 皇太子は一つ頷いた。

 「どうして……」そんなことができるものなのだろうか?

 皇太子の優しい手が頬のほうへ伸びてくる。ルークは上品な手先が頬を愛撫するのを黙って受け入れた。

 「きみの匂いを知って、私は自分が狂ってしまうのを感じた。かつて感じたことのない恐ろしいが湧いてくるのを感じた」皇太子はこの上ないほど優しく、美しく微笑して、首を振った。「でも、きみを傷つけるわけにはいかなかった。きみを傷つけることは、なによりも、かによりも恐ろしい。薬の罎を渡したとき、きみがなにか動いたように見えて怖くなった。きみはこの上なく魅力的で、そして、私の脳の働きをなくしてしまう匂いをまとっている。きみの呼吸が、まばたきが、表情のわずかな変化が、そして苦しいことに、きみの立てるきぬずれの音までもが、私を狂おしく誘惑する。長くはいられなかった。きみは苦しげに、悲しげにベッドに横になっていた。ひとであることを諦めるのがあんなに易い瞬間はなかった」皇太子はゆっくりとルークを抱きしめた。「でも私は、それ以上にひとでありたかった。きみを愛するひとでありたかった。だから、逃げたんだ」

 「皇太子、……」

 「なんだい?」

 「苦しかった?」

 「ああ、苦しかった、とても」

 「それでも、おれのためになにもしなかった?」

 皇太子が小さく笑った。いたずらっぽいような、はじめて聞く笑い方だった。「血腥ちなまぐさい口できみにふれたくなかったんだ」

 ルークは眉を動かした。「血腥い? どういう意味だ?」

 「きみの魅力に抗うには、自分の血を味わう必要があったんだよ」

 ルースが詳しい説明を求めるより先に、皇太子が「ルーク」と甘く名前を呼んだ。

 「うん」

 「愛している」

 今度はルークが笑う番だった。

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