夜の喜悦

 素晴らしい夜だった。新月の夜空は夕方から厚くなってきたまま薄れずに残った雲に隠されているが、メイナードには晴れ渡った空に満月のまぶしい微笑が見えるようだった。

 あの真昼の抱擁はこの上なくメイナードを喜ばせた。喜びは時間が経っても薄れないで、夕食の間に何度、にやにやしそうになったかわからない。右手にはっきりと残ったルースの手の硬さ、体じゅうに残ったルークの細くもしっかりした体の形、厚み、温度。背にまわされた腕の感触。それらが毎秒メイナードを喜ばせる。

 ああ、世界は、人生はなんと素晴らしいものだろう!

 あらゆる存在が尊い。それら尊いものすべてにくちづけしてまわりたくなった。


 入浴を済ませると、メイナードはアダルベルトの髪を拭いた。アダルベルトはおっとりとしてされるがままになっている。

 「アダの髪はきれいだね。色も質も素敵だ」

 メイナードの声に、アダルベルトは鼻にかかった声で笑う。メイナードはアダルベルトの髪をタオルでわしゃわしゃと掻きまわした。

 アダルベルトと二階の廊下に出ると、「ああ、皇太子」と幸せをつくり出す声がした。

 「なにかあったのかい」

 ルークは首を振った。「大したことじゃないんだ。なにか、紙と、書くものが欲しいんだ。家に手紙を出したい」

 メイナードは一つ頷いた。「わかった。持ってこよう」

 皇太子が湿った髪を揺らして身をひるがえしたとき、ルークはふと心細くなった。呼び止めたくなった。

 もしかしたら実際に呼び止めるような声を出したのかもしれない。皇太子はなにかに気づいたように足を止めて振り返った。「自分で選ぶかい?」

 ルークは何度も頷いた。足が皇太子との距離を急いで詰めた。皇太子にくっついていたアダルベルトが、皇太子の腕をきゅっと摑む。

 「どうした、アダ、おれと皇太子が仲いいから嫉妬してるのか?」

 ルークのからかいに、彼はくちびるを尖らせた。困ったように唸って皇太子に助けを求める。皇太子はなだめるように彼の肩を叩いた。

 ルークは階段をおりながら口を開いた。「貴族さまの使う紙とか筆記具なんて、さぞかし上等なものなんだろうな」

 「私にはわからないな」

 「そこは、上質な紙に書かれたきみからのふみを受けとって、ご家族はきっと驚くだろうくらいの意地悪をいってもいいところだったんだぞ。おまえはほんとうに、うんざりするくらいにいいやつだ」

 「私は好きなひとに意地悪するのは好まない」

 「なんて立派なひとなんだ! おれなんて、おもしろいと思って好きなひとにほど、意地悪なことをしたくなるのに」

 「ならきみは、私をおもしろがっているのかい?」

 「そう思うか?」

 「きみはいつも私をからかう、意地悪な方法でからかう」

 「ああ、皇太子はおもしろいひとだ。でもそれも、ちょっと前までのことだ」

 「今はつまらない?」

 「いいや、そうじゃない。おもしろいひとっていうの以上に、いいひとだ」

 「私を好いている?」

 ルークは小恥ずかしくなって笑った。でもすぐに、素直に頷いた。「ああ、好きだ」


 紙の質の違いはよくわからなかった。でも筆記具の違いは一目瞭然で、ペン先はよく知った形状をしているものの、ペン軸には必要以上といいたくなるほど凝った装飾が施されていた。

 部屋に戻って、ドアを開ける。なにかいって私室へ戻っていきそうな皇太子を呼び止める。

 「ちょっと、入ってくれないか」

 そう聞こえて、メイナードはとうとう自分がおかしくなってしまったのだと思った。

 「……なんと?」

 「ちょっと、入ってくれ」

 「私が?」

 「アダが入るのか? おれがアダになにをしてやれる?」

 皇太子はようやく部屋に入ってきた。当然のようにアダルベルトもついてきた。

 「どうしたんだい?」

 「ドアを閉めて」

 「な、なんのつもりだ」

 ルークは、部屋の真ん中のソファではなく、あえてベッドに座った。メイナードは赤面する思いで、自分が嫌になった。

 「ルーク、なんのつもりだ」

 「さっきいっただろ、手紙を書くんだ」

 「そのためにどうしてベッドに座る? どうして私が要る?」

 ルークはむうとくちびるを尖らせて見せた。「ああ、ああ……皇太子殿下はご存知ないかもしれませんが、……わたくしめのような、親から学んで農業に生きて農業に死ぬと、そんな心づもりで学校にもいかなかった農民には、読み書きに不自由があるのです……」

 メイナードははっとした。「すまない、すこし興奮していた」

 ルークはふわりと笑って自分の座る横を見た。「座れよ」

 メイナードが余計なことはしてはいけないと自分によくいって聞かせてからベッドに座ると、無邪気なアダルベルトが彼の読み聞かせを喜んで床に座った。

 「ご本はあとで読もう。お部屋に戻ったら読もうね」

 「あー……」

 アダルベルトはちょっときょとんとしてから、やがて理解して、うんうんと頷いて鼻にかかった声で笑った。痩せた指で細い鼻をふわふわとさわる。

 ルークははじめからテーブルを使わないつもりで持ってきた木の板に、持ってきた紙をのせて、持ってきた筆記具を握った。すこし考えてから何気ない言葉で手紙をはじめて、すぐに苦しくなった。皇太子と結婚したあとには、どうすればいい? 弟に、結婚の事実も、やがて出逢うことになるだろう自分の子のことも、すべて隠しておくのか? 困ったことに、弟の心の状態がまるでわからない。皇太子との結婚を祝ってくれるかもしれないし、皇太子のに怯えるかもしれない。

 この手紙にはなにを書けばいい?……。

 手紙を出そうとはずっと思っていた。しかし手紙を書きはじめるのが今だったのは、皇太子に会いたいと思ってしまったからだった。なにか一言でも、話がしたいと、声を聞きたいと思ってしまったからだった。

 どうしようもなくて、あたりさわりない言葉をつづける。

 ランタンの控えめな灯りを頼りに文字を並べていたペン先が止まる。「ちょうし、ってどう書くんだ?」

 「こう、こう……」皇太子の上品な指先が、まだ広い余白に色のない文字を書く。

 「これで、ええと?……」

 「こう……」

 「ああ、そうだそうだ! ありがとう」

 皇太子が笑ったような息を穏やかについた。ルークはなんとなく、落ち着かない気分になる。手紙を書くのは今すべきことではないような気がしてくる。

 アダルベルトはメイナードのまねをして、ひんやりとした石の床を、一本の指先でなでたり払ったりした。うきうきとしながらそうした遊びをつづけていたが、やがて眠たくなってきた。ベッドに座っているメイナードを見てみても、まだしばらく本を読んでくれそうにない。部屋に戻るのはいつになるだろう? このまま、部屋に戻ることはなくて、あたたかな声が本を読んでくれることはもうないのかもしれない。苦しいほどの寂しさに捕らえられそうになったが、それよりもすこしだけ早く、ふわふわとした眠りが心を抱いてくれた。アダルベルトの意識はゆっくりとゆっくりと、眠りの底へ誘われるままに落ちていった。

 なにか音がして、メイナードはランタンの灯りの薄いそちらに目を凝らした。そちらの暗さに目が慣れると、アダルベルトが床に寝ているように見えた。

 ルークは何度も皇太子に字を教わって、長い時間をかけて手紙を書きあげた。封筒に手紙を入れると、閉じたところにろうを垂らしてスタンプを押しつけた。

 「これはだれに渡せばいい?」

 「だれでもいい。家に送れといえば伝わる」

 ルークはゆっくり頷いた。残ったのはもう、きょう交わせる最後の言葉だった。なぜだかひどく寂しく思えて黙っていると、皇太子のほうが「おやすみ」と、その言葉をはなった。

 寂しさが痛んで、ルークは皇太子を見あげた。「待って!」

 皇太子は半ばあげた腰を再びおろした。「どうした?」

 ルースはかあっと顔が熱くなって俯いた。「どうした、ルーク?」と、気遣わしげな声に急かされる。

 寂しいなんて、そばにいたいなんて、これまで気が狂ったように拒んでいた分際でどういうつもりだろう?

 しかし、甘えたい欲求が小さな勇気を遥かに上回っている。今すぐにでも皇太子にこの欲求を受け入れてもらわなくてはおかしくなってしまう。昼間、自分から腕をまわしたときのように皇太子にふれることができなければ、このおかしな寂しさにつぶれてしまう。

 「皇太子……」

 「うん。なんだい?」

 恥ずかしさが剣を持っていたなら、ルークはもう意識がなければ呼吸もできなくなっているに違いなかった。喜んでいいものか、体を燃やす恥ずかしさは凶器になりうるものはなにも持っておらず、ルークの意識も呼吸も奪わずに、ただやかましく騒いでいる。

 「……おれは、きょう、……おまえに、さわった」

 メイナードはランタンが照らさないところで、爪が白くなるほど手を握った。懐かしい喜びが欲望に変わって体を突き動かしそうだった。

 メイナードは静かに深呼吸すると、冷静に聞こえるように祈っていった。「ああ、きみは私にふれた」

 ルークは皇太子がひどく察しの悪い男に思えて嫌になった。「だ、から……」泣きそうにでもなっているみたいに声が震えた。「次は、おまえの番だ!……」

 髪にふれられた。頭をなでられたのを感じているうちに、頭のくらくらするような熱のなかに閉じこめられた。ああ、皇太子の腕の中だった! 互いの熱に溶けた皇太子の匂いの心地よさに気を失いそうになる。

 メイナードはルークを壊してしまうかもしれないと怖くなった。やっと、愛おしい婚約者を腕に抱く幸運に出逢えた! このまま彼を閉じこめていたいわがままな欲求は、メイナード自身を苦しめながらルースを抱く腕に力をこめさせた。

 メイナードはルークの髪に鼻を押しあてた。彼のすべてが尊い。「ああ、ああ!……ルーク……愛している!……」

 皇太子の深みのある低い声は、彼自身の、ルークを焼くようにあたたかい胸を震わせた。ルークは、皇太子の声に、力強い抱擁に、体の熱に、匂いに、胸が苦しくなるほどの喜びを知った。

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