昼の抱擁

 ルークはちょっと不恰好ながら、皇太子に手綱を握ってもらうことなくエドウィンに跨った。皇太子は「じょうずだ」と頷くと、先にアダルベルトをのせてから、軽快に愛馬に跨った。ルースはなんとなく悔しいような気持ちでそれを眺めていた。

 「ゆっくり、あっちにいこう」

 ルークは頷くと、慎重に馬に指令を出した。馬はルースの尻をくすぐりながらのっそりのっそり歩きはじめる。

 「いいよ、ルーク。じょうずだ」

 ルークは精一杯強がった。「子ども扱いするな」

 メイナードはたまらず口元を緩めた。「かわいらしい」

 耳ざとく「なにかいったか」と振り返るルークに「前を見なさい」と返す。何気ない言葉のやりとりにも、胸が幸せでいっぱいになる。メイナードは服をついついと引くアダルベルトに、「ちゃんと摑まって」と声をかけた。アダルベルトの細い腕が腰に回り、腹のあたりで組まれた。

 ルークは徐々に速くなる馬の歩みに身をちぢめていた。「あ、ちょっ、と、ちょっと皇太子! 止まれってどういうの!」

 「背中をすこし反らして。ちぢこまってはだめだ」

 ルークはひいひい喘ぎながら「これ無理じゃない、ねえ無理じゃない?」と悲鳴をあげる。

 メイナードは愛馬を進めてルークの隣についた。「大丈夫。体の力を抜いて、背筋を伸ばすんだ」

 あたたかい声は魔法のように、ルークの緊張をほどいた。催眠にかかったように体から力が抜けて、背中を伸ばす余裕まで生まれた。

 「じょうずだ、ルーク。さあ、ゆっくり手綱を引いて」

 いわれた通りにすると、馬はゆっくりと足を止めた。

 ルークはそっと息をついてから、へらりと笑って見せる。「すごいな、皇太子、馬の扱い方をよく知ってるんだ」

 「馬は従順だ」

 「おれみたいに?」

 ルークが冗談をいうと、メイナードは困ったような顔をした。

 「きみは従順なのか?」

 「おれは強情なのか?」

 「私がきみを抱きしめたいといったらどうする?」

 「どうもなにも、受け入れるさ」

 想定外の返答に、メイナードは試してみたのを後悔した。ルークにはこういうところがある。いつもこちらをからかうようなことをいう!

 ルークは皇太子の表情に笑った。「私をからかうな、とでもいいたげな顔だな、皇太子? でもそれは違う、今回ばかりは、たしかにおまえからおれをからかった。それに、おれは今回、おまえをからかうつもりはなかった。本気で、答えた」

 「私に、許すのかい」

 ルークは顔が熱くなるのを感じて俯いた。顔だけじゃない、体も熱い。

 こくりこくり、二度三度頷く。「うん」

 「ルーク。私を見てくれるかい」

 ルークは自分の顔が赤くなっているのを知りながら、ゆっくりと皇太子の目を見た。彼の、目に見えるところのすべてが、美の結晶がそうした形をしているのだと思えた。

 しかし、ルークを熱くさせるのは、そうした彼の一つ一つの美しさではない。

 「私に、許すのかい」

 その声や、言葉や、それらの発し方なんかといった、目に見えなくて不変なものだった。

 ルークは改めて頷いた。

 「いつか、きみから私にさわってくれ。私を許したあとに、私に許してくれ」

 「おまえを許す?」

 「きみにふれたいと望んでやまない私を」

 皇太子はあくまでまじめな調子でつづけた。「狂おしいほどきみを愛している、私を」

 ルークはまたうつむいた。「おまえはほんとうに変なやつだ」

 「私は、そのようには思わない」

 「そうかよ……」

 「きみの魅力を知らずにいるほうが、ずっとおかしい」

 「そうかよ……」

 「きみはまるで、魅力それ自体が、ひとのふりをしているようなひとだ」

 「乗馬を……」ルークは声を絞り出した。「教えてくれるんだろ?……」

 「ゆっくり進めて」メイナードは静かにいった。


 馬場うまばに入るとルークはすこし安心した、エドウィンが暴れ出したとしても、とんでもないところに連れていかれることはないから。皇太子にいわれたとおりに手綱を引くと、エドウィンは静かに足を止めた。

 「自由に走ってごらん」

 なんでもないようにいう皇太子に「ばかいうな!」と叫ぶ。

 「きみには早いうちに乗馬に慣れてもらいたい」

 「遠出の予定があるのか?」

 「世のなかには悪人がいる」

 ルークは小恥ずかしくなって頭を振った。「おまえの頭のなかにはそんな考えしかないのか? ばかげてるよ、まったく」

 「とにかく、きみには早く乗馬に慣れてほしい」

 「そんな恐ろしい未来には、でも、ハーヴェイと皇太子がおれの味方でいてくれるだろう」

 「私がきみを抱いてハーヴェイにのるのかい?」

 「それが一番安全だ。エドウィンはおれをどこか知らない町に連れていっちまうかもしれないし、それどろか、おれはそののそばでエドウィンから転げ落ちるかもしれない。そんなに心配してくれるなら、別行動はあまり賢い選択じゃない」

 「ルーク」

 「うん?」

 「慌てることはない」

 「はあ、なんだよ? 早く乗馬に慣れろといったばかりじゃないか。たった今のことだ、忘れたのか?」

 「父の言葉が、きみを急かしているような気がする」

 ルークはちょっと悲しくなった。「別に、慌ててるわけじゃない。いてもない」ただ……ただ、おまえの存在がすこしづつ、大きくなってきているだけだ。

 ルークはエドウィンに指令を出した。従順な馬はゆっくりと歩きはじめる。

 メイナードはルークのあとにつづいた。ルークの心が見えない。あれほど怯えていた彼が、どうして自分を認めはじめたのか。父の言葉に急かされているようにしか思えない。

 メイナードはふと、ルークがずいぶん先にいるのに気がついた。

 「おお、見て、皇太子! うまくない、おれ、うまくない?」

 ルークの声ははしゃいでいるように聞こえた。メイナードは愛おしさに苦しみながら「ああ、じょうずだ」と声を投げた。

 メイナードは愛馬を急かしてルークの後ろについた。愛馬の歩みが速まると、後ろでアダルベルトが無邪気な笑い声をあげた。

 「よしアダ、彼を捕まえるぞ!」

 ルークは後方から聞こえた声に振り返ると苦笑いした。「うわ怖っ。相手は素人だぞ、加減しろよな!」

 広がった距離をすぐにちぢめる。

 ルークはほどよい緊張を持って体勢を低くした。馬はぐいぐい進んでいく。馬の背中で、はじめて心地いいと感じた。

 今のおれ、ちょっとかっこいいかも!——。


 馬場を何周かぐるぐると走って、どちらからというのでもなく、馬の動きをゆったりとさせた。今回はルークも冷静に背中を伸ばすことができた。

 エドウィンもハーヴェイものんびりと出入り口を過ぎてしまったので、メイナードは「このまま一周して戻ろう」と声をかけた。

 ルークは「おう」と応じると、調子にのって馬に小走りさせた。皇太子が馬におなじような指令を出してついてくるのを感じる。

 馬場を出ると、皇太子と横に並んでゆったりと進んだ。

 「なあ皇太子、おれ、だいぶうまくなったと思わないか?」

 右隣で、皇太子はゆっくりと頷いた。「とてもうまくなった」

 「これで水浴びも満足にできるな?」

 メイナードは死にそうに思えるほどの不安に駆られながらも震える声で「うん」と答えた。「ただし、……ただし、私が見張る」

 ルークは小さく笑った。「恥ずかしいなあ」

 「嫌なら止すんだ」

 「いいや、皇太子に見守っててもらえるなんて、そんなに安心できることはない」

 メイナードはなにもいえなかった。心配でならない。

 「きみ自身も注意することだ、十分に注意することだ。姿を、だれにも見せてはならない」

 ルークは顔が真っ赤になるような気がして、思い切りふざけることにした。「神経質だなあ、おれを束縛してそんなに楽しいか? しかし皇太子、あんたはひどい間抜けだ。おれはもう、あんたのご両親にも、アダルベルトにも、従者にも会った。小さなオーガストにもだ」

 メイナードはルークに冷静に見えるよう努めた。しかしなにか話せばぼろが出そうだったので、ふんと鼻を鳴らすだけにした。


 廐舎に戻ると「おかえりなさい!」と無邪気な声が弾けた。小さな廐番に「ただいま」といって皇太子と声を重ねた。

 ルークがかっこいいつもりで馬からおりたとき、皇太子の方は自分ではなく一緒にのっていたアダルベルトをおろすところだった。

 「ルークさん、なんだか楽しそうですね」

 「そうか? 実際には楽しいどころか、恐ろしく感じているくらいなんだがなあ」

 「なにがあったんです?」

 ルークはかなり気取っていった。「おれは自分の才能が怖いんだよ、オーガスト。おれは乗馬の天才かもしれないんだ」

 「おお、うまくできましたか!」

 「そりゃあもう。馬場を颯爽と駆け抜けてきたさ」

 オーガストは喜びと祝福で目を輝かせて、ルークに向けて両手のひらを見せた。ルークは自分の左右の手のひらを、音を立ててそこにあてた。

 メイナードはふいにこちらを振り返ったルースに醜い顔を見せまいと、嫉妬を慌てて腹の奥へ奥へ押しこんだ。

 「おれの才能を引き出したのは、この素晴らしいコーチだ」

 ルークは皇太子へ右手を差し伸べた。皇太子は右手を差し出して待った。ルークはその時間を限りなく短くして、皇太子の品のいい手を握った。それからぐいと引き寄せて、皇太子の背に腕をまわした。

 メイナードは気がどうにかなってしまいそうな幸福に満ち満ちたその一瞬が、一生のように思えた。幸福と喜びとで心臓が破裂してしまいそうだ。世界で最も魅力的な、世界で最も愛しているひとが、その手が自分の手を握った! その腕が自分の体を抱擁した!

 ああ、ああ、私はなんて幸せな男だろう!

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