皇太子の匂い

 皇太子がアダルベルトを抱いて立ちあがった。彼はルークの視線に「部屋に連れていく」と答えた。

 アダルベルトは自分のベッドに寝かせられると、ふっとまぶたを開いた。なんともいえない不安に捕らえられて、目にいっぱいに涙を浮かべる。

 メイナードは彼の頭をなでた。「アダ、大丈夫だよ。なにが不安なの?」

 アダルベルトはふらふらと手を伸ばして、メイナードのもう一方の手を引き寄せて頬ずりした。ルークは「甘えたがりな猫みたいだ」と笑った。

 アダルベルトはメイナードにから、彼こそがメイナード自身である証を探した。手のぬくもり、声の優しさ、きれいな瞳の穏やかなまなざし。どれもこれもがメイナードのものであるのに、なにかがアダルベルトを寂しくさせた。メイナードであるはずなのに、アダルベルトにそう信じきれずにいさせるなにかがある。

 「ああ、あ……うう……」

 「うん。なあに、アダ?」

 「よっぽど寂しかったんだろうな。おれがわがままいったせいだ」

 「そんなことない。責任は私にある」

 ルークはなにかいおうとして、結局くちびるを閉じた。いっそのこと思いきり責めてくれたら楽だが、皇太子のほうもこちらを責めることですこしでも気が済むかはわからなかった。

 「アダルベルトはなにに不安を感じてるんだ?」

 皇太子はゆっくりかぶりを振った。

 ルークはますます苦しくなった。自分がこの城の平穏を壊してしまったように思えた。

 「おまえをとられると思ってるんじゃないか?」

 皇太子はなにもいわなかった。

 アダルベルトはすがるように、メイナードの手に額や鼻や頬をこすりつけた。

 「アダ、大丈夫だよ。私はもう帰ってきた。ここにいる。わかるだろう?」

 アダルベルト自身にも、この不安の正体がわからなかった。メイナードが帰ってくるまでの不安の残り香かもしれないし、それとはまた別な、メイナードが帰ってきたことによる不安かもしれなかった。


 皇太子がアダルベルトを寝かしつけるのには時間がかかった。皇太子は言葉で慰めるほかに、揃えた指先でアダルベルトの腹を叩いたり、思いつきかルークが知らない有名な曲かを鼻で歌ったりした。

 ようやく部屋を出てくると、ルークは皇太子を呼んだ。

 「おまえはどうしておれに結婚を申しこんだ?」

 「きみは、私の友達になってくれるのだろう?」

 「皇太子にとって友達は、隠しごとをする相手なのか?」

 メイナードはそっと口角を持ちあげて首を振った。「わかった」と答えて、「まず」とつづけた。「前提として、私は今から話す内容によってきみを傷つけるつもりはない。これから話す理由は決して、私がきみを愛していない理由にはならない」

 ルークは、まだそんなに愛されても困ると笑うのはやめて、ただ微笑んで頷いた。

 「この結婚は父が望んだ」

 「へえ、じゃあ皇帝陛下に皇太子殿下の配偶者としてスカウトされたわけだ」

 「父のきみへのこだわりは非常なものだ。そのくせ、大切なところはなにも話さないから、私も、どうして父がきみにこだわっているのかはさっぱりわからない」

 「やっぱり、おれの父さんが関わってるのかな」

 「そういうことだろうと、私も思っている」

 ルークはこれ以上なにか得られるものはないと見ると、これだけのことにあれほど長くいいわけじみた前置きをした皇太子がおかしく思えてきた。

 「ところで皇太子」

 「うん?」

 「おまえは、仲のいい友達の子と、自分の子とを結婚させようと思うか?」

 皇太子は困ったように肩をすくめた。ルークは短く笑って、「あんたの親父さんは変わってるな」と返した。

 ルークはふと、細い顎を親指でこすって唸った。「いつ決めたのか知らないけど、おまえの親父さんは、自分の子の四年後に友達のもとに生まれたのが男だってわかったとき、どんな気持ちだったんだろうな?」

 メイナードは驚きで音を立てて息を吸った。「きみはまだそんなに若いのか!」

 「なんだよ」

 「まだ子どもみたいなものじゃないか」

 「ぶっ飛ばすぞ」

 「ああ、なんてことだ!……」

 「こっちのせりふだ。二十一の男を子ども呼ばわりなんて、まったく!」

 メイナードは目元を覆ってうつむいた。ああ、ああ、なんてことだ!

 「若いひとだとは思っていたが、きみがそんなに歳下だとは思わなかった!」

 「おれの年齢がそんなに重要か? それともなんだ、皇太子、姉さん女房に甘えまくりたい性質たちなのか?」ルークは短く快活に笑った。「それはもう、残念でしたとしかいいようがないな、手に入れたのはおれみたいなだよ」

 メイナードにルークの声はほとんど聞こえていなかった。ルークはメイナードから見ればずいぶんと小柄な青年だ。それだけでも愛らしくて愛らしくてたまらないのに、年齢までも自分より四つも小さいとなっては、もう、ひとの運命を易々と左右させられる何者かが、メイナードが我慢に気が狂ってしまうのを望んでいるとしか思えなかった。

 「ああ、ああルーク……きみはただでさえ小さいのに!……」

 「おお、いよいよぶっ飛ばすぞ」

 「私は、私は自分が狂ってしまわないよう、祈って過ごすことにする」

 「ははん、勝手にしろよ、くそ野郎」

 メイナードは目元を解放したが、ルークの姿を視界に入れないように顔を背けた。

 皇太子の首の動きに合わせて長い髪がはらりと舞った。ブロンドの美髪は扇のようにかすかな風を起こした。風は皇太子の匂いを包んでいた。風の包みはルークの鼻先で弾けて、皇太子の匂いでルークの鼻と肺をくすぐった。ルークは心臓が震えるのを感じた。

 「おい、皇太子」

 ルークは黙りこんだ皇太子に近づいた。彼の髪が送ってきた匂いを直接嗅ごうと思った。

 メイナードはいよいよ自分が狂ってしまうときかもしれないと思った。すでに心臓は狂っているようなものだった。体は不自然に熱を帯びて、目で見ているルークの動きもいやにゆっくりとしているように感じる。

 ルークは皇太子の苦悩など知る由もない。ずいずいと近づいて、とうとう皇太子を壁に追いやった。

 「どうして逃げる?」

 「黙りなさい」

 「逃げるくらいなら」ルークはそれが皇太子にどう映るかには無関心なまま、微笑し、首を傾けた。「どうしておれの興味をそそる?」

 「黙ってくれ」

 「わかった、黙るよ」

 ルークは皇太子の首のあたりに鼻を寄せた。それはメイナードにとって、生きながら感じられる最大の苦痛を受けるものだった。

 ルークはあくまで皇太子の苦悩を知らないものだから、皇太子の肌に無遠慮に鼻を寄せてはすんすんと音を立てて息を吸う。

 メイナードはとうとう、なにもいえなくなった。そんな余裕もなくなってしまった。ただただ体をまったく動かさないことに集中するよりほかに選択肢がなくなってしまった。目をつぶって奥歯を噛んでこぶしを握って足の指に力をこめて、とやりながら、なんだか無性に泣きたくなった。

 「なあ、皇太子」

 ルークは皇太子がなにか声を発したような気がして、「ん?」と聞き返した。

 メイナードは必死で声を出した。「いや、だ……」

 「嫌だ?」

 「たのむ、から……」顎を震わせて、はくはくと喘ぐように息をする。「は、はなれて……」

 ルークは皇太子のいうことに従った。二歩三歩と後ずさった。

 メイナードは力なくしゃがみこんで、暴力的な願望に散り散りになってしまいそうな自分の体を抱えた。

 ルークはいよいよ心配になってきた。「え、ごめん、悪かったよ。そんなに嫌だったのか?」

 「ルーク、ルーク……。私はきみを愛している。愛していると、何度いえばわかる?……」

 「ああ、わかってるよ。おまえはうそをつくのが苦手なんだろ? おまえがおれを愛してるといえば、おまえはほんとうにおれを愛してくれてるんだ。わかってるよ」

 皇太子はなにもわかっていないとでもいうように首を振った。「私の愛は暴力的だ、きみをと思うような愛だ……。私のきみがという思いをやませるには、私はきみにひどいことをしなければならない。わかってくれ、ルーク、もう決して私をからかわないでくれ」

 ルークは恥ずかしいような、でもそれを認めたくなくて腹立たしいような、ひどく複雑な気分になった。「か、からかったのはおまえのほうだ! な、なんだよ、その匂い。おまえの匂いじゃないだろ」

 皇太子は自分の体を抱いてちぢこまったまま、なにもいわなくなってしまった。

 「香水でもつけてるのか?」

 「私は、私の知らない私を忌まわしく思う。きみを不安にさせる自分が忌まわしい」

 「長ったらしい。香水をつけてるのか?」

 皇太子は静かに頷いた。

 「ばか皇太子、わかったぞ。アダルベルトがやけに不安げな理由が。おまえがばかみたいな理由でそんなばかみたいな匂いを撒き散らしてるからだ。おまえのこの劇的な変化に気づかなかったおれも大概だが、いつからそんな匂いをさせてる?」

 「必要がないとわかった今、それは重要なことじゃない」

 「もうつけなくていい。おれはおまえを、もうあの悪魔と結びつけてないし、アダルベルトだっておまえの匂いを必要としてる」

 「うん」

 「まったく。せっかくさっき水浴びに誘ったのに。あそこでちょっと流しておけば、アダルベルトももうちょっと落ち着いていられたんじゃないのか?」

 「すまない」

 ルークは息をついて首を掻いた。「いや、いいよ。ていうか、おれのためにつけたんだろ。ごめんは、おれのせりふだ。あと、……ありがとう」

 「ううん」

 「それと、無遠慮なことして、悪かった」

 メイナードは黙って頷いた。ああいう瞬間には、決まって生きることより死ぬことのほうが怖くないと思う。

 「ああいうことは、二度とごめんだ」

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