心の安寧
「だいじょうぶ……わたしは、……すぐもどる、すこしだけ、まって……」
アダルベルトは恋しい声が残していった言葉を繰り返しながら、心がつぶれてしまわないように幸せな場面をまねた。けれども心のほうは複雑にできていて、あたたかな声のあたたかな言葉をどれほどまねしても、安らぎを得ることができなければ元気づけられることもない。メイナードがいない。不安は現実に変わって、アダルベルトに孤独を植えつけ、寂しくちぢこまる心をさらに押しつぶそうとする。
湿った声をあげながら、自らをあやすように体を揺らす。それも大した慰みにはならないで、あたたかな声への欲求が一層増す。一人でいることがどんどん怖くなる。いない、いない、メイナードがいない。だれもいない、なにも聞こえない。自分の啜り泣く声ばっかりが頭のなかに響いてくる。
次第に、メイナードへの欲求が悪いもののように感じられてくる。「おい」と呼びかける声が耳の奥に響く。なにか醜いものを見るような目が真っ直ぐに向けられている。
「あ、あ……かみ、……あくま、の、こ……」
アダルベルトは自分の体に腕を巻きつけた。安心をくれるメイナードの優しくたくましい腕がそうしてくれるのをまねした。けれども体を抱く腕がメイナードのものではないことはよくわかっていた。メイナードはそばにいない。呼んでもきてくれない。メイナードは自分を嫌いになったのかもしれない。なにか醜いものを見るような目を向けたい気持ちになったのかもしれない。それだからもう二度と、帰ってきてはくれないかもしれない。
鼻に響くうめき声が心を
ルークは上機嫌なまま戻ってきて皇太子の愛馬を小さな廐番に預けては、その上機嫌なまま玄関を入って階段をのぼったが、二階に着くと思わず足をとめた。「どうした?」という皇太子に「しっ」と人差し指を立てる。
「なにか変な音がする」
メイナードは耳を澄ました。音と呼ぶのとは違うものが聞こえたその瞬間、ルークが「音じゃない!」と小さく叫んだ。
メイナードは私室に走った。ドアを開けると、部屋の真ん中でうずくまっているアダルベルトを見つけた。
隣を走ってきたルークが立ち尽くす皇太子を「早く!」と急かすより僅かに早く、彼は部屋に飛びこんでアダルベルトを抱きしめた。
「アダ、アダ。私だよ」
ルークはアダルベルトの繰り返しつぶやく言葉に驚いた。「悪魔の、子?……」
メイナードはアダルベルトのうめくような声に耳を澄ました。そう聞くとそのようにいっているようにも聞こえる。メイナードは、はじめて聞いた彼の言葉に驚いた。アダルベルトがこんなにはっきりと話すことができるとは知らなかった。
「アダ?……アダ、お話ができるのかい?」
ルークは数瞬、呆然とした。「知らなかったのか?」
皇太子が頷くものだから、ルークはため息をついた。「信じられない! あんたがおれを紹介したときにもしゃべってただろ!」
「なんだって?」
「あんたが話したことを、そのままいってた。直前に聞いたことを繰り返すことができるんだろうよ。あんたは彼とどれだけ一緒にいる? なんでそんなことも知らないんだ!」
「私は、私は今の今まで、アダの言葉を聞いたことがなかった」
ルークはなにか一言叫びたくなったが、勢いよく息を吐いてごまかした。「もういい。問題は彼の状態と、その言葉だ。悪魔の子だって? だれがそんなことをいう?」
二人は同時に黙りこんで、アダルベルトの声に注意した。
「あくま、の、こ……あ、あ、かみ……すくい……あらん、こ、と……」
「悪魔の子、ああ、神の救いがあらんことを?……」ルークは皇太子と声を重ねた。
「ああ、まったくだれがそんなことをいうんだ!」
「城の者じゃない」
「どうしてそういいきれる? 城にいる全員の心が読めるのか?」
「ここは私の部屋だ。勝手に入る者はほとんどいない」
「ふうん、ほとんどね」ルークは首を傾けて片眉をあげた。「その例外は?」
「両親。でも彼らは、アダを家族と愛している」
ルークが二つ三つ頷くと、メイナードはアダルベルトを抱きしめて背や肩や腕をさすってやった。「大丈夫だよ、アダ。私がここにいる。怖いものなど、なにもない」
アダルベルトは鼻に響く声で激しく泣いた。ルークがちょっと怯えながら見守るなか、メイナードは穏やかにアダルベルトをなでる。
「大丈夫。大丈夫、アダ。私の声が聞こえるね? もう大丈夫だ。なにも怖くない。なにもアダを傷つけない。大丈夫、大丈夫」
やがてアダルベルトは落ち着きをとり戻した。しかし皇太子が「ただいま」と穏やかな声でささやくと、途端にまた泣き出した。
「どうしたの、うん? 私がいるでしょう? アダ、アダ、きみは今どこにいる? そう、私の腕のなかだよ。ここは安全だ、不安に思うことはなにもない。わかるね? うん、大丈夫だ」
アダルベルトは次に落ち着くと、こてんと眠りに落ちた。メイナードは彼の呼吸が穏やかなものになるように、ゆっくりゆっくり背を叩いてやる。
「一体全体、だれがこんなにもアダルベルトを傷つけた? おれは決していい人間じゃないからな、いくらでも自分を棚にあげてそいつを批難する」
「自分を棚にあげる?」
ルークはくちびるをすぼめて、内側を噛んだ。皇太子とアダルベルトから目を逸らして、ゆっくりと二度三度と頷く。何度かまばたきすると音を立ててくちびるを開いた。ふるふると首を振る。「いや、やめよう。いうべきじゃない」
「その言葉は、ずっときみのなかにだけ存在するのかい?」
ルークはようやく皇太子の目を見ると、彼の鼻や口や顎のあたりに視線を逃がした。「そうだ」
「それなら、私はきみを特に責めない。自分を棚にあげるのも、アダを傷つけた者を批難するのも、きみの自由だ」
「ああ。自分を棚にあげて、影のなかの悪魔を批難するさ」
ルークは、途端、皇太子の目が強く見開かれたのを見た。皇太子の目は小さな炎がじわじわと大きくなるように激情を滲ませた。
「皇太子?……」
「悪魔の子などと、どの口が!」
「皇太子、どうした。なにかわかったのか?」
「やつは、悪魔なんてものじゃない。悪魔のなかの悪魔、正真正銘の悪魔だ!」
「だれのことだよ?」
「この愛くるしい男の子を、堕天使と呼んだ悪魔だ!」
ルークは一拍おいてようやく理解した。「アダルベルトの両親か!」
「十年経ってようやく憎しみが薄れかけたころだというのに! あの悪魔は私の生涯を憎しみで燃やし尽くすつもりだ!……」
「待て、根拠はなんだよ? アダルベルトの両親がほんとうにそんなふうにいったとも限らないだろう?」
「ほかにだれがいる? 真の悪魔でもなければ、ひとを悪魔の子などと呼ぶことはできない。この城は悪魔の巣窟じゃない」
「ああ、すまない。ただ、それほどの憎しみを無関係なやつに向けるわけにもいかないだろうと思ったんだ」
「無関係なことはない。あの悪魔はこの天使をここへおいていった。この生涯を憎しみで焼き尽くしてやるだけの価値はある。あの悪魔を呪うためなら、私は喜んで地獄へ堕ちる」
ルークはふと、それは風に季節の移ろいを嗅ぐように、皇太子の気持ちを試したくなって苦しくなった。「おれが、おまえにそんなところへいってほしくないと願ったら?」
皇太子の
「皇太子」
彼は濡れた目でルークを見あげた。
「おまえは、悪魔なんかじゃない。立派な、きれいな一人のひとだよ。悪魔なんかじゃない。もう、自分をそんなふうにいったり思ったりしたらだめだ」
メイナードにとって、ルーク・バログはつくづく美しい男だった。これほど憎しみに穢れた心をも、その泣きたくなるほど愛おしい声で、泣きたくなるほど尊い微笑みで、癒やし、救ってしまう。神の姿をこの目でたしかに見ることができるなら、ルークによく似ているに違いない。
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