はじめての朝

 ルークは目が醒めてようやく、自分の眠っていた場所がいつものベッドの上ではないことに気がついた。質素な寝具が恋しくなってため息をつく。上質な寝具は良質な眠りを提供してくれたが、あの畑で作業する日常はくれない。

 メイナード・ザック・スタウト——この国の皇太子で、自分の婚約者。

 ルークはふと、きのうの皇太子のへたくそな罵言を思い出して笑った。なんとなく、今までの自分が戻ってきたような気がした。明るくひと懐っこく、いたずら好きな自分だ。あのへんてこな言葉はおもしろかった。そう遠くないうちに、皇太子と友達にはなれるかもしれない。

 ほんのすこし気分が軽くなったら、ドアのノックにも「はい」と素直な声が出た。

 「私だ、メイナードだ」

 ルークは皇太子の登場にまた小さく笑って、上機嫌に応じた。「いいよ、なんだ?」

 皇太子はそっとドアを開けた。金糸のような長い髪は、癖も、うねりも絡まりもなく、完璧な状態でおろされている。真っ白な玉に宝石で色をつけたような目は、穏やかに、気遣わしげにルークを見る。

 一方、メイナードの内心はひどく掻き乱され、完璧とも穏やかともほど遠い状態だった。メイナードは部屋のドアに閂のかかっていなかったことに驚いていた。必死で冷静を装ってくちびるを開く。「眠れたかい?」

 「ああ、自分が平民だったことを忘れそうだよ」

 「ルーク」

 「なに?」

 開いた途端、眠る間だけでも閂をかけておくようにといい含めそうになったくちびるを一旦閉じて、改めて開いた。「きみの望んだものは、先ほど城の者が届けに向かった」

 「なに?」驚いて大声が出た。「薬と金か? なんでだよ、おれは結婚の条件としてそれらを送れっていったんだ。おれはまだ結婚するつもりはないぞ」

 皇太子は至って冷静に頷いた。「私もこれ以上、きみに無理を強いるつもりはない。結婚はまだ約束でいいし、きみが望むならその約束もなかったことにしてもいい。しかしきみは今、ここにいる。私との結婚を約束してここにいる。私にとって、この事実はきみたち家族に返礼するに値する」

 「あんたはばかか? そんなの、おれがいつまでもこの状況に甘えるかもしれないだろ」

 「それならそれでいい」

 ルークは内心で苦笑いした。この国の皇太子は狂ってる!

 「そんなの、皇帝でん……ちげえや、皇帝陛下と皇妃陛下はどう思ってるんだよ」

 「父もこれを認めている。きみが私の父の顔色をうかがう必要はない。父の機嫌なんていうのは決して重要なことじゃない」

 「相手は王のなかの王だぞ。こっちはただの町外れから出てきた農民のせがれなんだよ」

 「なにも恐れることはない。皇帝がなんだという、父なんぞ敵でもない。彼が敵にまわるなら、きみ一人か、あるいはきみと私の二人か、どちらかきみの望むほうがこの城を出ていく」

 「へええ、それは素晴らしいアイデアだ、皇太子殿下」ルークは呆れきっていった。

 「私は持てるすべてをきみとその家族に捧げると誓ったのだ、できることならなんでもする」

 「それはそれは。ときめきが止まらないよ、旦那さま」

 ふいに擦って歩くような足音が聞こえてきて、そうかと思えば皇太子に腰に細い腕がまわされた。

 「ああ、アダ。おはよう。起きたんだね」

 「あ、う……ああー……」

 ルークはなんだか、そのひどく痩せた男が愛らしく思えてきた。「メイナード、っていってるんじゃないか?」

 メイナードは驚いて、背中に頭を押しつけてくるアダルベルトを振り返った。「アダ? 私を呼んでいるの?」

 「あ……なー……」

 ルークは興奮して人差し指を向けた。「ほら! 『ナー』っていっただろ!」

 「アダ?」

 ルークも彼を呼んでみた。「アダ、アダ! おはよう」

 「あ……あー、あ……」

 「絶対そうだ、おまえを呼んでるんだよ。今のは、間違いない、メイ、ナー、ド、だ!」

 メイナードはアダルベルトの腕を離そうとしたが、かえって腰に巻きつく力が強くなった。

 「アダルベルトはおまえから離れたくないんだ。かわいいじゃないか」

 「アダ、すこし離してくれるかい? 大丈夫、遠くへいったりしないよ。朝ごはんにしよう、おなかすいたでしょう?」

 「いいなあ、朝食だ朝食だ! やあ、アダ。皇室ここではどんな食事が出されるんだ?」

 アダルベルトはあくまでルークの声を聞かないで、うんうんいいながらメイナードの背中に頭を押しつけた。

 「さすが皇太子殿下の付き人だ。主人の声以外に聞こえるものはない、うん、いいことだ。素晴らしいよ」ルークは嫌味じゃなく素直にそういった。

 「アダ、手を離してくれるかい? ごはんの時間だよ」

 アダルベルトの痩せた手がゆっくりとメイナードを解放した。メイナードは彼に向き合うと、髪をなでて白い額にそっとくちびるをあてた。鼻に響く声で笑って無邪気に目を細めるアダルベルトに、メイナードも微笑んだ。

 ルークはその様子を見ながら、なんとなく恥ずかしいような気持ちになった。


 ルークは、皇族の食事がこれまで自分たちが食べていたものよりちょっとづつ質がいいだけであることに驚いた。なんてことのないパンとチーズと、スープとサラダが食卓に並んだ。もっとも、ルークがすぐに違いがわかるほどだから、実際にはかなり良質なものなのかもしれない。食器も目に優しい木製じゃなくてまぶしい銀色のものだから、上等なものなのだろう。光っているものは総じて高価なものだ。

 パンは手に持った瞬間にやわらかいと思った。今まで食べていたものとは枯れ葉と青葉くらいの違いがあった。チーズはくせが強く、スープは味が濃いように感じたが、チーズもスープもなにによってそのような味わいになっているのかまではわからなかった。サラダに関しては今まで食べていたものとなにが違うのかわからなかった。

 何気なく見てみると、アダルベルトは丁寧にパンをちぎってはきれいに食べていた。

 「ルーク」

 ふいに呼ばれて肩がはねた。呼んだのは皇太子ではなかった。慌てて声の主を探せば、皇太子の父親だった。息子の顔色をうかがっていなければ一人息子が出ていってしまうかもしれない皇帝だ。

 「よくきてくれたね」

 「ああ、ええ……」まさかお宅の悪魔から弟を守るために、などとばか正直に答えるわけにもいかず、「えへへ」と笑ってみた。

 「私はとても嬉しいよ、ルーク。きみがきてくれて」

 「ああ、えへへ」朝食、と間違えそうになって慌てて正解を探し出し、「恐縮です」と答える。ルークの知っている最も堅い言葉だ。もっとも、意味も使い方もほとんど理解していない。へりくだるときにいっておけばいい便利な言葉のはずだった。

 「いやあ、ジュリアスはほんとうに、大切な友人でね」

 ルークは胸がちくりと痛んで、口に入れたパンを持て余しそうになった。なんとなく噛みつづけるが、いつ飲みこめるかわからない。

 皇帝が咳払いするのを聞いて、ルークは彼の表情をうかがった。皇帝は息子から目を逸らすところだった。ルークは皇太子のまとう空気がひんやりとしているのに気がついて、すこしづつパンを飲みこめるようになった。


 食事のあとは、皇太子に呼ばれて皇城のあちこちを見てまわることになった。付き人アダルベルトも一緒に、だ。

 皇太子について歩くまま、外に出て廐舎に向かった。アダルベルトはいかにも楽しそうに皇太子の横を歩いている。

 「ああ、兄さまにアダ!」

 無邪気な声がして、薄暗い廐舎の中から少年が飛び出してきた。

 「ルーク、彼はオーガストだ」

 皇太子の紹介に促されて、少年は「オーガスト・グラッドストンです」と名乗った。「廐番をしています」

 「ルーク・バログだ」

 オーガスト少年はルークの差し出した手を丁寧に握り返した。

 握手をとくと、オーガスト少年は皇太子に「お客様ですか?」と尋ねた。

 「違う」メイナードは即答した。「だ」

 ルークは小恥ずかしくなって、皇太子をちらと見て少年に尋ねた。「弟なのか?」

 「いいえ、とんでもない! ぼくは厨房で働いている夫婦の息子で、小さいころから兄さまには親しくしていただいていたんです。兄さま、兄さま、なんて馴れ馴れしく呼ぶたび、両親には叱られましたよ」

 「それで、きみはまだ子どもだろう? なんだって廐番なんてやってるんだ?」

 「二年前に、ぼくの前の廐番が、けがをしたためです」

 ルークはそのけががよほど重かったのだと理解して、「そうか」と答えた。

 オーガスト少年は気を使うように笑って、明るくいった。「馬をご紹介します」

 馬は皆、それぞれの個室で穏やかにしていた。どの馬もおなじような色をしていて、ルークにはまるで見分けがつかない。

 オーガスト少年が楽しそうにいう。「この子がハーヴェイ、兄さまの馬です。兄さまに似て美男子でしょう?」

 ルークは馬の優しそうな顔立ちを眺めた。「さわってみるかい」と声がしてとっさに「いや、いいよ」と答えた。

 「兄さまとハーヴェイの絆はたしかなものです、兄さまがいれば安心してさわれますよ」

 ルークは皇太子と廐番の少年とを交互に見て、「じゃあ……」と甘えた。

 「ハーヴェイ。よしよし、いい子だ」メイナードが先に、馬の鼻にふれた。

 「鼻か、ほっぺたをそっとなでてあげてください」

 廐番のアドバイスに従って、ルークは皇太子の手の離れたところに怖々と手をあてた。馬の耳が慌ただしく動き出した。

 「え、怒ってないか?」

 「ハーヴェイ」メイナードが呼ぶと臆病な馬は落ち着きをとり戻した。「大丈夫、よし。いい子だ」

 ルークはゆっくりと手を離した。手に残った感触が見てわかるもののような気がして、手のひらを見つめる。

 ふふ、と廐番の少年が笑う。「やわらかな、かわいらしい鼻でしょう?」

 ルークはその感触をどうたとえたものかわからず、「うん」と頷いた。水を含んだ土?……でもどれくらいの水を含んでいるかとなると……。

 廐舎にはほかにも、エドウィンという、ルークが従者とのってきたおとなしい雄馬おうまや、わがまま娘と紹介されたクリスティーンや、いつ子を産んでもおかしくないというジュネヴィーヴなど、六頭の馬がいた。近々生まれる仔馬は、オーガスト少年の馬になることが認められているとのことだった。オーガストは馬の名前を自分の名前に寄せてオーガスタスにするといっては、まるで自分自身が子を宿しているかのように、優しく優しく、雌馬めうまの大きな腹をなでた。

 ルークも重たそうな腹を眺めて、「がんばれよ」と心からの声をかけた。

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