愛おしいひと

 メイナードはふと、それまで聞こえていた相槌のような上機嫌な声が聞こえてこないことに気がついた。手元の本から目をあげると、アダルベルトは目を閉じてこっくりこっくりと首を揺らしていた。

 メイナードはベッドに本をおいて立ちあがった。アダルベルトの痩せた背と小さな尻に手をあてて、ちょっと強引にも抱きあげる。腕のなかの体重の軽い若男は、メイナードの肩口に頭を寄せて、すっかり眠りに落ちた。

 メイナードは靴の先をドアの下に引っかけてドアを開け、部屋を出た。すぐ隣のアダルベルトの部屋に入って、ベッドに彼を寝かせた。ブランケットをかけるとアダルベルトはすこし首を動かしたが、すぐに落ち着いた寝息を立てはじめた。

 メイナードは静かに部屋を出た。そのまま父の書斎に向かう。


 父はメイナードがきたのを喜んだ。

 「ああメイナード、アンから聞いたよ。ルークがきたんだってな!」

 「ええ。そのことで話があります」

 フレディは首をかしげた。「なんだ?」

 「今回のことで、ルークは、二つ条件があるといいました」

 「なんだい」

 「父上、なにか薬を飲まれているのですか?」

 フレディは静かに頷いた。「この体だからな」

 「調子がよくないのですか」

 「なに、薬があれば問題ない」

 「どんな薬なんです、あまり無理をしないほうがいいのでは?」

 「クラウディアから聞いただろう、メイナード。おまえを産んだのは私だ。この体は、ほかの多くの男のものとは違う。つくりが違えば起こることも違う。そのために必要な薬だ、別に病気の治療のためのものじゃない」

 メイナードは笑わずにいられなかった。「まさか、父上が私を産んだというのが事実だと? 実際にそんなことが起きたと? 男である父上が、子を産んだのですか?」

 「そうだといっている。理解した上でルークと話をしにいったんじゃないのか」

 メイナードは天井を仰いだ。「どうしてそんなことが起こるんです、どうして、どうしてそんなことが可能なんです?……」

 「神がそのように望んだからだ」

 メイナードは頭に手をあてた。素直に受け入れてしまえば喜べるのに、それがうまくできない。

 「おまえの体から子が生まれることを考えてはいけない。おまえはそれができる体じゃない」

 「じゃあなんです、世の中には、女と、二種類の男がいるというんですか」

 「三種類の男女がいる」

 「へえ、……へえ、そうですか」

 「まずはおまえの思う男と女、そして私やルークのような男と女、最後に、おまえやクラウディアのような男と女だ」

 「私は普通の男ではないと?」

 「クラウディアは我々を蝶と花にたとえた。おまえやクラウディアのような男女は蝶、私やルークのような男女は花と」

 「そうですね」もう疑ったり考えたりするのが間違いなのだとわかった。神の考えることなど、人間にはわかりはしない。

 「『花』はその匂いで『蝶』を誘う。『蝶』は『花』の匂いに酔って、その蜜を吸いたいと思う」

 「そんなことがあり得るのですかといいたいところですが、そうなのですね」

 「おまえもルークにふれてみればわかる。『花』もまた、『蝶』のおとなうのを待っている」

 「私はほんとうに、母上のいう『蝶』なのでしょうか。私は、彼の匂いを感じることができません。父上のもそうです」

 「私は薬で、匂いをある程度抑えている。ルースもまたそうなのかもしれない。おまえはたしかに蝶だ。なにせクラウディアとおなじ匂いがする」

 「そうですか……」

 「『花』には定期的に『誘惑』の時期が訪れる。ルークにそれがくれば、おまえも酔うことになるだろう」

 メイナードは怖くなった。ルークに許されるより前にが起これば、自分は彼を裏切ることになるかもしれない。

 「それで、彼の求めた条件ですが、彼の家に月に一度、その薬と、薬十本分の金銭を送ってほしいというものでした」

 メイナードはようやく理解した。彼の家にいるのは病人ではなく『花』で、それだから『蝶』である私を恐れたのだ。あるいはその『花』は『蝶』に傷つけられたのかもしれない。だからおなじ『蝶』である私を恐れた。家族の心を八つ裂きにした悪魔だと!……。

 フレディは「わかった」と快諾した。「それでルースが婚姻を認めてくれるなら、それでいい」

 「父上はなぜ彼にこだわるのです」

 「ジュリアスは、私の大事な友人なのだよ」

 父はしみじみといったが、それ以上は語るつもりがないようだった。

 「式はいつ挙げる?」

 「彼は私との結婚をといってここにきました。ええ、きょう、ここにきました。まだまだそのような段階ではありません」

 「そうか」

 「優先すべきは彼の気持ちです。なによりも、彼の気持ちです」

 フレディは微笑した。「そうか」嬉しくなって息子を呼んだ。「おまえは、きっといい夫になるだろうな」

 メイナードはちょっと頭をさげて、「それで」とつづけた。「薬と金銭は今月から送ってください。今月はもう半分もありません。あすにでも送ってください」

 「それは結婚の条件だろう?」

 「彼は私との結婚を約束してくれました、そして私は、彼の母君に、彼とその家族にすべてを捧げると誓って、彼を、ルーク・バログを連れてきたのです」一息にいって、ようやく息を吸った。「薬を飲まなければどうなるのかは、父上のほうがずっとご存知でしょう。彼は薬に加えて金銭も求めているのです、薬を買う余裕がないのでしょう。それに、父上、これはあなたの望んだ婚約です。あなたが大切な友人と結びつけて望んだ、私とルークの婚約なのです。薬十一本分の出費なんぞ、安いものでは?」

 父はやけに気分よさそうに笑った。「もちろん、私もそのつもりだよ」父はまた笑った。「ちょっとからかっただけさ。いやいや、メイナード、おまえはいい夫になるよ、まったく」

 父はふとまじめな顔をした。「メイナード、おまえは彼を愛しているか?」

 「愛しています、苦しいほどに」

 「私の息子は立派に育ったもんだ。しかし、クラウディアの厳しさはおまえも知っているだろう。たとえばルークが間違った決断をしたときには、正してやる努力もしなさい」

 メイナードは目を閉じて軽い辞儀をした。

 彼のためになることなら、なんだってしようではありませんか。


 メイナードは階段をのぼると、左右に分かれる廊下を右に曲がった。その先に愛おしいひとの部屋がある。メイナードはその部屋の前に着くよりすこし先に、男に会った。ルークへの好意と引き換えにあまり好きではなくなった男だ。

 男は丁寧に辞儀をすると「ルークさまが水をご所望で」といった。彼はその一言でメイナードの足を止めると、「殿下」とつづけた。

 「ルークさまはひどく寂しそうです。わたくしが部屋の外に立っているより、あなたが部屋のなかにいるほうがよいのではありませんか」

 「私には彼を慰めるすべがない」

 「慰めるべきはです」

 従者のつまらない言葉にメイナードはくすりともしない。

 代わりに発言した本人が小さく笑った。「手を握らなければ心に安寧は訪れませんか。肩を抱いてやらなければ、背に腕をまわしてやらなければ、ひとは哀れみを得られませんか」

 「彼は私を恐れている」

 「彼の婚約者はあなたですよ、皇太子殿下。代わりなどありません。この世にあなたしかないのです。しかも、彼は単身生まれ故郷を離れて、この迷路のような皇城にやってきたのです。あなた以外に、婚約者あなたよりほかに、なにを頼ろうというのです」


 男の静かな熱を帯びた声は部屋のなかにも聞こえた。ルークはベッドの上で仰向けになって、目の上に腕をのせた。寂しくなんかないと胸のなかから反論するたび、くちびるを噛む力が強くなる。

 家族みんなが揃っていたころが懐かしくなっただけだ、寂しそうだなんていってくれるな……——。こんなことで同情を買っていたら、それこそ悲劇のみたいじゃないか!……。

 部屋のドアがノックされて、ルークは震えあがるほど驚いた。こんなに近くにいられてははなをすすることもできない!

 ルークは諦めて、ベッドの上で左右の太ももの下にそれぞれ反対の足を入れて座った。「ああ」と返事してみる。相手の前で洟をすするはめになったら、貧乏人は清潔すぎる部屋に対してかえって刺激を感じるものなのだといって押し切ろう。

 せっかくあれこれ考えておいたのに、ドアを開けたのが皇太子だったものだから、思わず鼻水を噴き出した。

 「なにしてんだ、皇太子殿下」

 「私は皇太子じゃない」

 貴族さまは反対に、貧乏人に対して変な刺激を感じるものらしい。皇太子の頭がどうかしてしまった。

 「きみのそばにいるとき、私は皇太子でありたくない」

 メイナードはズボンのポケットからハンカチをとり出してルークに差し出した。「洟が垂れている」

 「うるせえやい」ルークは質のいい布をぶんどって鼻を拭いた。

 「おれは喉が渇いたんだ、水はどうした」

 「彼が持ってくる」

 「おまえが持ってきてくれてもよかったんだぞ、皇太子殿下」

 「私は、きみのそばにいたいと、……思ったんだ」

 「おれがあの従者を気に入ってるから、あいつと二人の時間を短くしたかったってわけか?」

 瞬間、メイナードは自分の目つきがきつくなったのに気がついた。急いでルークから視線を逸らす。「それもある」

 「おれがほんとうにあの男を気に入ってると思うか?」

 メイナードは子どもみたいに不機嫌な目でドアを睨みながら「別に」と答えた。

 「別にってなんだよ」

 「……別に」

 「おまえはほんとうにおれが好きなのか?」

 「好きだ」

 「いい匂いがするか?」

 「わからない」

 「わからないだ?」

 「私には、きみの匂いがわからない」メイナードはゆっくりと自分の足元に視線を移した。「父は、自分ときみはだという。けれども私は、父の匂いもきみの匂いもわからない。父は自分の匂いを自覚している。けれども、私は自分の匂いもわからない」

 ルークは自分のなかでなにかが大きく変わるのを感じたような、あるいはそれを予感したような心地がした。

 「おれの匂いが、わからない?……」

 「わからない。けれど私は、たしかにきみとは違うのだと父はいう。考えてみれば、きみが私に怯えるのがなによりの証拠だ。でも、きみの匂いを感じることができなければ、自分の匂いを自覚することもできない」

 「ほんとうにわからないのか?……」

 「わからない」

 そんなことがあるだろうか? 三年前、弟は医者がそう話したといって、語った。一定数、不思議な体臭を持つ者があり、また一定数、その匂いに反応する者がある。反応する者もまた、独特な体臭を持って生まれると。それで、その特異な体臭を薄くする薬をすすめられたわけだ。庶民にはそうそう買っていられないような価格の薬を。

 事実、あの悪夢のなかには二つの匂いが混ざって満ちていた。自分自身も、弟とよく似た、他人とは違う匂いがするし、皇太子もまた、あの悪魔と同系統の匂いがする。これらの匂いは、他人にも自分にも感じることができるものであるはずだった。

 それだからこそ、ルークや弟らは神の化身だなどともてはやされた。

 ルークはゆっくりとベッドからおりた。体じゅうが緊張で満ちるのを感じながら、ゆっくりとゆっくりと、婚約者に近づく。婚約者まで一メートルほどのところで立ち止まった。「おれの匂いがわかるか」

 メイナードは自分の心臓が狂ったように鼓動するのを聞きながら、息を乱さないように注意して必死に目を逸らした。「わからない」

 ルークは皇太子が豹変してしまわないことを願いながら、また小さく一歩、近づいた。あと五十センチ。

 「おれの匂いは?」

 「わからない」メイナードはささやくように叫んだ。これ以上、近づいてほしくなかった。

 ルークはまた一歩、ゆっくりと近づいた。十五センチ。

 メイナードはとうとう顔を背けてぎゅっと目を閉じた。

 「おれの匂いは?」

 「わからない、わからない!……」

 「ならどうして目を逸らす」

 「私は、きみを裏切りたくない」メイナードはほとんど泣きそうになりながら訴えた。「誓ったんだ、約束したんだ、きみに。きみが認めてくれるまで、決してふれないと、誓ったんだ」

 「まださわってない」

 「離れるんだ。私を試すのはやめてくれ。きみが私を恐れるのは正しい。私のなかには激しい欲望が渦巻いている。今すぐにきみにふれたい。でもきみはそれを望まない、その事実だけが私の理性を働かせている。理性は働いている、でも、この距離にきみがいれば、怠惰たいだな理性はすぐに仕事をやめてしまう!」

 「でも——」

 「しゃべってもいけない」メイナードは顔を背けて目を閉じたまま、ルークの言葉を遮って訴えた。「ルーク、離れるんだ。きみが今すべきことは、一秒でも早く、一センチでも遠く、私から離れることだ」

 ルークは皇太子の顔の前に手をかざした。指先に熱く震えた吐息がふれる。「おれの匂いは?」

 「わかるかい、ルーク。私には今、指先一つ動かさないか、きみの心を八つ裂きにしたことに絶望して死ぬかの二択しかないんだよ! きみの無邪気さは私の鼻ほどそばにあるものがわからないのかい」

 皇太子の匂いが強くなった気がした。ルークは手をおろして大きく数歩後ずさった。ふくらはぎが音を立ててベッドとぶつかった。

 メイナードは首の脈打つところに剣でもあてられているような緊張からようやく解放された。何度か大きく呼吸して、ルークを見る。

 「二度とこんなことをしてはいけない。いいかい、私をからかうには、きみはあまりに魅力を持ちすぎている。私の理性はきみに対してあまりに怠惰だ。きみがこうして私をからかうことは、好色な者の目の前で一枚づつ服を脱いでいくこととなにも変わらない。きみがどんな匂いをしているかは知らないが、きみの姿は私の目にはあんまりに刺激が強い。きみの表情、行動の一つ一つが、風が花を揺らすように私の心を揺さぶるんだ」

 ルークには婚約者の気持ちがわからなかった。「おまえは、おれに魅力を感じている?」

 「きみは私にとって、この世にある限りの魅力を一身に授かったようなひとだ。私がきみを怯えさせない方法を知っていたなら、私はきみを常に腕のなかに抱いている。どこへいくときも、自分の隣から離したくない」

 「おれは、おまえを悪魔と呼んだ」

 「それがきみの魅力を失わせると思っているなら、きみにはすこし抜けたところがあるかもしれない」

 優しい声のわりに目つきがひんやりとしていて、ルークは小さく笑った。「それはおれを罵ったのか?」

 「伝わってよかった」

 「いや、それじゃあ伝わらない。顔を見てたからなんとなくわかったんだ。そういうときは、相手の呼び方はきみなんて品のいいものじゃなくて、おまえとかあんたにして、すこし抜けているところがある、なんて丁寧なものじゃなくて、頭が悪いとか、ばかっていったほうがいい」

 メイナードはたった今仕入れた情報を整理しながら言葉を組み合わせた。「『それがの魅力を失わせると思っているなら、は頭が悪い』?」

 ルークは噴き出して、とうとう声をあげて笑った。メイナードは婚約者の笑顔を愛おしく思いながらも、その笑顔の理由がわからなくて困り果てた。

 「こういうときは、自分が彼を笑わせたんだと誇っておくものですよ」

 後ろから声がした。男がようやく水を持って戻ってきたのだった。

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