かわいい少年

 メイナードはすぐになかへ戻ったが、その前にきびきびとルークの部屋へ向かった男の姿は、私室に着くまでとうとう見かけなかった。今ごろ、神経を張り詰めてルークの部屋の前に立っていることだろう。

 ルークは彼を頼るだろうか? 彼はルークにふれる必要に迫られるだろうか?

 考えれば考えるほど頭がくらくらした。心配でならない。自分がもう一人いたなら、迷わず自分でルークのそばにいるのに!……。

 ああ、彼はルークとどんな話をするだろう? ルークは彼になにを求めるだろう?

 メイナードは首を振って自分の部屋のドアを開けた。本を抱えてうろうろと歩き回っていたアダルベルトがふらふらと寄ってきて、メイナードの胸に頭を押しつけた。

 メイナードは胸元の頭をなでる。アダルベルトはうんうん唸りながらさらにぐりぐりと押しつけてくる。

 「アダ、怒ってるの?」

 「あ……んん……うう」

 「ごめんね、遅くなってしまったね」

 アダルベルトは思い出したようにメイナードの手を引いて歩き出した。メイナードをベッドに座らせると本を押しつけて、自分はメイナードの前に座りこんだ。

 アダルベルトの持ってきた本は、以前第三巻を読んだ全集の一巻目だった。

 「アダは彼の作品が好きなのかい?」

 アダルベルトは体を揺らして無邪気に笑った。

 メイナードはなごやかな気持ちで微笑んで、鞣し革の表紙を開いた。アダルベルトの笑顔には、メイナードの心を落ち着かせる魔法がかかっている。


 十年前の秋、十五歳のメイナードが廊下で母と話していたところに男が歩いてきた。男は「皇妃陛下、皇太子殿下」とうやうやしく辞儀をすると、「子を連れた男女が、皇帝陛下と皇妃陛下にお会いしたいと」と告げた。

 「どなたかしら?」

 「いいえ。とにかく両陛下に会いたいとばかり申しております」

 「そう……」クラウディア妃は頬に手をあてて、来客に思いあたる者がないか考えているようだった。しかしすぐに諦めて、「わかった」といった。「戻っていいわ、ありがとう」

 男は静かに辞儀をしてまた歩き出した。

 母クラウディアもまた夫の書斎を目指して歩き出した。メイナードは自分のすべきことを見失って母についていった。母は足を止めて振り返ると、「どうしてあなたまでくるの?」と困った顔で首を振った。

 「余計なことに首をつっこんでいる暇があるのなら、読み物でもするか、そうでなければ祈りなさいな。あるいは剣を振ったり、乗馬の練習をしたり、やることはいくらだってあるでしょう」

 メイナードはおとなしく頭をさげて、外に向かって歩き出した。

 メイナードは額のなかにいる歴代の皇帝を見つめた。自分が彼らのような優れた王になれるとは思えなかった。ある者は戦を起こさず、ある者は民に愛され、ある者は国を発展させた。自分にはなにができる? 自問はできても自答はできなかった。

 すっかり悲しくなったメイナードがおりていったとき、ちょうど後ろから両親がおりてきた。

 問題の来客は玄関にいて、城の男たちになだめられていた。

 「ああ、両陛下!」子を連れた二人のうち男が声をあげた。空気は冷たくなってきているが、着ている服は薄手で、裾の一部が変色していた。

 「この子を、この子をどうかこちらにおいてやってください」連れてきた少年の肩に手をおいて女もいう。着ているのは男と大差ないものだった。

 「いやあ、わたくしどもの息子なんですがね、こいつあ、絶対に役に立ちます、ええ」

 「ええ、お約束しましょう!」

 メイナードは小さな少年を見た。少年の目を見たとき、どうしようもなく苦しくなった。今すぐに逃げ出したいと心のなかで叫んでいるような、ひどく怯えた目をしていた。不憫な少年は十歳ほどに見える。

 「あなたたちは?」メイナードがいった。「なんだってご子息をここへおいていこうとするんです」

 「いやあ、こいつは素晴らしいやつです。きっと皇帝陛下、皇妃陛下、そして、皇太子殿下。ええ、あなた方のお役に立ちます。きっとです」

 「いいえ間に合っています。厨房に立つ者、庭の手入れをする者、馬の世話をする者、門の番をする者、我々についている者、そのほかも、みな優秀で、健康です」

 「あなた方はこいつに感謝するでしょう! 引きとってもらって、決して後悔はさせませんよ!」

 「引きとる?」

 眉を寄せて繰り返すと、男はわかりやすく顔色を変えた。「ええ、とにかく、使えるやつです」

 「必要ないといっている」メイナードはようやく、自分が彼らに対して腹を立てているのに気がついた。親と離れたくないと望んで見知らぬ城に引き渡されそうな現状に怯えている少年の意思をないものとする彼らに、これまでに感じたことのない怒りを感じていた。全身がこわばり、呼吸が浅くなっていた。固く握った手で彼らを傷つけたい衝動に駆られた。知る限りの罵言をすべて浴びせたくなった。

 「ご子息は今いくつです、私にはまだ親もとにいるべき歳に見える。またご子息自身もそれを望んでいるように見える。あなた方はなんだってご子息をここへおいていくことにこだわる? さぞや深い理由があるのでしょう、ゆっくりとうかがいましょう」

 男はへらへらと笑っていった。「皇太子殿下、こいつはひとのためになにかするのが大好きなんです。ひとを笑わせ、癒やし、手伝う、そんなやつなんです」

 「それならあなたたちがその恩恵を受けるべきだ。ご子息に出会えたことに感謝し、誇りなさい」

 「ええ、こいつは我々に似たんです。あたしもまた、ひとのためになることがしたい。ひとの望むことがしたい。それだからこの子を、神のもとに一番近いここにおいておきたいんです。神への感謝として、また多くのひとの幸福のためにね」

 メイナードは気が狂いそうだった。よく知った言語は巧みに組み合わせられ、理解の及ばない奇怪きっかいな内容をつくりあげた。

 「わかった」

 メイナードが答えた瞬間、男女の表情は緊張をとき、恍惚としたようなまでに明るくなった。

 「ご子息の名前は?」

 女が答えた。まるで知らない音なのに、どうしてか聞いたことのあるような、不思議な名前だった。

 メイナードは少年の前にしゃがんで手を差し伸べた。「おいで」

 少年はいよいよパニックを起こした。見知らぬ男が手を差し伸べ、大好きな両親はそちらへいくようにと背中を押す。少年にとってここは地獄だった。悪魔が氷のように冷たい手で精神を直接掻き乱して、絶望的な恐怖を刻みつける。悪魔が真っ暗な奈落から、凍った枯れ枝のような手を伸ばして、背中にふれている悲しいぬくもりを奪おうとする。背後の鉄でできたようなひどく重たい扉を閉めて、幸せの光を閉ざそうとする。優しい手が悪魔に襲われて、自分を恐ろしい場所に突き落とそうと背中を押す。恐ろしい悲鳴が聞こえた。それが自分の声だとはわからずに、悲鳴に怯えて泣き叫ぶ。悲鳴はますます大きくなり、恐怖ではち切れそうな心にまた恐怖を注ぐ。

 メイナードは哀れな少年を抱きしめた。泣き叫んで自分から離れようと必死になる少年に「ごめんね、ごめんね」「申し訳ない、申し訳ない」と繰り返しささやく。

 そして自分の腕が閉じこめるせいで少年が身動きすることのできないまま、少年にとって唯一、もう一度光を摑める希望の扉が閉ざされる音を聞いた。


 家族のぬくもりと救いを求めて叫んで泣く少年を腕に抱きながら、メイナードは母を呼んだ。

 「彼を、私の付き人にします」

 「付き人?」

 「私のそばを離れることは認めない。彼を二度と、こんなふうに泣かせることはしない」

 おとなしく振る舞うこともできるが、メイナードの本質は身勝手と執着だ。なにか刺激を受ければ、すぐに演技ができなくなる。

 「彼がわたくしたちの家族でもあることを忘れないでちょうだいね」


 少年は泣きやんでからはなにも話さなくなった。うんうん唸りながら体を前に後ろに揺らすばかりで、メイナードが話しかけても応じなかった。それでも、何度かに一度ちらりと目を向ける分メイナードに対する態度はやわらかいほうで、フレディやクラウディアや城の者が話しかけた場合にはまるきり反応を見せなかった。

 「ああ、なんてことでしょう!」ある日、メイナードは母と二人きりの場所で叫んだ。「彼らはひとじゃない、血も涙もない悪魔だ! あんな小さな子をこんな城においていって、あれきり顔も見せにこない! ああまったく、あれからどれほど経ちましたか、そのかん、ただの一度もですよ!」

 「メイナード」クラウディアは息子をたしなめようと呼んだ。「ひとを悪くいってはなりません。わたくしはあなたの母になってから、何度そう教えたことでしょう」

 「母上は彼らの息子に対する仕打ちを許すおつもりですか!」

 「わたくしが彼らをどう思うかと、ひとを悪くいってはならないこととは、まるで関係のないことよ、メイナード。それに、彼らにも事情があったのかもしれないわ」

 「どんな事情です? 私はあの日、彼らにその事情を聞こうといいました、しかし、彼らの答えはどんなものでした? 事情なんてない、ただこの子をここにおいていきたいだけだ、とでもいうようなものじゃありませんでしたか!」

 クラウディアは話題を変えることにした。「ところでメイナード、あなた、一度も彼の名前を呼ばないわね?」

 しかし息子の表情が一層険しくなって、クラウディアは持ち出した話題が適切でなかったことを知った。

 「あんなもの、名前なんかじゃありませんよ! 子に『堕天使』なんて名づける素晴らしい親がどこにいるんです?」メイナードは薄く開いたくちびるを歪ませて短く息を吐いた。「私は自分の不勉強を恥じましたよ。ええ、まったく」

 クラウディアは驚いた。「堕天使ですって?」

 「あの日、あの女のいったのは、外国よそで『堕天使』を意味する言葉だったんです。あの瞬間からなにかおかしいと思っていましたが、先日、その言葉をどこで知ったのか思い出したんです。遠い国の文豪の中篇小説でした。翻訳されたものでしたが、ルビがふってあったんです。『堕天使』の文字の上に、あの女が息子の名前だといった、穢らわしい言葉が!」

 クラウディアは天井を仰いだ。「ああ、なんてこと!」

 「子を神に叛逆はんぎゃくして呪われた存在だと呼ぶような者に、どんな事情があったというのです! 母上、私は彼らだけは許すことができない。たとえこの身に奇跡が起きて、この先百年、二百年と生きたとしてもです」

 「ええ」クラウディアはなんとか深呼吸して、母として言葉をつなげた。「ええ、メイナード、けれど本人のいないところで悪くいってはいけないわ。いいたいことなら、直接いうことです。直接いえるほどの接点も度胸もないようなら、悪くいったり思ったりしてはなりません」

 「いいえ、私は彼らを許さない。たとえ神の怒りを買っても」

 「それなら、その怒りを彼への愛に変えることだわ」

 「そんなことができるものですか。彼への愛が彼らへの怒りに変わることはあっても、その逆は絶対にありません」

 クラウディアは息子の頑固さに苦笑した。「ねえ、メイナード。彼の名前を考えましょうよ。いつまでも名前を呼ばずにはいられないでしょう?」

 メイナードは髪をかきあげて、一つゆっくりと息をした。「ええ、そうしましょう」


 のちにメイナードが決めたアダルベルトの名に、クラウディアが夫の旧姓を添えた。メイナードを無邪気に慕うアダルベルト・ヘイリーは、こうして皇城で生まれた。この十年の間、アダルベルトの心の安寧は、メイナードのひたむきな愛情と、向かい合って本を朗読する声とで育ち、保たれてきた。

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