皇城

 馬が城に着いたとき、痩せ型で小柄な少年が荷車を押して、両開きの扉が開け放たれた倉庫のような建物に向かっていた。

 少年の動きを追ってルークの首が動く。

 「あいつはオーガストというやつで、廐番の男です」

 後ろから男の声がした直後、すぐそばにもう一頭の馬がついた。「お疲れさま」金糸のような髪を伸ばした悪魔がささやいた。背後で男がびくりとした。

 「おい、従者を怯えさせるなよ、殿?」

 「おりて」殿は短く命令すると、自分はさっさと馬からおりて、廐番の少年を呼びつけた。

 廐番は荷車をとめると「ああ、兄さま!」と懐っこく応えた。

 「ハーヴェイを頼んでもいいかい」

 「ええ、もちろん。お帰りなさい」

 「ただいま」殿はいやにやわらかい声で応じると、低いところにある廐番の頭をぽんぽんとなでた。

 「ルーク」こちらを向いて両手を伸ばす殿を無視して、ルークはちょっとためらってから馬の背から飛びおりた。着地に失敗して足がキーンと痛んだが、奥歯を噛んでつんととり澄ます。後ろにのっていた男もおりて、馬を連れていった。

 ふと殿が足元を見ているのに気がついた。「なんだ、殿。平民の汚い靴で、この聖なる皇城こうじょうの土を踏まれるのは不快か?」

 メイナードは痛めてはいないかと見た婚約者の足元から、その顔に視線をあげた。つらそうな顔をしているわけではないが、メイナードはまだ婚約者についてなにも知らない。隠しごとをするのが非常にうまい困ったひとかもしれない。もっとも、彼がどんなひとであれ、今のメイナードには婚約者にふれることを許されていない。ほんとうなら従者から奪い返す意味もこめて腕の一方をルークの背もたれに、もう一方をフットスツールにして自分の部屋まで連れていきたいところだが、あいにくなことにこのかわいい婚約者はそれを許さない。

 メイナードは「きょうはもう休もう」と声をかけて玄関に向かった。

 ルースは腹の奥を震わせる恐怖を隠して強がった。「どこで休むって? 悪魔の食卓の上でか?」

 殿はゆっくりと振り返った。「私は、悪魔じゃない」

 ルースはふんと鼻を鳴らした。

 「私は悪魔じゃない」殿は繰り返した。「きみの魂を抜きとって食べたりしない。私はたとえば病気のきみを生かす努力はしても、健康なきみを死なせるようなことは決してしない。もしもきみの魂を口に入れることがあったら、私はきっと耐え難い吐き気に襲われるだろう。きみがこの世から消えてしまったことに恐怖して、絶望して、どんな野菜も果実も、飲みこむことができなければ一度ひとたび噛むこともできないだろう」

 メイナードは心の底から訴えた。きみは、私の気を惹きつけてやまないんだ!——。

 「ずいぶん大事にしてくれるじゃないか。おれに一目惚れしたのか?」

 「そうだ」——。彼は一瞬たりとも迷いを見せなかった。

 ルークは苦しくなった。ふんと鼻を鳴らしてみてもなにも変わらない。彼の感情がによるものなのか心によるものなのか、その見分けがつかない。「欲にまみれた悪魔め」

 どうしようもなくなって毒づくと、「いい加減になさい」と低い声がした。ここにくるまでの間、おなじ馬にのっていた男だった。

 「あなたがなにか危害を加えられたなら、その相手を恨もうと呪おうとあなたの勝手、しかし、メイナードさまがあなたになにをした? 皇太子殿下はあなたを大切に思っている。あなたもそれなりのものを返しなさい。次につまらないことをすれば、わたくしも堪忍なりません」

 ルークはくちびるを噛んで、男の胸を一度こぶしで叩いた。相手はぴくりとも表情を変えなかった。

 ルークはただ、が羨ましかった。婚約した相手が自分の呪っている悪魔と関係がないことくらい理解している。でもどうしても、頭のどこかで、心のどこかで、一度結びつけてしまったのをほどくことができないのだ。ルークには自分が、すべてにおいて劣っている人間に思えた。どこから見てみても、自分がとは違うように思われた。


 玄関は必要以上に広かった。ルースはぐるりと首を動かして見回した。「なんだ、この玄関は。使用人どもの寝室も兼ねてるのか?」

 「きみの家では、玄関でだれか寝ていたのかい?」メイナードが応じた。

 「たとえだよ」ルークはうんざりしていった。「うちの玄関にはひとが寝るほどの広さはなかった」メイナードの他意のない純粋な言葉も、ルークには皮肉に聞こえた。

 「おまえもうちを見たならわかるだろう? あのドアの向こうに、こんな広い空間があると思うか?」

 メイナードはルークを見た。なにかいおうとしたが、言葉が見つからなくてやめた。代わりに「部屋にいこう」と声をかけて進む。

 「待て待て」ルークは慌てて追う。「おれはまだ、をしただけだ。そして殿、その約束は、まだ

 メイナードはどきりとして振り向いた。体が熱くなったのには気づかないふりを決めこむ。努めて冷静にいった。「そんなことは理解している。私の目的はきみを休ませることだ。当然、私の部屋にいくんじゃない、きみの部屋にいくんだ」

 「おれの部屋だって?」

 「父が用意した。しかし二人の部屋をご所望なら、私は反対しない」

 「いいや、ありがたいよ。なににも怯えず閉じこもれる場所があるなんてね。だれと二人の部屋だか知らないが、そんなのは必要ない」

 メイナードは心臓をぎゅっと押されるように苦しくなった。「きみはなにに怯えている?」

 ルークの耳に従者の言葉がよみがえったとき、慌ただしい足音が聞こえてきた。がばりと音がして、殿が「おお」と声をもらした。見れば、少年とも青年ともつかないように見える男が殿に抱きついていた。

 殿はその男を「アダ」と呼んで、「ただいま」と優しくささやいて頭をなでている。ルークには、親の帰宅を喜ぶ子に対するような態度に見えた。

 「だれだ?」

 「アダルベルトだ」殿は男の頭をなでたまま応じた。「私の付き人だ」

 「付き人だ? しかもおまえの? おまえがそいつの付き人なんじゃなくて?」

 「そう、彼は私の付き人だ。私は彼にそばにいてほしいと思っている」

 「然様ですか然様ですか。婚約者としては燃えあがるようなジェラシーを感じるね」

 殿がこちらを見たが、ルークにはその目が悲しげな子どもの目に見えた。

 「なんだよ、なんでそんな目をする」ルークはため息をついて頭を掻いた。「悪かった、おまえにはずっと、無礼な態度で接してるな。改めよう。そう努力しよう」

 「構わない。きみはきみのままでいればいい。私が気に入らなければ怒っていいし、こんなところにはいられないと、そう思ったなら、一言伝えて出ていってもいい」

 そうしたいのは山々だったが、すぐに弟の無邪気に喜んだ顔が浮かんできた。おれはあいつのためにここにいる。薬も金も、メイナード・ザック・スタウトの配偶者としてここにいれば、勝手に家に送られる。早いところ婚姻を結んでしまわなければならない。あの悪魔とおなじような匂いのする皇太子を、受け入れなければならない。そのためには、彼のいいところを探し、そこに集中しよう。

 ふと、犬が吠えるような声がした。見れば婚約者に抱きついた痩せっぽちの男の声だった。アダルベルトというらしい婚約者の付き人は、犬のように吠えながら、自身の頭にこぶしをぶつけている。皇太子は荒ぶる付き人をなだめにかかる。

 「アダ、アダ、落ち着いて」メイナードはアダルベルトの腕を摑んで抱き寄せた。「大丈夫、私はここにいる。アダ、ほら、聞こえるね? 私はここにいるよ、アダ」

 ルースは呆然としていた。アダルベルトというあの男こそ、悪魔にとり憑かれているのかもしれない。

 「ああ、ええと……皇太子殿下? そのひとは、その……大丈夫なのか?」

 皇太子はルークにすまなそうな目を向けて、すぐにアダルベルトに向き直った。

 「アダ」メイナードはルークをなんと呼んだものか悩んだ。大切なひと? まさか結婚を約束したひとというわけにもいかない。悩みながら、今後の生活がいよいよ不安になる。

 「アダ、彼はルーク。きょうは、彼がきていて、部屋にいってもらうから、すこしだけ待っていてくれるかな?」

 「あ、う……んん……」

 「うん、待っていてくれるね。よし、アダ、ご本を読もう。私の部屋で、ご本を持って待っていてくれるかな?」

 「あ、あ……あ……」

 小さな声で呼ばれて、ルークはそそくさと皇太子のそばにいった。アダルベルトの横を通るとき、声が聞こえた。彼はやけに鼻に響く声で、「かれは、るぅく……きょう、かれ……」と呟いていたのだ。ルークは驚いた。あのひと、話せるのか?


 何十人もの歴代の皇帝に、額のなかから睨まれたりいやに優しく微笑を向けられたりする廊下を進んだ先に、ルークに用意された部屋があった。木のドアは押し開けても軋まなかった。

 左手に暖炉、右手にベッド、中央にテーブルと一人がけのソファ、正面に大窓がある。大窓を開ければそのままバルコニーに出られるらしい。

 「立派な部屋だ!……」これまでルースが過ごしてきた部屋には暖炉はなかった。家族全員が揃う部屋にはあったが、家にある暖炉はそれきりだった。

 「気に入ったかい」

 ルークは黙って頷いた。

 「ルーク、ちょっと話したいことがあるんだけれど、すこし入ってもいいかい」

 全身が緊張した。ゆっくりと皇太子の表情をうかがう。彼はあくまで話がしたいだけのように見えた。

 「わ、かった……入れ。ああ、でも、おれにふれるなよ」

 「もちろんだ。私はきみの許しを得るまで、決してきみにふれないと約束しよう。十年でも五十年でも、決して」

 皇太子はそれまで入るつもりがないようで、ルークが先に部屋に入った。「ドアを閉めたい」と遠慮した声がして、ルークは「ああ」と答える。ドアを閉める必要がないなら、あのまま廊下で話せばよかったのだ。

 ルークは皇太子を振り返った。「話ってなんだ、皇太子殿下?」

 メイナードは暖炉脇の壁に背をつけた。話が終わるまで、あるいはルークが出ていけというまでのどちらか早いほうまで、この背を壁から離すつもりはない。メイナードはさらに、左右の足首を重ねて、腕も組んだ。

 「アダのことだ」

 「ああ、さっきのアダルベルトっていうおまえの付き人」

 皇太子は一つ頷いた。ルークはベッドに腰をおろした。これまで使っていたものよりずっとやわらかい。

 「彼は、両親に連れられてここにきた」

 ルークはうまく理解できずに、「うん」と頷いた。

 メイナードはそれを見て、「きっと役に立つといわれて」とつけ加えた。ルークの反応が大して変わらず、「彼は両親に使と呼ばれていた」といい直した。

 「彼はここへきたその日からあの様子だったんだ。両親はきっと、彼が悪魔にでもとり憑かれていたのだとでも思っていたんだろう」

 ルークはなにもいえなくなった。自分もまさに、その夫妻とおなじことを思ったのだから。

 「そうでもなければ、どうして自分の子をそんなふうに呼べるだろう」

 「……そうだな。ちゃんと名前もつけて、育ててたのに」

 メイナードはかぶりを振った。「彼の名前は両親からは聞けなかった。彼らは名前を聞いたときに、息子を『堕天使』と呼んだんだ。外国よその言葉で」

 ルークは目を見開いた。「そんな!……」

 「アダルベルトと名付けたのは私だ。彼にはヘイリーという苗字もあるが、」

 「皇帝の旧姓だな」

 メイナードは一つ頷いて、「母がつけた」と答えた。

 メイナードは咳払いした。「ああ、ルーク、それで……」足元に視線を落として、外側にある足首をちょっと揺すった。「アダはあんなふうに、パニックを起こすことがある」改めてルークを見た。彼はいたってまじめに話を聞いてくれていた。「もしも、きみが今後、そんなアダを見たら、驚かずに私を呼んでほしい」

 「ああ、わかった」ルークは頷いて、皇太子に、おなじものを返したいと思った。思わず目を逸らす。「

 小恥ずかしくなって様子をうかがうと、皇太子は嬉しそうに微笑んでいた。「ありがとう」

 メイナードはゆっくりと足首を離して、前で組んでいた腕をほどき、体の後ろで手を組んだ。「疲れただろう、きょうはゆっくり休んでほしい」

 「おれが腹を空かせるとは思わないのか?」

 メイナードは表情では冷静に見せつつ、体の後ろで手に力をこめた。「それじゃあ、彼をここにおこう」

 「彼?」

 「きみの気に入った従者だ」思わず嫌味っぽくなって、メイナードは顔をしかめそうになった。ルークにあたってどうする? こんなことだから怯えさせるんだ!……。

 「おやすみ、ルーク」愛している、といいたくなって、寸前で飲みこんだ。ドアを閉める間際、「おやすみ」と小さな声が聞こえた。メイナードは急いでドアを閉めて、ルークから自分の姿を隠した。深く息をついて、胸に手を押しあてる。ルークが愛おしくて、心臓が、体が壊れてしまいそうだった。


 メイナードはやっと気分を落ち着かせて、あまり好きではなくなった男のもとへ急いだ。

 庭へ出るとオーガストの母親を見つけた。買いものから戻ってきたところらしい。メイナードは彼女を呼び止めて、目的の男を見なかったか尋ねた。「彼はわたくしの息子と、とても仲がいいようです」と彼女はいった。彼らの不まじめさを報告するような響きがあった。

 メイナードは彼女の背を呼び止めた。「ああ、父か母に、と伝えてくれるかい?」

 彼女は一度「彼?」と聞き返したが、すぐに「はい、かしこまりました」といって玄関へ向かった。

 廐舎にいってみると、旅をした男二人が廐番と駄弁だべっていた。一同はメイナードに気づくと顔を引きつらせて黙りこみ、姿勢を正した。

 メイナードはあえて男の名前を呼ばずに、目を合わせて「ちょっといいかい」と声をかけた。男は「ええ、もちろん」と愛想よく応じた。

 「ルークの部屋にいてくれ」

 男は驚いて目を大きくした。「彼の部屋に? ああ、外に立っていればよいのでしょうか?」

 メイナードはようやく冷静になって、それで十分だと気がついた。一つ頷いてから、「絶対にきみから部屋に入ってはいけないよ、決して、決してだ」といい含めた。

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