婚約

 まだ空の青が白っぽいころ、過敏な耳に忌まわしい馬の足音が聞こえてきた。

 ルークは母の目を見つめて目を細めた。「いいか、母さん。あいつには間違っても、おれが結婚を求められただなんていわないでよ」

 母は息子のこのせりふを、起床からたった今までの短い間にもう十回は聞いた。しっかり数えていたわけでもないから、十回どころかそれよりも多く聞いたかもしれない。しかもこれはきょうからはじまったのではなくて数日前からはじまったものだから、はじめて聞いたのと今しがた聞いたのまでをすべて合わせたら百回、なんなら千回を超えているかもしれない。

 母は飽きずに「ええ、ええ」と頷く。「あなたはお城の畑の管理の手伝いを任されたのよね、ルーク。母は子との約束を破ったりしませんよ」

 「ああもう、母さん、絶対だよ、絶対だからね。今後二度と約束を守ってくれなくたっていいから、この約束だけはきっと守ってくれよ」

 「ルーク。あたしの一体なにが、あなたをそこまで不安にさせるの」

 「そりゃあ、兄の使命だよ!……」ルークは静かにいった。「おれはあいつを、またとあんな目に遭わせるくらいなら、自分の舌を噛み切っても首を切り落としても腹を裂いても足りないんだ!……」

 「なら、ルーク。あたしは母の使命を背負って、あなたとの約束を守ると誓う」母は人差し指を立てて、ゆっくりといい含めるように話した。「あなたに、あなたたちの父さんに、そしてあたし自身に。あなたが望むなら、この世にあるすべてに、一度づつ丁寧に誓いを立ててもいい」

 ルークはようやく表情をやわらげた。「信じてるよ」

 「母は子を裏切ってはならないものよ。子に、あなたの母になると誓ってから、一生涯ね」

 ルークは母の体に腕をまわした。「愛してる、母さん」

 「ええ、愛してるわ。あたしの愛しい息子」


 ルークが家を出たとき、金髪の悪魔はすでに馬の背からおりていた。

 「ルーク」

 胃がきゅっとした。ルークはそれに気づかないふりをして笑顔を貼りつけた。「やあ、殿。ずいぶん早かったじゃないか」

 「きみが早朝にくるようにといった」殿は澹々といった。

 「あんたはおれに考える時間をあまりくれなかったといってるんだ」

 殿は涼しげに笑った。ルークはむっとしていった。「平民風情には殿の命に背くことは許されないと?」鼻で笑って見せた。「そりゃそうだよな」

 「そうじゃない。私が、早く終わらせてしまいたかったんだ」

 「終わらせる?」なるほど、この平穏なあたたかい暮らしを、と、そういうのか!

 「それで、ルーク」メイナードは自分が逃げ出してしまう前に急いでいった。「答えは?」

 ルークは人差し指と中指とを立てた。「条件が二つある」

 メイナードについてきた二人の男は、今すぐにも目の前の生意気な若男を斬り殺したいのを、全身に力をこめて耐えた。二人は同時に腹のなかで叫んだ。なんて無礼な野郎なんだ! これでほんのわずかでも皇太子殿下が気分を害していたならこの剣を使えるのに!

 「まず一つ」ルークは中指をたたんで静かに言った。「月に一本、をここに送れ」

 メイナードは心臓が震えた気がして眉をひそめた。「薬?……」

 この家には薬が必要な者がいるのか?——。

 メイナードは、はじめてルークと会ったとき、彼が自分を悪魔と呼んだ理由がわかった気がした。その者は体が弱く、他者と接触することが危険な状態にあるのかもしれない。差し伸べた手にふれようとしなかったのも、他人である自分とふれることで、自身が家内に穢れを持ちこむと考えたのではないか。なるほど、私はたしかに、彼から見れば悪魔にほかならない。得体の知れない穢れを持ちこみ、その者の命を奪う、穢れた悪魔だ!

 「知ってるだろう?」しかしルークのいいたいのはそんなことではなかった。「あんたの親父さんだって飲んでいるはずだ」

 メイナードはルークのいっていることが摑めず、頭がくらくらしそうだった。「私の父が?」

 「皇帝陛下、とお呼びすべきか?」

 メイナードにとって父に対して相手が使う呼び方なんていうのはどうでもいいことだった。「私の父は、至って健康だ。薬や医者とは、無縁だ」

 「どうだかなあ? とにかく、おれはあんたらがおれたちの欲しい薬を持っていることを知っている。万に一つ持っていなくても買って送ってもらう」

 「あ、ああ、わかった。いくつでも送ろう」

 「次に」ルークは人差し指を立てたまま中指を立てた。「月に一度、薬と一緒に、薬十本分の金銭もここに送れ」

 診察料か、とメイナードは納得した。「ああ、いくらでも送ろう」

 ルークはとうとう決心した。どうしてだか、なんとなく心が軽くなったような気がした。しかしそうして湛えられた微笑は、メイナードにはあまりに苦しげに映った。

 「殿、あんたとの婚姻を、……約束しよう」

 メイナードの心臓は壊れてしまったのかもしれない。先ほど大きく震えて、今、また苦しく震えた。心臓がどうにかなってしまったせいで、鼻がつんとして、喉のあたりが苦しくなって、視界も滲んできた。滲んだ視界で、家から女性が出てきたのを見た。茶色の目をした、赤みがかった茶髪の女性だ。

 「皇太子殿下、息子をどうぞよろしくお願いしますね」優しい声だった。「あたくし、息子が自分の命よりずっと大切なんですの」

 メイナードは右手を左胸にあてて、片膝をついて跪いた。二人の従者もつづいた。もっとも、二人の胸の内には、主人への忠誠より、気に入らない相手に跪くことへの屈辱が大きくあった。この女、今、皇太子殿下を脅迫したぞ!

 「メイナード・ザック・スタウト、ご子息ルーク・バログさま、並びにそのご家族に、持てるすべてを捧げると、ここにお誓い申しあげます」

 従者二人は仲よく腹のなかで叫んだ。なんてことだ、ああなんてことだ、なんてことだ!——。


 金髪の悪魔は、自分の連れてきた魔獣うまに跨ると、ルークに手を伸ばした。

 「なんのつもりだ?」

 「きみは私のフィアンセだ。この馬にのってもらう」

 「嫌だ。そんな短い背中に並んで座って、城へ着くまでに大事な魂を食われたりしたらたまらない」

 メイナードは困り果てた。魂を食う? 彼は私をほんものの悪魔だと思っているのか?

 「そうわがままをおっしゃられては困ります、」男は努めて冷静に、かつ侮辱的にいった。

 ルースは男を睨めつけて、それとは別の男のそばにいった。「おまえといく」

 「わたくしも所詮、従者ですよ」男は静かに警告した。自分もあの男とおなじように考えていると。

 ルースはとびきり生意気に見える顔をした。「おれはだぞ、いうことを聞け」

 従者はどこか嫌味っぽく目礼して、ルークの体をひょいと馬の背にのせた。そのあとすぐに、ルークの後ろに跨って手綱を握った。そこでようやく、男はこの生意気な若者の匂いに気がついた。この野郎、皇帝陛下と似た匂いがする? 陛下の飲んでいる薬も知っているといっていた、まさかただの農民じゃない? 何者だ?——。

 男とルークを見て苦しくなったメイナードは男を呼んだ。感じよく振り返った男を見つめる。男は、まるで自分の顔の数ミリ横を毒矢が飛んだように感じた。あまりふざけたことをしていると主人に殺されるかもしれない。こんなふうに怒りに満ちた目で見られたのははじめてだった。

 「さっさといこう」腕のなかでルークがいった。「弟が起きてきたら困る」

 男は主人に目礼して前を向き直った。「かしこまりました、ルークさま」


 ルークにとって馬の背中にのるというのは、それほどいいものではなかった。尻の下で絶えず馬の筋肉が動き、しかも不安定に揺れる。世には馬車というものもあるが、それも素敵なものではないのに違いなかった。

 メイナードは前を進む男と一緒にいる婚約者のことが気になってしかたない。馬の歩みに酔ってはいないだろうか、がらりと変わろうとしている日常に疲れてはいないだろうか、生家が恋しくはないだろうか。

 メイナードは前の男を呼んだ。「このあと、すこし休まないかい?」

 振り返った男は、メイナードが婚約者の姿を隠している自分を呪っていると思った。咳払いして、慌ててルークを呼ぶ。「ああ、ルークさま。いかがなさいますか」

 「なに?」

 「ああ、その、皇太子殿下が休まないかとおっしゃっています」

 「構うな」

 男はまたメイナードを振り返った。「ああ、皇太子殿下、ルークさまは必要ないと」男は突然、なんとなく怖くなって「ええ、休憩は必要ないと」といい直した。

 「そうか。無理はしないように」

 男は不恰好にへらへら笑って、「ええ、ええ」と頷いた。ルークに「疲れたらすぐにおっしゃってくださいね」と伝える。

 「そんなに殿が怖いか?」ルークは声は前に、言葉は後ろに向けた。男はなにもいわなかったが、ルークは小さく「おれも、怖い」とつづけた。

 「あなたを慰めるのはわたくしではなく、皇太子殿下です」

 「慰める?」ルースは乾いた笑いを吐き出した。「慰み者にするの間違いだろう」

 「皇太子殿下はあなたに、またあなたの母に誓いましたでしょう、彼はあなたに、持てるすべてを捧げるんです」

 「あいつがなにを持っていると?」

 「正直に申しあげましょう」腕のなかのルークは黙っていた。「わたくしがあなたを斬り殺したいと思うようなあなたの言動に対して、顔色一つ変えずにいるような器の大きさ、あるいは我慢強さ、またあるいは、その両方ですよ」


 従者のいう器が大きく我慢強いメイナードは、そう評した従者を馬から引きずりおろしたい衝動と闘っていた。別に従者が我慢強いとか器が大きいとかそんなふうに評価したのが気に入らないのではない。第一、メイナードにはそのようにいった従者の声は聞こえていなかった。しかし、もしもそれが実際に聞こえていたところで、それを理由に従者を馬から引きずりおろしたりしない。たとえば、従者が自分を、わがままで気短で衝動的だなどと評していても、メイナードは彼を馬から引きずりおろすようなことはしない。そんなつまらないことよりずっと重大な罪を、従者は犯しているのだ。彼はメイナードの婚約者を抱きあげて馬にのせ、さらに憎たらしいことに腕のなかに彼をしまいこんでいる。メイナードはそれに我慢ならないのだ! 今すぐにでもあの男を馬から引きずりおろして、二度と自分の婚約者にふれるなといって脅しつけたい。そんな話は聞いていないが、きみは私より先に彼と婚約したのかと嫌味もいいたい。しかし残酷なまでに悲しいことだが、今あのようにしてあの男と一緒に馬にのっているのは、ほかならぬあの魅力的な婚約者自身の望みなのだ。その事実が、メイナードを従者に暴力を振るわせない唯一のストッパーだった。


 後続の男はメイナードの様子がおかしいことに気づいていた。なんとなく後ろ姿がこわばって見えるような、後ろ姿に威圧感があるような、そんな感じがしていた。

 男は何度目かの咳払いをして、とうとう息を吸いこんだ。「ああ……皇太子殿下。いかがです、適当なところを探して休みましょうか?」

 「必要ない」

 振り向くこともしないで冷たく返ってきた声に、男は皇太子が自分に怒っているのだと思って震えあがった。あの生意気で無礼な男にと嫌味をいったのがいけなかったのか! 婚約した二人が無事に城に着くのを見届けたら、すぐに祈禱場きとうばへいってたっぷり懺悔ざんげしなくてはならないだろう。

 男は心のなかで神にひれ伏した。

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