美花の誘惑

 「この先で、すこし休憩しましょう」

 先をいく皇太子が先頭の男にまるで返事をしないので、男はしかたなく、後ろから「ああ、そうしよう」と答えた。皇太子は慣れない旅にかなり疲れているのかもしれない、それなら時間がかかっても、休み休み帰るのがいい。


 メイナードは前の男が馬を止めたのに気がついた。しかしそれは男が馬をおりるころのことで、馬同士がぶつかる寸前で自分の馬を止めた。

 「殿下」と声がして、見れば前を進んでいた男が下から手を伸ばしていた。「お疲れでしょう」

 「ああ、いや、大丈夫だよ」メイナードは微笑みを見せて馬をおりた。

 「ここですこし休んでいきましょう」後続の男がいった。

 「ああ、そうするかい? ああ、そうしよう」

 メイナードは先ほど会ったばかりの若男に気を惹かれていた。陽光を跳ね返すようなつややかな暗い褐色の髪に、髪より淡い色の、宝石を埋めこんだような美しい瞳。ほどよく陽焼けして白いシャツの映える肌には、潑溂はつらつとした印象を受けた。

 また耳には彼の声が、目には彼の暗い激情のあふれた表情が残っていた。「悪魔!」——……。メイナードが手を差し伸べたとき、ルースは逃げるように後方へさがり、鋭くめつけて歯を食いしばっていた。

 メイナードはにもたれて座り、脚を投げ出した。両手で顔を覆って太ももに肘をつき、息を吸うと口から吐きながら上体を起こして手をおろした。わさわさと茂った葉の隙間から空を仰ぐ。

 ああ、私はどうして、彼をあれほどまで怖がらせてしまったのか……。彼は私に驚いたのではない、たしかに

 自分より歳の若い男のああした姿は、もう一人分、記憶にこびりついていた。ルーク・バログのあの姿は、出会ったころのアダルベルトによく似ていた。実の親に『堕天使』と呼ばれた少年に。


 後ろについていた男は皇太子がよほど疲れていると見て、皇太子の馬の装備をとり外した。自分と先頭の男がのってきた馬はすでに水を満足に飲んで、それぞれのんびりとしていた。

 「ハーヴェイ、さあ疲れたろう」男は馬具にとりつけられていた袋から器と水をとり出して、水で満たした器をそばにおいてやった。「ほら、飲め」

 柔順で従順なかわいい馬は、嬉しそうに水を飲みはじめた。


 風が吹いても、鳥の鳴く声が聞こえても、また地面を歩く小さな虫の姿を見つけても、メイナードの悩みは消えなかった。神は、時には風を吹かせ、時には鳥や動物の声を介し、またあるいはなにか生き物の姿を見せて導いてくれるものだが、今のメイナードに神の声は届かないのだった。それらからなにか受けとろうとすれば、自分が責められているような気分になった。彼がおまえの求婚に応じることはない、あの子はおまえに怯えている、あの子に相応しい相手はおまえのほかにいる、と。

 自分が間違った方向へ進んでいるような気がした。ルーク・バログは自分を愛していないし、これからも愛することはない。それなのに、自分の気は彼にばかり向いてしまう。

 あれが母のいった『花』なのか。気が惹かれて抗えない。自分が父から生まれたなどというばかげた話も事実であればなどと願いはじめるほど、あの若男が気になってしょうがない。

 メイナードはため息をついた。

 しかし問題はそれだけじゃない。ルーク・バログが自分にとっての花であろうと、自分が彼に対して蝶のように惹かれていようと、現実はそうじゃない。今の自分たちは、悪魔と、平和を破壊された仔羊なのだ。男が子を産むことがあろうと、それをどれほど願おうと、彼にとって自分は悪魔なのだ。

 メイナードはまた両手で顔を覆った。

 ああ、彼はこの求婚を拒むだろう。私はその事実をもって、父を説得することになるだろう。

 ふわりと吹いた風が、遠くに咲く花を揺らした。

 私がほんものの蝶であったなら、彼がほんものの花であったならよかった。ああ、ほんものの蝶は、花を怯えさせることなどないのだから!……。


 オーガスト・グラッドストンは料理番の息子で、廐番うまやばんの十四歳だ。金に近い茶髪に茶色の瞳。白い肌の上、左目の下から右目の下まで、川が流れるようにそばかすが散っている。愛らしい顔立ちの少年だ。オーガストは廐舎きゅうしゃを掃除するのにいっぱいにした荷車を押して、開け放してある扉の外へ出た。縦も横も小さな体の全部を使うようにして重い荷車を押し進めていると、馬の足音が聞こえてきた。見ればメイナードと、彼についていった二人が帰ってきたのだった。

 オーガストは足を止めると手の甲で額の汗を拭った。「ああ、お帰りなさい、兄さま!」

 メイナードは馬上から「ただいま」と微笑んだ。

 兄さまと呼び呼ばれても、オーガストとメイナードは兄弟ではない。幼いころから親しくしていたものだから、オーガストがメイナードを兄のように慕ってそう呼んでいるに過ぎない。

 「ご無事でなによりです」

 「私には素晴らしい相棒がついているからね」

 ちょうど馬をおりたところの二人は、十四歳の子どもを相手に得意げに笑って見せた。

 オーガストはメイナードから馬を受けとった。疲れた様子で玄関へ向かう背中を見送って、馬を連れて廐舎に引き返す。空いたところに二人がそれぞれの馬を帰していた。

 「兄さまは今回、どちらへいかれたんです?」オーガストは英文字で『ハーヴェイ』と書かれた札のついたところへメイナードの愛馬を帰しながら、どちらにともなく尋ねた。

 「それはもう、非常に賢く、慎ましやかで清潔感にあふれた美しいひとのところさ」

 一方の男が応じると、もう一方の男がふんと鼻を鳴らした。オーガストは大人の男のあからさまな態度に、たまらず苦笑いした。どうやら二人は、今回いった先で会ったひとをらしい。


 陽が沈みきる前、燭台にあかりを灯した広間は食器のあたる音と料理の匂いに満ちていた。

 メイナードはぼんやりと皿の上でフォークを動かしながら、ふと、隣のアダルベルトが落ち着かない様子でいるのに気がついた。

 メイナードはフォークをおいてアダルベルトの顔を覗きこんだ。「どうした、アダ?」

 「あ……ん、うう……」

 メイナードは体を揺らしているアダルベルトの、ソースで汚れた口の周りを拭いた。「うん、なあに?」

 アダルベルトの顔が湿っぽくくしゃくしゃになった。メイナードが驚く間もなく、アダルベルトはメイナードに抱きついた。体を揺らしながらうんうん唸る。メイナードは片手を彼の背中にあてて、片手で彼の頭をなでた。

 「おまえが数日いなかったからな」フレディが穏やかにいった。「寂しかったんだろう」

 メイナードは父からに目を移した。「そうなのかい、寂しかったのかい?」

 アダルベルトが声をあげて泣きはじめた。メイナードは彼を抱きしめて、「大丈夫、大丈夫」とささやいた。「私はここにいるよ。寂しく思うことはない、大丈夫」

 落ち着いたアダルベルトの食事が進むのを見守りながら、メイナード自身もゆっくりと食べ進めた。

 食後、メイナードは皿から真っ赤に熟れた果実をとってアダルベルドに差し出した。「いちご、食べるかい?」

 アダルベルトはメイナードの手から果実をかじった。アダルベルトが一粒食べると、メイナードは赤い果汁で濡れた指先を手拭きで拭った。「さくらんぼは?」と訊くと、アダルベルトは小さく頷いた。


 夕食が済むと、メイナードは父の書斎へ向かった。深呼吸の前と後とでまったく変わらない憂鬱な気分でドアをノックする。「なんだい」と声が返ってきて「メイナードです」と名乗る。

 「入れ」という声にドアを開けて答えた。

 「父上。きょう、ルーク・バログと話をしました」

 フレディは机から顔をあげて息子を見た。「どうだった?」

 メイナードは黙ってかぶりを振った。「答えは一週間後にでも聞きにいきますが、彼は私の求婚を拒むでしょう」

 「そうか……。それは、残念だ」

 「当然です。私も彼も、おなじ男なのですから」

 「いいや、違う、メイナード。おまえという男と、ルーク・バログという男とでは、違うところがある」

 メイナードはすっかり父の気がふれたのだと思って、静かに苦笑した。


 就寝前、アダルベルトが本を抱えて部屋に入ってきた。メイナードはいつものとおりに笑顔で迎えようとしたが、視線がアダルベルトの抱えている本に張りついてしまった。ずいぶんと分厚い本だった。

 「アダ、そのご本を読むのかい?」

 アダルベルトは機嫌よく笑いながら寄ってきた。にこにこと楽しそうにして本を差し出してくるものだから、メイナードはそれを受けとるよりほかになかった。

 「ああ、アダ……その、これを読むのかい?」

 アダルベルトは喉の奥で笑って、にこにことしながらメイナードの声がその中身を語るのを待っている。

 メイナードはなめがわの表紙を開いた。中身は古い作家の全集、その第三巻だった。アダルベルトには一巻も二巻も読んだことはない。

 幸いなことに、目次には三篇収録されていると書いてある。普段読んでいるような本も一晩のうちに何度か繰り返し読むことがある。今夜もそうして何度か繰り返したと思って、最初の中篇を一本読もう。

 メイナードは微笑んで頷いた。「オーケイ、読もう」

 この一冊の一行目は、ある夏、田舎町の夜を襲った激しい嵐を澹々たんたんと描く言葉で構成されていた。メイナードは、それをベッドの上で、ランタンのあかりを頼りにゆっくりと読みはじめた。アダルベルトは床に座りこんで、すぐ目の前で発されるメイナードの声に聞き入った。ページのなかとは対照的な春の穏やかな夜は、ゆっくりとふけていく。


 メイナードはアダルベルトと接することに集中した。庭を散歩して、普段より長い時間を本を読むことにあてて、ある日は陽が低いところで橙に輝いているような時間にアダルベルトの髪を切ったりした。アダルベルトに寂しい思いをさせた埋め合わせをするためと、もう一つ、自分自身がルーク・バログから意識を逸らすためという身勝手な理由からだ。

 昼夜問わず気がつけばルーク・バログのことを考え、彼の下す決断について想い、彼との再会の日に怯えてしまう。どれほど喜んでもいとうても、時間はおなじように進んでいくし、ルークの下す決断に干渉することもできない。それならばすこしでも現実から目を逸らして過ごしたかった。現実と向き合い、受け入れるのは、実際に現実を突きつけられてからでいい。

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