悪魔の匂い
胃がよじれるようだった。吐き気がした。腹の奥からこみあげる不快感が憎しみだと気づくのには時間がかかった。長身な金髪の男を見た瞬間、まず感じたのは衝撃だった。はじめはその衝撃も隠せたが、相手がルーク・バログを探しているとなっては、隠しきることもできない。衝撃は次第に不快感に変わり、やがて憎しみであると気がつくに至った。
遠い後ろから「兄さん」と声がして、ルークは「くるな」と叫んだ。
三年前。落葉樹が葉をあざやかな赤や橙や黄色に染めたころで、サラダにこの帝国とおなじ名前のナスタチウムの花が添えられるような季節だった。家に戻ったとき、不思議な匂いのする男が玄関を出てきた。すっかり涼しくなってきたというのに、いそいそと出てきた男は額に汗をかいているように見えた。すれ違いざまに視線がぶつかった。客人かと思ったが、ルークを見た黒い目は、怯えているようで、しかし驚いているようでも、また殺気立っているようでもあった。
ルークは真っ先に思い至った結論を否定した。あの男は客ではない! 激しい焦りが体の芯を震わせた。
どの部屋からも返事がなかった。果たして、弟は私室で横になっていた。ただし、自分を抱きしめるようにして震え、泣いて、半裸で、床に。部屋には、十五歳の弟の匂いと、つい今しがたすれ違った男の匂いとが混ざりあって満ちていた。
これまでに遭遇した、ついていないと思う、また悪態をつきたくなるどんなできごとよりずっと、醜い悪夢だった。長い金糸のような髪を風に揺らす男を見て、肌が
ルークは必死で気分を落ち着かせようとした。あの男は目の前の男のような金髪ではなかった。あの男は目の前の男ほどの長身ではなかった。あの男は、目の前の男のように、緑色の瞳をしていなかった。目の前の男は、あの男とは違う。目の前の男はたしかに客人だ。あの男と目の前の男とは、なにもかもが違う。
「ルーク……」かすれた声はおかしなほど震えた。「ルーク・バログは、……おれです」
「ああ、そうでしたか」金髪の男は柔和に微笑んだ。「申し遅れました、わたくしはメイナード・ザック・スタウトと申します」
驚いた。「ザック!……」皇族の名だ。
あとの二人の男も馬をおりた。「皇太子殿下だ」と声を重ねた。
ルークは父が生前、古い友人に今の皇帝陛下がいるとよく自慢していたのを思い出した。目の前にいる男はその息子。しかし……。
ルークは乾いた口で唾を飲みこんだ。「皇太子殿下が、おれ、……私に、どのような、その……」
「あなたには、私たちの城にきてほしい。ルーク・バログ」
「ああ、その、だからなんの——」男二人が一歩寄ってきたものだから、ルークは気圧されて黙った。ばかな平民に礼儀作法なんか求めるなよ……——。
皇太子殿下が近づいて手を差し伸べた。ルークは体が動くまま飛び退った。
「さわるな、悪魔!」
「手前!——」
メイナードは微笑して一つ頷き、従者を制止した。二人の男は剣の柄から手を離した。
メイナードはルークに向き直ると、苦笑してこめかみを掻いた。「ああ、その……きみの怒りは至極もっともだよ、ルーク。突然現れた者に呼ばれて、さも当然のようについていくなんていうほうが不自然だ」
「なんのためにおれを呼ぶんだ、理由を話してくれ!」
もっともな質問だった。メイナードは困り果てた。しばらく考えて、小さな希望を見つけた。希望に縋って打ち明けた。「私と結婚してほしい」
これでルーク・バログが拒んでくれたらいい。その事実で父を説得しよう。
ルークは吐き気のぶり返したのを感じた。どれだけ自分にいって聞かせても、目の前の男とあの悪魔との結びつきがほどけない。
結婚だと、この悪魔と?
自分とおなじ匂いのする者と、目の前の男とおなじ匂いのする者との間に事が起きればどうなるか、ルークは知っていた。三年前、弟は医者に
ルークやその弟のような者は、神の化身と呼ばれることがあった。その生まれ持った不思議な体臭は、ほとんどのひとにとって心地いい匂いであり、多くのひとに、ほとんどのひとに、好意的に接される。神を憎む者はほとんどいない、ルークらの持つ匂いも嫌う者はほとんどいない、共に多くのひとに愛される存在である、それだから、神の化身だと。
ばかげている!——。
ルークは三年前、あの悪夢を刻みつけられてから、自分たちは周りの者のいうような存在ではないと思っている。自分たちが神だというなら、あんなふうに
ルークは下から、涙目で皇太子殿下を睨んだ。「おまえは、」唸るようにいった。「男がいいのか」
メイナードの困った微笑を、ルークは肯定と受けとった。
この悪魔は、おれが拒めばまた別の男のもとへいくだろう。呪われた男を求めて、こんなふうに突然に求婚するだろう。ここでおれが生贄となれば、この悪魔からほかの者を、特に弟を守ることができる。すくなくとも、この悪魔が匂いを嗅ぎつけておれの代わりとして弟に近づくことはない。でもおれがここを離れたらどうなる? あの日のように、このあたりをうろつく悪魔が、あんなふうに怯えたような殺気立ったような目をしてやってくるかもしれない。この三年間、できる限りを尽くして弟のそばにいた。弟をまたと傷つけるくらいなら、いっそのこと、この悪魔をよそへやってしまうのがいいのかもしれない。まるで知らないだれかを一人の悪魔から守るより、大切な弟を無数の悪魔から守るほうがいいかもしれない。
「急に、そんなことをいわれても困る」
皇太子殿下はふっと息をついて微笑んだ。ルークには悪魔の微笑に映った。
「それなら、それでいい。困惑させてしまって申し訳ない」
背を向けた金髪の悪魔に、ルークは「待て!」と呼びかけた。悪魔がゆっくりと振り返る。上からおろされる視線はいやに冷たく感じた。
「すこし、考えさせてくれ。またあとで、こい」
「そうかい? 嫌ならそれでいいんだよ、ルーク」
「いいから、こい。必ずだ! 早朝のうちにこい」
むっとした二人の間で、メイナードは「わかった」と応じた。その穏やかな声も、ルークには悪魔の鼻息に聞こえた。
男どもが去ったあと、弟が駆け寄ってきた。「兄さん、兄さん!」
ルークは振り向いて弟を迎えた。
「さっきのはだれだい?」
「皇太子殿下だよ」口にするだけで不快だった。顔をしかめないように気をつけた。
弟は無邪気に目を輝かせた。「皇太子殿下! そんなお方がどうしてこんなところに? うわあ、ぼくも近くで見たかったよ」
「ああ、実はその、皇帝陛下がうちの野菜がお好きみたいなんだ」
「父さんの友達だったんだっけ? 葬儀にもきてくれたほどだ。ああ、うちの野菜も、そんなふうに仲がよかったから食べる機会があったのかな?」
「ああ、それで……その、おれにね、城の畑の世話を手伝ってくれないかって話……だったんだ」ルークも自分でなにをいっているのかわからなかった。とにかく、弟に話すのが悪魔に求婚されたという事実でなければなんでもよかった。
「ええ、すごい! いいなあ、兄さん。受けなよ、その話!」
「いや、断ろうと思ってるんだけど……」
「どうしてだよ、こんなに名誉なことはないじゃないか」
「おまえをおいていくことになる」
弟は兄の言葉の真意を受けとった。「大丈夫だよ、薬がある」弟はへらりと笑って見せた。「高いものなんだから、むしろ話を受けて、毎月買えるだけのお金を送ってよ」
「おれは、……心配だ、すごく」
「ぼくは大丈夫だよ。なんなら、匂いは薬を飲んでない兄さんのほうがずっと強い。戸締まりもしっかりするし——」弟は自身の腰をぽんと叩いた。「ナイフもちゃんと持ってる。離さないようにする。自分の身は、自分で守るさ」
ルークは無邪気な弟を抱きしめた。「愛してる」
「ぼくも愛してる、兄さん」
抱擁をといて、ルークは弟の顔を見た。三歳離れたまだまだ成長期の弟の顔は、ルースとほとんどおなじ位置にある。「今夜、母さんにも相談してみるよ」
弟は微笑んで二度三度頷いた。「それがいいね」
雲に覆われても満月は明るかった。ルークは、弟が部屋に戻ってから母と話をした。
母は火の入ったランタンののった木のテーブルに、木のカップを二つおいた。花弁を浮かべたハーブティだった。ルークは礼をいってカップの片方を寄せた。
母は優しく微笑んで向かいに座った。「それで、話ってなあに、ルーク?」
「ああ、その……」ルースは頭を掻いた。「きょう、昼間に、皇太子殿下が、……い、らした」
「まあ! どうしてかしら、お父さんのことで?」
「あ、その……」ルークは両手でぎゅっとカップを包んだ。中で花弁が揺れる。「皇太子殿下は、おれと……」胃の不快感を深呼吸してごまかす。「おれと、結婚……したいそうなんだ」
「まあ!……」母は両手のひらを上に向けて天井を仰いだ。「ああ、なんてこと! あなたはどう思うの?」
「おれは、どうもこうも……男を好きになったことなんてないし。皇太子殿下のことも、なにも知らないし。それに、母さんとあいつと離れるのも、寂しい。だけど、」ルークは咳払いした。「あいつは断る理由はないっていうし、……皇太子殿下も、おれを求めてる」
母はカップを口にあてた。そっとテーブルにおく。「それじゃあ、わがままになってみたら? ロマンスって、ヒロインがわがままなものも多いわ」
ルークは苦笑して首をかしげた。「おれがヒロイン?」
「あなたは、特別に神に愛された子よ。より濃く、神の血を引いている。殿下もまたおなじ」
苦々しく貼りつけた笑みが消えていくのがわかった。「あいつがあんな目に遭っても、まだそんなことがいえるの?」
母は黙りこんで、またゆっくりとカップに口をつけた。
ルークはため息をついた。カップの中身を一口飲んだ。「おれはどうするべきかな」
「嫌なら断ればいい」母はゆっくりと首を振る。「難しいことじゃない」口元に笑みを浮かべた。「でも一つだけ、あたしがはっきりいえるのは、皇帝陛下はいいひとよ。あなたとおなじ」
目元に力が入った。「なんだって? それじゃあ、まさか、皇妃陛下は——」父は生前、おまえは小さいころだが皇帝陛下にお会いしたことがあるんだといっていた。そのときにこの匂いを知ったのかもしれない。皇妃が代々、この匂いかあの匂いを持って生まれた男であるなら、あの悪魔は父づてにおれの匂いを知ってやってきたのかもしれない。歴代の皇族の男の例にならって、男を皇妃とするために。
しかし母はルークの仮説を否定した。「いいえ、皇妃陛下が男性だったことはない。でもそれだからこそ、皇太子殿下があなたにこだわっていることがうかがえる。歴史を変えてまで、自ら前例となってまで、あなたを迎えたいと、こだわっていることがね」
ルークはカップのなかを見つめて首を振った。「でも、なんで……」
「きょう、本人はなんて?」
ルークはかぶりを振った。「なにも」
「そう。あとはあなた次第ね。皇太子殿下はあなたに特別な想いがあるんでしょうし、あたしは止めない。きっと大切にしてくれるでしょうから」
母は席を立ち、「ゆっくり考えて」といいおいて廊下へ向かった。部屋を出る間際、「愛してる」といった母に、ほんとうに?と聞き返したくなった。
母を見送ったルークは、信じられない気持ちで頭を振り、深くため息をついた。
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