皇太子の愛しい花の婿

白菊

花婿を迎えに

 前から三頭、栗毛くりげ鹿毛かげ黒鹿毛くろかげ。濃淡の差はあれど茶色の馬が並んでいる。

 十二の馬蹄ばていが小気味よく、のんびりと地面を蹴る。空は、父である皇帝の心とは対照的に晴れ渡り、青空の透ける薄い雲を浮かべながら、あたたかな陽射しで草木や花や川を包んでいる。

 メイナード・ザック・スタウトは腰のあたりでブロンドの髪先かみさきを揺らしながら、あとにつづく一人の男を振り返った。男の短髪と似た暗い茶色の被毛の馬は涼しい顔をしている。

 「大丈夫かい」メイナードは男に声をかけた。胸に響く低い声はすこし鼻にかかっていて、あたたかくやわらかい。

 「問題ありません」と男は応じた。

 「きょうのうちには着きますよ」先をいく男がいった。


 一晩の野営を挟んだこの小さな旅は、およそ三か月前から皇帝フレディ・ザック・スタウトの気分が優れないことと大きく関係している。もっとも、父の気分を落ちこませたできごとと、この旅とを結びつける事情について、メイナードは一切知らず、父ばかりがこだわっている。


 しらせが届いたのは三か月ちょっと前、正確には九十七日前のことだった。

 寒い日で、メイナードはの青年の男と一緒に広間の窓から、庭に積もった雪を眺めていた。

 「アダ、見て、雪だよ。雪が積もっている」

 青年アダルベルトは、メイナードに骨ばった薄い肩を抱かれてうんうん唸りながら、体を前に後ろに揺らして窓の外を眺めていた。体の動きに合わせて、生白い顔の下で茶色の癖毛が揺れる。

 メイナードは窓の外に指先を向けた。「ずいぶん降ったね、庭が真っ白だ」

 若い男が手紙を持ってきた。フレディ宛のものだった。ちょうどフレディが妻を連れて広間へおりてくるところだったので、手紙はそのまま彼に渡った。

 その手紙はジュリアス・バログという男性の死を伝えた。メイナードはジュリアスというその人物を知らなかったが、両親は顔を青くした。フレディはへなへなと力なく座りこみ、妻クラウディアは苦しげな顔で夫の背に手をあてた。


 父が葬儀に参列した日、メイナードは私室でアダルベルトに本を読んで聞かせていた。アダルベルトは石の床に座り、体を前後に揺らして、うんうんいいながら首を掻いたり鼻を掻いたり指先を忙しなく動かしたりしていた。うんうん発される声には時折笑い声がまじり、彼の機嫌がいいことがよく伝わってきた。

 「メイナード!」よく通る女の声が呼ぶ。「メイナァード!」

 メイナードはアダルベルトに向けて笑みを浮かべた。澄みきった緑の瞳を包むまぶたが細められ、つぼみのように、慎ましくも美しい、色の淡いくちびるの端がやわらかく上を向く。「メイナードはご本を読んでいるというのに、全体なんの用でしょう」本に書いてあるかのようにおどけた口調でいった。

 「メイナァード! いないの?」

 メイナードはつづけた。「これはいけません、母さまの声が近づいてきます。メイナードはご本を閉じて、母さまの元へゆくことにしました」

 アダルベルトは黙りこんでぼんやりとメイナードを見つめた。メイナードは彼の顎のあたりまである茶色のゆるやかな癖毛をなでて、それから蒼白い頬を包んだ。「大丈夫、アダ。すぐに戻ってくる。わたしはアダを一人にはしないよ、ああ、きっとだ」

 「あ……、あ……」

 「大丈夫。私がうそをついたことがあるかい?」

 ぼんやり開いたくちびるから声を発して、アダルベルトは首を横に振った。体の揺れが大きくなったのを、メイナードは肩に手をおいて落ち着かせた。「そう、私はうそをついたことがない。戻るといったら必ず戻る。そうだね?」

 「あ、あ……」

 「うん。では、このご本を持って待っていてね。私が戻ってきたら、つづきのページを教えて。いいね?」

 メイナードは「愛しているよ」とささやいてアダルベルトの額にくちびるをあてた。それから一つ頭をなでて立ちあがった。

 「メイナァード!」

 「はい、ただいま」

 部屋を出ると母は廊下にいた。服のふんわりとした裾を揺らして、また裾に隠れた靴をこつこつ鳴らして寄ってくる。「ああ、メイナード、なにをしていたの」

 メイナードは一礼して答えた。「アダに本を読んでいました」

 「それならそうといってちょうだいよ」

 「すみません」しかしそんなことをすれば、アダルベルトが癇癪かんしゃくを起こしかねない。はっきりと事情を説明して、きっと戻るといって聞かせないと癇癪を起こすのだ。メイナードの意識はあくまで自分に向けられていると感じていなくては気がおかしくなってしまう。


 アダルベルトに廊下での会話は聞こえていない。彼はメイナードに渡された本を胸に抱き、つい先ほどまでメイナードのいたところをぼんやりと見つめて体を大きく揺らしながら、これまでにメイナードが読んだところを暗誦あんしょうしていた。


 メイナードは父の書斎に連れられた。机に紙を散らかした皇帝の目は赤らみ、まぶたは腫れていた。

 「ああ、うん、メイナード、よくきてくれた」

 「きょうは休んだらいかがですか」

 「いや、おまえに話さなくちゃならないことがある」

 「ふむ、なんでしょう」

 「ああ。この間いったが、」皇帝は顎にしわをつくると、くちびるを噛んで二度三度と頷くように首を揺らした。音を立ててくちびるを放す。「……ジュリアスが死んだ」

 メイナードは静かに頷いた。ジュリアス・バログは父の学生時代の親友だということだった。

 「そこでなんだが……」フレディは両手で疲れた顔を拭った。「ああ、メイナード、おまえに結婚してほしい」

 「はい?」直前までの父への同情は吹き飛んでしまった。メイナードは眉を寄せて軽く両手を広げた。「なんと?」

 「ルーク・バログ、結婚してほしい」

 父がなにをいっているのかわからなかった。自分で自分を見失いそうになった。自分は男だ。男のはずだ。息子というのは、親の子どものうち、男の者を指すはずだ。子は、男と女の間に誕生する、そのはずだ。すくなくともメイナードはこの二十五年間、その理解を改める必要に迫られたことはなかった。

 「父上。私は、私は男です。あなたの息子です、そして、……そして、あなたは皇帝です」メイナードは一つ、深く呼吸した。「私は、男と結婚するのですか?」

 「そうだ」

 めまいがした。メイナードは片手で目元を覆ってうつむいた。父は旧友を見送った寂しさに気がふれてしまったのかもしれない。そうでなければ、これまでメイナードの周りを囲んでいた常識が非常識に変わってがらがらと崩れ落ちた瞬間だった。

 「ああ……ああ、父上、それではこのあとは、どうなさるおつもりですか」

 フレディは妻を呼んで促した。妻は夫の意思を受けとって息子を呼んだ。メイナードは目元にあてた手をおろした。母は髪に覆われた息子の背に手をあてた。

 「メイナード、よく聞いて。神がわたくしたちに命を授けたわ。わたくしたちの体は、神のご意志の通りにできているわ」

 「ええ、そうでしょう母上、なんの話です?」

 「あなたの結婚について。そしてあなたの疑問に対する答えよ」母は目を閉じて二度三度と頷いた。「メイナード、あなたを産んだのはわたくしじゃない」

 心臓が震えるようだった。父を見た。体が勝手に動いた。自分は正式な皇子こうしではない? それだから、婚姻を結ぶ相手はだれでもいいと?

 「違うの、メイナード。あなたはわたくしの息子、愛しい息子よ。ごめんなさい、伝え方がよくなかったわ。あなたはわたくしの子。けれどそれ以上に、フレディ・ザック・スタウトの息子なの」

 メイナードは膝に手をついて髪を掻きあげた。今にも意識がふわふわと体を抜け出しそうだった。「どういう意味です」

 「あなたは、フレディから生まれたの」


 神は世のすべてをつくたもうた。子を産む前に世を創造し、この世界に人間という子を産み落とした。子を見守る、またあやすためにありとあらゆる動植物を世に送った。

 ひとは皆、神の子である。その身は神の望む姿形をしており、そこに備わった機能もまた、神の望んだものである。

 母はいった。「わたくしは蝶のようなもの。フレディの魅力に抗えなかった。彼は花のように美しく、可憐で、そして蠱惑こわく的だった。わたくしは彼の香りに誘われた。彼はわたくしを受け入れた。花の種はここに落ちて、美しいに育ったわ、メイナード」

 父はいった。「ジュリアスの抱いていた小さなルークは、私とおなじ匂いがした」


 要はメイナードは母クラウディアの役割を、ルークは父フレディの役割を求められたわけだった。

 いや、まるで理解できなかった。男が子を産むなど、そんな話は聞いたことがない。女がどのように子を産むかは知っている。だからこそ理解できなかった。メイナードは男で、その体で子を産むことができるとは到底思えなかった。——経過も結果も神の思し召しだという。それならばいっそのこと、父がルークなる人物との婚姻は神の思し召しであるといってくれたなら、この狂気的な一連のできごとも受け入れることができたかもしれなかった。神がそのように考えるならば、神がそのように望むならば、その御心に従おうと。しかし父は一度も神の名を出さなかった。この騒動を起こした神がいるなら、それは自分自身であるとでもいうように。


 昨晩、マントを敷いて地面に横になった。靴越しに足の裏でしか知らないような地面はひどく固く、ごつごつとしていた。しばらく考えてから、体じゅうの痛みをごまかすのに、頭の後ろに腕をおいた。頭の代わりに右腕が痛くなったが、気にならないふりをした。向き合った夜空は星が美しかった。

 「花のようなひとを、見たことはあるかい」メイナードは夜空に散らばる輝きを眺めていった。

 「皇妃殿下は、花のように美しいお方でございます」右側から声がした。

 「残念、彼女は蝶なんだそうだ」

 「蝶? ええ、たしかに蝶も美しいものがあります」

 「世のなかには、自分が蝶になったような心地のする、花のようなひとがいるのだそうでね。そんな相手を、知っているかい」

 「なにか、詩でも読まれたのですか」左側から声がした。

 メイナードは星空に向けて苦笑いした。「いや、なんでもないんだ。ちょっと悪い夢を見たんだ。ああ、長い夢をね」ゆっくりと目を閉じた。ほとんど祈るような心地だった。ああ、あの瞬間から今この瞬間までがすべて、悪い夢であったなら——……。


 夜が明けた。目はめても夢は醒めなかった。寝ていたのはマントの上で、左右におなじようにして寝ていた男がいる。起こした体のあちこちがこわばっている感じがした。肩を回したり伸びをしたりしても、今一つほぐれた感じはしなかった。


 高く昇った陽がわずかに傾いたころ、一行は農作業する若い男を見つけた。

 白のシャツに深緑のつなぎを着た彼は、馬の足音を聞くと作業をとめて、ひと懐っこい目を足音の聞こえてきたほうへ向けた。深い青の服に黒っぽいマントを着け、腰に剣をさした男二人が、ごく淡い青の服に白っぽいマントを着けた男を挟んで馬にのっていた。

 メイナードは馬をおりた。農作業していた若男はメイナードよりも五センチほど小柄だった。

 メイナードはいった。「ルーク・バログという方をご存知ですか」

 若男の目から懐っこさが失われた。

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