第16話

 木船ハレは、昔遭難をしたことがある。小学生の頃。夏の山を登っていたら登山道から逸れてしまったのだ。

 木船ハレは他の女児生徒とは違って、自然が好きである。他の人は夏休みになったら大阪で買い物に行くだの何だのしているが、木船からしてみればその理由は分からない。自然は好きだけれども、大阪のような大都会は嫌いだ。


 まず大都会は人が多い。昔から人間嫌いの木船からしてみればそれだけでうんざりである。人と人が触れ合うなんて。想像をしただけで吐き気がする。

 都会の夏は暑い。気温というのは大都会と田舎とでは同じかもしれない。しかし暑さの質というのが全く違う。大都会の暑さというのは、空気が濁っている暑さである。人の吐息、車からの排ガス、その有害なものが、ギュッと一つの球に濃縮されて、それぞれが激しく擦りあわせ、摩擦が生まれ、それが熱になってみんなを襲う。そして木船は一歩、一歩と歩く度にその熱の気球に命を、死神の鎌のように降り、裂かれて、かまいたちのように肌を傷つけ、1秒、1秒と傷られている。そのような気分になる。


 また歩く度に、揮発する汗の匂いが嫌いであった。他人の汗の匂いもツンと鼻の奥にまで刺さり、体の中に残るような感じがして嫌いである。しかし一番嫌いだったのは、自分の汗の匂いである。

 自分の汗もまた、他人と同じようにツンとした匂いをしている。


 学校の誰かがカメムシを触るのを嫌っていた。その理由はその匂いが自分に移ってしまうかもしれないから。そして今の木船とそれと同じような感覚であった。自分も嫌いな人間の匂いがしてしまうのは嫌だ。


 どれほど汗を吹いても、どれほど涼しい顔をしても、太陽の下に出れば鼻つんざくような汗が出てしまう。そして周りの人間も同じように汗を出しているのを見ると、あぁ、自分も所詮は人間なのだ。そんな自己嫌悪に陥ってしまう。


 自分は周囲の人間とは違う。そう思いたかった。そう思うためには都会にいるというのは非常に邪魔なことであった。それに対して自然に囲まれた山というのは素晴らしいところであった。


 人間と違う。鳥も虫も自分の自由がままに生きている。木船はそのように自由に行きたかった。自然と同化したかった。だから山の中に行こう。そう思った。そうすれば同化出来る。そう感じたから。


 そして木船は近くにある道霊山という山を登ろうと思った。

 標高は500メートルほどと小柄な山である。しかしそこは昔から天狗が住んでいると。そして山頂には神社がありそこでその天狗を祀っている。そのようなことを聞いた。


 その当時の木船は神様がいるだなんて、そんなこと。半信半疑ではあった。しかしもし本当にいるのであれば会ってみたい。そう思った。


 そんな様々な理由があり、彼女は山を登る事にする。


 その日は冷夏であった。夏にしては汗をダラダラかくほどの暑さはなかった。と言っても、30度近くの温度になってある程度の暑さはあった。

 彼女はそこの山を登る。親切にもその山は登山道という形で、道がキチンと整備されていた。しかしその道は上に上がれば上がるほど小さくなる。そしてやがてその道は消えて無くなってしまった。


 おかしい。木船はそう思う。


 道ではなく木と木の合間を歩いている。流石にこれが正規のルートではない。そう思った木船は折り返そうと思った。そして元来た道へ戻った。いや、戻ったつもりである。しかしその道はやがて険しくなってしまい、斜面が30度ぐらい傾いてしまっていた。木の枝を持たないと前に進めないぐらいの道になっていた。


(遭難した)


 その事に、木船は気づいた。


 後ろも前も、右も、左も、木しかなかった。道などある気配がなかった。

 そして、やがて。彼女は足を踏み外した。坂道から滑り落ちてしまった。


 幸い、坂道から落ちた距離というのは数メートルであった。しかし足は擦りむいてしまい、鮮血がポタポタと落ち葉の上にこぼれてしまう。


(痛っ)


 立ちあがろうとしても、足から激しい痛みが走る。そのせいで立ち上がることが出来ない。


 もうこの山から抜け出すことはできないかもしれない。そう思った。しかし案外、木船は冷静である。恐怖とかそう言ったものはある。あるのだけれども。これで自然と同化出来る。そのような気持ちもあった。


 視界も虚になっている。意識が段々朦朧としてくる。


 と、その時であった。

 ガサガサと草むらから生き物が歩く音が聞こえる。


(熊か? 狼か?)


 このような自然の中だ。それぐらいの猛獣が一匹ぐらいいてもおかしくはない。

 木船はゴクリと喉を鳴らしながら、その木の奥の方に目をやる。

 そして……


 一匹の狐が姿を現した。


(狐?)


 それもこんな山奥にどうして。そう木船は思った。

 そしてその狐はペタンと木船の前に腰をかけた。木船と目が合う。


 彼女はポケットの中から、飴玉を一つ取り出した。そしてそれを狐に与えた。


(狐は飴玉を食べるのかな)


 そもそも、こんなものを食べたところで狐の空腹を満たすことが出来るのだろうか。そのような疑問もあった。だけれどもこの狐もきっとお腹すいている。何となくそんな気がする。


 が。


「アホか。こんなもの。食べたところでお腹は満たされないだろ」


 とその狐は喋った。


(これは夢……?)


 と自分の耳を疑ってしまった。


「まぁ、与えられたものを拒否するのはあれだからな。いいだろう受け取ってやろう」


 バシン。少女の手を叩くようにその狐は飴玉を手に取った。そして袋を開ける。


「うわっ、溶けてやがる。こんなものを神に渡そうとするなよ」


(今、神って言った?)


 となるとこの狐。神様ということであろう。しかしその神様がどうしてこんな場所に。


「全く。こんな神聖な場所で血など汚れたものを落としやがって。神道では血は穢れの一種だから忌み嫌うものだと。と言っても俺は別に神道の神じゃないからいいけれど」


 さらに草むらからガサガサと音が聞こえる。

 そうして、そこからオオカミが四匹。出てくる。


 そしてガルガルと彼女を威嚇している。


「あらら、機嫌悪いこと。なぁ、そこの少女よ。知っているか」


「な、何をですか」


「狐と狼は非常に相性が悪いということを」


「知らないですよ」


「そっか。元々狐の天敵って狼だからね。狼からしたら狐の肉は牛肉のように美味しいらしい」


「美味しいらしいって」


「うん。だからあの狐たちも多分俺の肉を食べようとしていると思う。ほら、涎を垂らしてこっちに来やがるぞ」


 と、その狐は一歩、一歩と彼女の元へ近づいてくる。


「いや、ウゼェな」


「ウゼェなって。早く何とかしないとこのままでは」


 その狼。木船とも視界があってしまった。目をギラギラと光らせている。


「ねえ、本当に早く何とかしないと。この状況。2人ものとも死んでしまうよ」


「まぁ、そう簡単に慌てなさんな」


 そして一匹の狼が少女に飛びかかる。と思ったら、その途中。急に狼がその場に倒れた。そのまま狼は動かなくなった。


「これは……」


「何、調伏をしただけさ。もう狼の体は俺のものさ」


 そしてその狼は一匹、また一匹と森の中へ帰っていった。


「これは……?」


「別に。ただ狼を調伏させただけだよ」


「調伏……?」


「まぁ、そこら辺の言葉難しいよな。お嬢とかと違って理解中々出来ないだろうな。それでお前、動けるか」


 木船は驚いた。先ほどまで痛みがあった足が自由に動くようになっていた。


「動く」


「そっか。それはよかった」


 そしてその狐は木船の肩に乗る。


「まずそこを左だ」


「左?」


「そうだ。俺様も頂上に用事がある。連れて行け」


 彼女はこの狐のいう通り、左へ進む事にした。


 その後もこの狐のいう通りに進む。すると鳥居が見えてきた。その鳥居でお辞儀を彼女はした。


「そんなのどうでもいいから」


「どうでもいいって……ここで一礼しなければ神様の失敬です」


「だからその神様がそんなのどうでもいいって言っているだろ」


「はぁ何を……」


 と言った瞬間、狐を肩から下ろす。そして一歩後退りをしてそのまま土下座をした。


「だからそんなの畏まるな。別にいいと言っている」


「でも……」


「それに神様だったという話は数年以上も前の話だ。今はただの獣だ」


「いや、でも神様だった時期が」


「あった。あったけれども今は誰も俺が神だったこと覚えていねえ。どちらかと言えば妖怪だ」


「妖怪……ですか」


「そっそ。柳田國男の妖怪談義を参考にすると俺は神を零落した妖怪という事になる。だけれどもな残念なことに俺は死にはしねぇ」


「それはどうしてですか」


「あんたみたいに俺を信じてくれている奴がいるからさ。1人でもいれば俺は生きていける」


「もし、信仰を失ったらどうなるのですか?」


「さぁな。その時は俺は死ぬ。いや、死ぬよりももっと恐ろしい。最初からいなかった事にされるかもな」


「そんな……」


「だからさ。お前だけはさ。俺のことを信じてよ」


「うん」


「それじゃ、俺はここでさらばだ。ありがとうな」


「あっ、ちょっと」


 そう言っている間に狐は彼女の目の前から姿を消してしまった。そしてその場で一人ぼっちになってしまった彼女。


(あの神様のこと……忘れないようにしなければ)


 そう思うのであった。

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