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磯瀬駅のひとつしかない改札口を出ると、そこは鄙びた田舎の駅前で、海は見えないものの、きつい潮の香がした。携帯電話で山茶花隆道に電話を入れると、迎えに来るというので待つこと15分、隆道は黒のメルセデスベンツCクラスセダンで現れた。田舎町で乗り回すにはおそろしく不釣り合いだが、おそらく休みの日は東京湾アクアラインを快適に走らせ都会に遠出しているのだろう。
隆道は車から降りずに、窓ガラスだけ開けて、
「遠路はるばるありがとうございます。さあ、どうぞ、お乗りください」
お言葉に甘えて、車に乗り込む。荷物は膝の上に。ベンツは音もなくすーっと滑るように走り出す。
センターラインのない狭い坂道なのに、隆道はかなりスピードを出して、ちょっとしたスリルだった。おもむろに隆信が言った。「目の前に山が見えますよね?」
切り立った灰褐色の山壁の上に緑が疎らに生い茂った山だった。
「はい」
「あれが台場山です」
「ああ」
隆道の母親・千鶴はあの山の展望台から転落した。展望台がどこにあるかは、ここからはわからないが、あの高さなら遺体の損傷はさぞかし激しかったことだろう。
「そして、あれがうちの病院です」
ベージュ色の外壁が落ち着いた雰囲気を醸し出す鉄筋コンクリート4階建ての建物で、壁面に大きく「さんさか病院」という文字とロゴが書かれてある。病床数が248というから中規模の病院だ。
病院を通り過ぎて約4、5分。
「着きました」
中庭にケヤキの植えられた瀟洒な2階建ての洋館。僕もいつかこんな屋敷で暮らしてみたいが、まあ、それは叶わぬ夢だろう。
隆道は車の中からリモコンでゲートを開け、バックで車庫入れした。隆道の後について屋敷に入ると、
「まあ、ようこそ、おいでくださいました」
鈴を転がすような声で出迎えたのは隆道の妻・紀美江、30歳。ヤングミセス向け女性雑誌の読者モデルかと見紛うほど美しいのは当然で、女子大生の時にミスコンに選ばれ、卒業後、モデル事務所に所属していたこともある。モデルとして成功することはなかったが、友人の紹介で隆道と知り合い、約5ヶ月の交際期間を経て、結婚したらしい。二人の間に子供はまだいない。
奥から、割烹着姿の年配の女性も出てきた。隆道の母・千鶴の姉である巌谷千種。年齢は66歳。千種と千鶴は姉妹でさんさか病院で看護婦をしていた。その時、隆道の父で病院の創業者の保輔が千鶴を見初めて妻にしたわけだが、二人が結婚した後も、さらに、千鶴が事故死した後も、千草は看護婦の仕事を続けた。そして昨年、看護婦を辞め、新たに住み込みの家政婦として山茶花家で暮らしていた。
千種は僕にぎこちなくお辞儀した後、隆道に「彼女、どうですか?」と訊いた。彼女、というのはおそらく真倉弓子のことだ。
「変わりないですねえ」
「そうですか」
千種が生まれ変わりを信じているのどうかわからないが、少なくとも真倉弓子の病状を案じているようだ。
一方、紀美江は真倉弓子のことなどまったく気にかけず、僕に「越智さんはお魚、お好きかしら?」と尋ねた。
「はい。大好きです」
と僕が答えると、
「まあ。良かった」とモデル時代に鍛えた明るい笑顔で応えた。「この町はなんにもない町ですが、海の幸だけは豊富なんですよ」
「そうですか」
「お口に合えばよろしいんですが」
と紀美江が言っている横で、千種は奥に引っ込んだ。おそらく、僕の訪問で休止していた魚の調理を再開するためだろう。
あてがわれた離れの客間で横になっていると、千種が夕食のご用意できました、と呼びに来る。
夕食は母屋の一階のLDKで既に全員着席していた。隆道が僕を紹介し、次に父親の保輔と病院事務長の鳥飼を紹介した。二人は高校の同級生で同い齢。63歳。保輔の顔が四角いのに対して、鳥飼は面長で、髪型はまるで黒マジックで直接頭皮に描いたような短髪ショート(おそらく長さを約30ミリ均等にしているのだろう)だった。
海の幸だから刺し身とか天麩羅とか和食を予想していたのだが、ブイヤベースがメインディッシュの洋食だった。料理の合間に、
「お兄さんはいまどちらにお住まいですか?」
と保輔から訊かれた。
「スウェーデンです」と僕が答えると、向かいの席にいた隆道の片眉がびくっと上がった。いもしない兄のことを訊かれたら適当にごまかす、という取り決めをしてはいたのだが、スウェーデンは予想外だったようだ。
「で、あなたはいま何を?」
「フリーターです」
これはまあ、まるっきりの出鱈目というわけではない。若月さんの事務所に勤める前はフリーターでコンビニのバイトをやっていた。
食後酒のグラッパを飲んでいると、鳥飼が弓子のことを話しだした。「彼女、アールグレイのミルクティーが好物なんだそうですよ」
「うそ」と千種が驚いた。保輔は無反応。
「それがどうかしたんですか?」わけがわからない紀美江がきょとんとした顔で尋ねると、
「千鶴さんもそうだったんですよ」と鳥飼は意味深にニヤニヤ笑いながら答えた。「観察してると、ちょっとした仕草もそっくりで――」
「やめてちょうだい。気味が悪い」千種が眉毛を八の字にして訴えた。
鳥飼はからかうようにほくそ笑んで、「おや、千種さんはこういう話、お嫌いですか?」
「ええ、嫌いです」
千種はぴしゃりとそう言ってから、憤然と席を立ち、部屋から出ていった。
「嫌いかあ。僕は興味があるんだけどなあ」それから鳥飼は僕の顔を見て、「あなたはいかがですか?」
「まあ、そこそこ興味あります」本当はそうでもないのだが、そう言えば鳥飼はぺらぺら喋るだろう。そこから何か情報が得られるかもしれないし、鳥飼という人間がどういう人間かもわかるかもしれない、と考えた。「でも、生まれ変わりって本当にあるもんでしょうか?」
「それなんですがね――いえ、私はそれまで生まれ変わりなんてちっとも信じてなかったんですが、今度の件があっていろいろ調べてみたんです。すると、まあ、あるもんですなあ。聖徳太子にダライ・ラマ、あ、八犬伝もそうですな」
「ジャンヌ・ダルクもそうじゃなかったかしら?」と横から紀美江も口を出した。
「ああ、そうかもしれません。あと、天草四郎も」
念の為、シャンティ・デヴィとか勝五郎とか輪廻転生の予習をしてきたが、二人の輪廻転生の知識は生半可で、その必要もなかったようだ。僕は口を挟まず、二人に好き勝手に喋らせることにした。
その間、保輔はずっと黙りこくっていた。何を考えているのかよくわからない。無表情なのは患者に余計な詮索をされたくない医者ならではのスキルなのだろう。
離れに戻って携帯電話のメールを開くと、若月さんから、26年前に起きた転落事故の刑事記録のあらましが届いていた。在宅勤務スタッフの秋庭くんが入手した、と書いてあるが、この秋庭くんに僕は一度も会ったことがない。実在するのかどうかも怪しいところだ。実は若月さんの警察庁時代の同僚か後輩から手に入れたのではないかと疑っている。
先に読んでいた新聞記事には、山茶花千鶴が展望台から墜落して死亡したという事実と、事件性はないという警察の判断しか書かれてていなかったが、刑事記録には。事故状況の詳細が記された実況見分調書と、目撃者を含む関係者の供述調書が含まれていた。
供述調書によれば、事故当時、山茶花保輔は展望台の真下の登山道を歩いていた。上から小石がパラパラと落ちてきたので、落石が来ると思って、慌てて身を避けると、千鶴が落ちてきたらしい。供述調書には書かれてないが、大量の血飛沫を浴びたことだろう。千鶴に自殺の兆候がなかったかという質問には、まったくなかった、と答えている。二人の結婚生活は順風満帆で自殺する理由は何もない、と。もちろん順風満帆というのは保輔の主観で、千鶴にしかわからない悩みがあったのかもしれない。千鶴はその時、36歳。夫との性の悩み、育児、あるいは若年性更年期障害が可能性として挙げられる(もちろん自殺なら、だ)。調書には書かれてないが、妻の死後、保輔に再婚の話がいくつかあったらしい。しかし保輔はそれを固辞。今日まで独身を貫いている。
次に巌谷千種。姉が見た妹の千鶴は何かに悩んでいるように見えたという。看護婦としての経験から、カウンセリング、あるいは診察を薦めたかったが、精神科医の妻が夫以外の精神科の病院を受診するのは体裁が悪いと諦めた。
鳥飼はきっぱり自殺の可能性を否定している。病院事務長として、精神科医の妻が自殺したという悪評を防ぎたかったのかもしれない。千鶴が生まれ変わりを信じていたことを話さなかったのも同様の理由からだろう。(これについては保輔も千種も誰も触れていない)
驚いたことに、幼い隆道の供述もあった。隆道は怖いので展望台の突端まで行けず、少し離れたところから母親を見ていたら、誰だかわからないが、黒い人影が走ってきて、母親を展望台から突き飛ばした――というのだ。なんともショッキングな供述だが、警察は子どもの見間違いだろうと取り合わなかった。
刑事記録を読み終えてから、僕は若月さんに電話した。
「隆道さんの供述には驚きました。そんなこと何も言ってませんでしたよね?」
「うん、言ってなかった」と若月さんは答えた。
「隠していたんでしょうか?」
「ぼくに訊くより、本人に訊きたまえ」
「そうします」
「ところで実際に関係者に会ってみて、どう思った?」
「千種さんは怖がっています。生まれ変わりとかオカルト系の話が苦手なようです。でも、真倉弓子のことは気にしてます」
「うんうん」
「その怖がっているのを、鳥飼事務長はおちょくってました。性格でしょうか、真倉弓子について、皆がどう反応するかを愉しんでいるようです。生まれ変わりについて御託を並べてましたが、いや、ひどいもんでした」
「どういうふうに?」
「天草四郎が生まれ変わりだって言うんです」
「まあ、中世のキリスト教反乱者にはそういう黒魔術的イメージがつくよねえ。ジャンヌ・ダルクの協力者ジル・ド・レもそうだ。まあジルは実際に黒魔術をやってたがね」
ジャンヌ・ダルクの名が出てきたのにびっくりした。紀美江はそれを知ってて名を挙げたのだろうか?
「で、他の人は?」
「紀美江さんはあまり関心がなさそうでした」
「だろうねえ」
「保輔さんは……わかりません。無表情で無反応を貫いてました」
「そうか」
「で、次は何をしましょう?」
「何をしたらいいと思う?」と若月さんは質問に質問で答えた。
「そうですね。まず隆道さんに事故当時のことを訊いてみます。ついでに真倉弓子に会えないかどうか。あと、事故現場の展望台も見ておきたいですね」
「すばらしい!」若月さんは声を上げた。「すばらしいね、越智くん。ぼくから指示することは何もない。その調子でどんどん調査を進めてくれたまえ」
若月さんに褒められて、面映い気持ちがした。
「わかりました。じゃあ――」
電話を切ろうとしたら、「あ、そうそう――」若月さんが言った。「ついででいいんだが、千鶴さんがどうして生まれ変わりを信じるようになったのか。そのきっかけがあればそれは何なのか、を調べて欲しいんだ」
「いいですよ」僕は快諾した。
「じゃあ、頼んだよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
僕は電話を切った。
(つづく)
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