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翌朝、出勤前の隆道に事故当時の供述について訊いてみたら、
「え、私、そんなこと言ったんですか……」隆道は当惑した顔をした。「すいません、まったく覚えてません」
と言ってから、しばらく考え込んで、
「そういえば、その時、自分がどこにいたのかも覚えてないです。覚えてるのは、遺体安置所で母の冷たくなった遺体を見て、わんわん泣いてたことですね……」
「それはどうしてでしょう。健忘症? それとも記憶障害? あなたのご専門ですよね」
「そうなんですが……」隆道はハンカチを出して額に吹き出た汗を拭って、「もしぼくがその時警察に語ったことが真実で、その後、それを忘れてしまったのだとしたら、それは無意識の防衛機制だと考えられます。また逆に、ぼくが警察に嘘の証言をしたのだとしたら、それもまた自己防衛のためかと思われます。あるいは、尋問にあたった刑事の誘導に乗ったのか……いずれにせよ、今となっては、どちらが正しいのかは私にもわかりません」
「そうですか」
隆道はハンカチをポケットにしまって、
「そうそう、真倉弓子にお会いますか?」
「できれば」
「だったらセッティングしますよ。お昼過ぎに病院まで来て下さい」
「はい」
千鶴がどうして生まれ変わりを信じるようになったか、そのきっかけは何か――という若月さんからの宿題を果たすため、千種に訊いてみると、千種は不愉快そうに顔を顰めた。
「妹が生まれ変わりを信じてたって、誰がそんなこと言ったんですか?」
「鳥飼さんです」僕はしゃあしゃあと嘘をついた。
「何考えてるのかしら、あの人……」
もたもたしてると嘘がばれる恐れもあるので、僕は速やかに次の質問をした。
「子供の時からですか?」
「いいえ、とんでもない。結婚してからです。それも、亡くなる一年前くらいだったかしら?」
「きっかけは何ですか?」
「それはよく覚えています。保輔さんと一緒に東京まで歌舞伎を観に行った後です。帰って来てから、ああ、私も生まれ変わりたい、なんてこぼしたもので、どうしたの?って尋ねましたら、歌舞伎がそういうおはなしだったようで……。妹も最初は軽い気持ちで言ってたようなんですが、だんだんとのめりこんでいって、しまいにはどこかの霊能者から高価な生まれ変わりアイテムを買うようになって、私はそういうの止めたほうがいいって何度も注意したんですけどきいてはくれず……」
「そうですか。すいませんでした。辛いこと思い出せてしまって」
「いいえ」
僕は離れに戻ると早速、若月さんに千種から得た情報を知らせた。
「その歌舞伎の演目が何か気になりますね」
と僕が言うと、
「亡くなる一年前で、場所は東京だよね。秋庭くんに調べてもらおう」
と若月さんが言って、連絡は終わった。
午後までまだだいぶ時間があったので、台場山の展望台を見に行くことにした。
山をぐるりと回り込むように頂上まで続く登山道は舗装されていて、車で登ることもできるが、車がないので歩いて山に登った。片道20分、ちょっとした運動になった。途中、道に蛇の抜け殻が落ちていたのを見つけた。縁起がいいとは聞いてはいるが拾わなかった。
頂上に到着した。戦争中、そこにあった大砲は疾うの昔に撤去されていて、その跡地にアルミで出来た写真入りの史跡表示板が飾られてあった。切り立った崖の上にある展望台の突端に設置された高さ110センチの木製の高欄は、千鶴が転落する前からあったものだ。見晴らしが良く、東京湾がきらきら輝いていた。高欄から真下を覗くのはかなり勇気が要った。そこにはさっき登ってきた登山道があった。僕には自殺願望はないが、飛び降りてみたい誘惑に駆られた。墜落する千鶴の目にはたして保輔の姿は見えていたのであろうか?
さんさか病院に着く手前で、隆道に電話を入れた。
「いま庭でひなたぼっこをしています」と隆道は告げた。「薄いピンクの患者衣を着ています。場所は――」
「お母様と瓜二つなんですよ。だったらわかると思います」
「よろしくお願い致します」
緑の芝生が敷き詰められ病院の中庭には木製のベンチが3つあり、その真中に真倉弓子ひとりで腰掛けていた。
真倉弓子がどういう人物なのかは、秋庭さんの調査でわかっている。東京生まれで、中堅企業のサラリーマンの父、専業主婦の母、三歳下の弟がいる家庭で育った。学業優秀で高校時代には生徒会長も勤めるほど。大学卒業後は、東京の広告関連業の会社に就職したが、半年前に会社が倒産して、現在はフリーターをしている。とはいえ、自宅通いで、おしゃれ・グルメ・旅行への関心は薄く、ましてやギャンブル、ホストクラブとはまったく無縁で、金には困っていないようだ。
僕は真倉弓子に近づいて笑顔で話しかけた。
「お具合よろしそうですね」
「……え?」
「入院してらっしゃるんですよね?」
「あ、はい。あなたもですか?」
「いや、僕はお見舞いです」
「どなたの?」
「親戚です」
「ご病気は? ……って訊いたら失礼ですよね?」
「いいえ。アルコール依存症です」嘘ではない。以前、叔父さんがそれで入院して、見舞いに行ったこともある。もちろん、違う病院だが。「あなたは? と訊いたら失礼ですか?」
「わたしは……その、わたしは覚えてないんですが、なんでも知らないお宅にあがりこんで、気絶してしまったらしく、その原因を調べるため、入院しています」
「そうなんですか」と僕は親身になった風に言って、「ところで隣に座ってもかまいませんか?」と訊いた。
「はい、どうぞ」隣にはたっぷり余裕があったのに、真倉弓子はわざわざ席を詰めてくれた。僕はベンチに腰をおろして、「木のベンチは暖かくていいですねえ」
「そうですね」と真倉弓子はぎこちなく肯いた。
しばらく何も言わなかった。可笑しな男と一緒にいるのに彼女がいたたまれなくなって、何か言うのを期待したのだった。
「あのぉ」真倉弓子が沈黙を破った。「あなたは生まれ変わりって信じられますか?」
僕を嫌って、病室に戻ります、と言われてもおかしくなかったのが、絶好の展開になった。
「生まれ変わりですか。興味はありますが、信じてるわけではないですね。あなたは?」
「信じてません。信じていませんが、病院のある人が言うんです。私がこの病院の前・院長の亡くなった奥様にそっくりだって……」
鳥飼さんだな、と僕は推理した。保輔と隆道でないとしたら鳥飼しかいないという簡単な消去法だ。
「実は私が気を失った家がその方の自宅なんだそうです」
「それは不思議だ!」僕はわざと大きな声で驚いたふりをした。「これまで生まれ変わりなんて信じてなかったけど、信じざるをえませんね」
「はい……」
「でも、どうして生まれ変わったんだろう?」
「え?」
「その前・院長の奥さんがですよ。死んでからあなたに生まれ変わったのは成仏できないからなのかな? それとも誰かに何かを伝えたいからかな?」
「……そのどちらもだと思います。死んだ時、きっと何かがあったんですわ」
真倉弓子はそう言って、席を立つと、「時間ですので失礼します」と頭を下げて病院の中に入っていった。
僕はひとりになって、若月さんに電話をした。
「真倉弓子と直接会って話をしました」
「どうだった?」
「真面目な人ですね。演技してるようには見えませんでした」
「うまい俳優は演技してるようには見えないさ」
「でも、硬さは見えました。一生懸命演じようとして力んでいるのかな」
「プロの俳優でない彼女が必死に役を演じようとするのは、もしかしたら、金目的じゃないのかもしれないね。お金以外の、もっと切実で、抜き差しならない理由からかも」
「同感です」
「そうそう。千鶴さんが亡くなる一年前に見たという歌舞伎の演目がわかったよ」
秋庭さんの調べの速いのにはいつもながら舌を巻く。
「何でした?」
「『曽根崎心中』だ。もちろん知ってるよね?」
「はい」
『曽根崎心中』は実話を基にした近松門左衛門の作品。元々は浄瑠璃だが、歌舞伎として盛んに上演されている。遊女お初と平野屋の手代徳兵衛は深く愛し合ったが、現世で結ばれることが叶わないので、生まれ変わって来世で結ばれようと心中する――という筋だ。
「千鶴さんはそれを見て、生まれ変わりたいと言い出したんですか? というと、もしかして千鶴さんには、夫である保輔さん以外に好きな人がいたってことですかね?」
「その可能性は高いね」
「でも心中はふつう二人以上でするもので、独りだと心中にはなりませんね」
「うん、ならないね」
「独りだと自殺か……」
「まあ結論は急がず、この調子で調査を進めてくれたまえ」
「了解しました。じゃあ」
僕は電話を切った。
(つづく)
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