第19話

 鬼の持つ力のひとつだ。私生活で不便になる程の筋肉を有する鬼は、文化的な生活に適応するために身体を萎める術を会得した。それを解き放てば体躯は二倍近くに膨れ上がる。

 そんな強大な握り拳は俺の手のひらより大きく、受け止めるには無茶なことだろう。

 腕の太さで言えば四倍程か。筋肉量というのは押し合いにおいて絶対的な差を生み出す。そうとなれば、筋肉の塊といえる鬼に純粋な筋力勝負で勝てる種族はまずいない。居たとするなら人智から少し離れた生物ぐらいだ。

 迫りくる拳を後ろに跳んで回避する。空ぶった拳は強風を起こし、家具に被害を出した。


「流石に壊しすぎだ」


「撤退だ! 第一の目標を果たせアスター!」


 作られた隙を縫われ、アスターと呼ばれた天使が涼を連れて家の外へ出てしまった。島外に逃げられるのは少し面倒。早めにユキを起こすか。


「――《赩湍の装かくせんのそう》」


 掌で練り上げた血液を握り締める。指の隙間から溢れていった血液は拳に纏わる。ただ纏わりついたわけではなく渦巻き、湍くはやく巡り、水圧カッターのように敵を削り斬るガントレットとなる。


「出直してこい」


 渾身の一撃のつもりなのか、大振りの一撃が繰り出される。細かに打った連撃ですら避けられているのに、どうしてそんな大振りを振るうのだろうか。

 回転をかけた回避で勢いをつけ、大振りの一撃で空いた隙にカウンターを一発。常人がこれをしても、別に大した一撃にならないだろうが、残念ながら純粋な人間ではないもので。腹に拳が沈んでいく。《防御術式》の上から《赩湍の装かくせんのそう》が削るように腹を抉っていく。即座に傷は入らないのだが少しずつ、確実に傷は付き拳は沈んでいく。


「後、トレーニングもだ」


 抉りとれず拳は貫通することはないが、衝撃に耐えかねた郷羅の巨躯は宙へ浮き、壁まで飛んでいく。それでも尚、立ち上がろうとする郷羅の首に蹴りをひとつ。そして、巨躯はようやく床に沈んだ。


「人類相手で満足するなら、そのままで十分だとは思うがな」


 動きを止めた郷羅を置いてユキの元に歩いていく。家具は殆ど壊れた。バカが好き勝手に拳を振るうもんで。


「ユキ、いつまで寝てんだ」


 まだ意識が戻りきっていないユキに近寄ってやれば軽く頭をひっぱたく。長いまつ毛が揺れて震えた瞼が開いていく。翠色の瞳が状況を把握するために辺りを見渡した後、すぐに俺の方を見た。


「ほら、外に逃げていったから追いに行け」


「っ、ごめんなさい。急ぎます」


 扉を出ていった後に、その後ろ姿は消えた。ユキは瞬間的な速度だけでいえば俺についてこれる奴だ。人を抱えて飛ぶ天使ぐらいになら追いつけるだろう。

 ――さて、それはそうとどうしようか。少し遊びすぎた。樫野は帰していいが、涼は取り戻さねぇと。

 ユキが行ったしわざわざ手を出すのはやはり面倒だが、ユキがあれに勝てるとは限らない。無理とは思わないがそこそこの苦戦をするだろう。だからひとつ、手助けをしてあげることにする。ユキならそれだけで十分だろう。


「飛閃しろ――《虚鳥からどり》」


 手を払うと同時に太刀筋を象った血液が飛翔する。それは、大空を羽ばたく鳥のように目標目掛け、飛んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る