第10話

 頼んで淹れて貰ったアイスコーヒーを啜り、チョコレートを口に入れる。悩みは一旦、脳の端に追いやって、できるだけ何も考えないようにする。時々、氷華さんがお茶のお替りと追加のチョコレートを並べてくれる。

 申し訳なくて断ったりしたけど、数回続けたところで僕は諦めて、今はその待遇を受けている。なんだかVIPにでもなった気分だ。


 「ダメ人間になりそう」


 うん。とてもダメな気がする。ソファに寝転がっているだけで、チョコレートとアイスコーヒーがずーっと出てくる。

 頑張ってきた人間がいきなりダメになるって話はよく聞いてきたけど、そんなわけないと思ってきた。続けた努力がなくなることはないと思ってた。

 でもダメだ。頑張らなくても、こんな好待遇。頑張る気力、無くなっちゃう。


 そんなこんなで、だらけていた僕の前に人影が見えた。朝比奈さんと同じように、階段から顔を出したのは黒髪の少女だった。


「あ、初めまして」

 

 反射的に出てしまった声に僕は後悔した。あまりにも好待遇を受けていたもので、どうにも浮かれていた。目の前の少女は驚いたように目を丸くしていた。


「こ、こんばんわ」


 おずおずと声を出し、挨拶を交わしてくれる。

 その子は見た目こそ大人びた雰囲気があるが、おどおどとした態度からはそこはかとなく幼いイメージが沸いてしまう。

 それよりも、してしまった挨拶をここで終わらせる訳にはいかなくて、何度目になるか分からない挨拶をすることにした。


「初めまして、秋月涼っていいます」


「は、初めまして。宮瀬 夢羽みやせ ゆめはです」


 自己紹介を何度も繰り返すなんてまるで新卒の社会人みたいだ。なんて変な考えが頭に浮かぶ。新卒の社会人がどんなものか知らないけど。


「あ、あの……?」


 おずおずと声を上げた宮瀬さんは、困ったような瞳で僕を見ていた。

 宮瀬さんの自己紹介に対して、しっかりとした返答をしてなかったから、宮瀬さんは離れて行っていいかわからなかったのだろう。


「あ、えと。ごめんなさい。ちょっと考え事してて」


「大丈夫、ですよ」


 宮瀬さんは笑顔を見せてくれた。ぎこちないようにも、作ったかのようにも見える様な笑顔だけど。


「ちょっとだけ、待ってて、くださいね」


 足音は静かなまま、キッチンの方へ足早に向かって行った。

 

 ◆


「あ、えと。食べ、ますか?」

 

 宮瀬さんは腕の中に大量のチョコレートを抱えて戻ってきた。さっきまで僕のところに運ばれていたチョコレートだ。


「えっと、一緒に食べませんか?」


「いい、ですよ」


 少し考えたようだけど、チョコレートは抱えたまま僕の斜め前の椅子に座った。

 テーブルの上に宮瀬さんの抱えていたチョコレートの袋が置かれる。空いた袋の口が僕の方に向けられていた。

 さっきまで宮瀬さんは氷華さんのところに行っていたのは知ってる。できるだけ話の内容は聞かないようにしていた。プライバシーとかある気がするから。もしかしたら、その話の中で僕がこのチョコレートを好きでずっと食べているから持って行ってあげて欲しいだなんて言われたのかもしれない。


「宮瀬さんも食べたらどうですか?」


「う、ううん。私はもう出てるの食べるから、袋のは食べていいからね」


 そう言って、宮瀬さんは僕向けに氷華さんが置いて行った方のチョコレートを手に取った。もしかしたら、本当に食いしん坊だと思われているのかもしれない。

 包装を解いてチョコレートを口に運んでいく様子を僕は意味もなく眺めていた。少し気まずそうにしながらも口を開いた宮瀬さん。ここでようやく、僕がしていることを客観的に考えることが出来て、急いで視線を逸らそうとした。

 だけど、それより先に僕の視線を動かす出来事が起きた。宮瀬さんの手が上にあがっていった。チョコレートは宮瀬さんの頭上を通って、別の人の口に入っていった。

 

「ん……おかえり、夢羽」


 その口の主は篠原さんだった。いつの間にか、いや。最初からここにいたかのように、篠原さんはそこにいた。



 僕にもわかるような声音の変化。明らかに宮瀬さんに対してだけより優しくなっている。僕らに掛ける声音も優しいが、ここに来る時、港で掛けられた声音に比べれば、宮瀬さんに向けられたものは格段に優しく聞こえる。

 ……それよりも宮瀬さん、すごく驚いてる。チョコレートを運ばされた手が行き場を失ったようにあっちに行ったりこっちに行ったりしてる。いきなり手を取られたら驚くよね。僕も驚いたし。


「なぁ、涼」


「ッは、はい!!」


 急な呼びかけに思わず大きな声で返事をしてしまう。宮瀬さんが驚いたのが分かる。ぴくっと跳ねた宮瀬さんに視線を落とした後、篠原さんは瞼を僅かに上げた後、可笑しそうに苦笑を漏らす。


「楽しいか?」


 いつも通りなのか嫌がる様子もなく、大人しくしている宮瀬さんの頭を撫でだす篠原さんは僕に問いかけた。


「……楽しいですよ」


「それはよかった」


 少し間が空いてしまったが、これは本心だった。でもそれはきっとここに居ることが楽しいんじゃなくて、人と関わることが楽しいのだ。それを知ってか知らずか、いや、どっちでも同じようにしてくれるんだろうけど、篠原さんは目を細めてで答えてくれた。


「それよりも、忘れていたことがあってな。連絡先ねぇなって」


「あ、えっと……スマホ、持って来てなくって」


 スマホなんて持って来ていたら電話がかかってき続けるだろうし、位置情報なんて見られたらすぐに見つかってしまうからスマホは持って来てない。ここに来るまではメモ帳に道のりを書いてきたぐらいだ。


「ああ、そうか。じゃあこっちで用意しておく。明日には渡してやるよ」


「えっと、ありがとうございます」


 僕が頭を軽く下げたのを見て、篠原さんは宮瀬さんを軽々と持ち上げた。両脇に手を差し込まれて、猫を持ち上げるように。


「じゃ、これからもゆっくりしていけよ」


「普通に立たせてよ……」


 上げられるまでは大人しくしていた宮瀬さんは、篠原さんの手から逃れて階段の方に行ってしまった。


「……涼、好きな色は?」


「あ、青色です」


「ん。わかったよ」


 僕に好きな色だけを聞いて篠原さんは、ひらひらと手を振って行く。その奥で宮瀬さんも僕に向けて手を振っていたが、すぐに篠原さんの背中で隠れてしまっていた。

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