第17話 イタリアンレストラン

 イタリアンレストランに入り、対面の椅子に座るということで手を離した俺は、椅子に座るや否や湿った手をズボンで拭う。

 そして相変わらず頬が赤い中越を見やれば、首筋に伝う水滴をハンカチで拭っていた。


 まだ梅雨にも入っていない5月の初め。それなのにもかかわらず、俺の背中からはダラダラと汗が流れ、収まることのない鼓動が身体を熱くする。


 どことなく気まずい空気だけが俺達の間には流れ、けれど目をそらすことの出来ない俺はジッと中越の瞳を見つめ続ける。


 というのも、何故かこいつが目をそらさないのだ。

 なにを思っているのかは知らんが、赤くなった頬を吊り上げて笑みを向けてくる。

 そんな姿を見てれば自ずと俺も目をそらす気もなくなる……というか、そらして良いものなのか分からなくなってしまった。


 だからこうして目を合わせているのだが……そろそろちゃんとメニュー表を見ないとな。

 なんてことを思いながら長く瞬きをした俺は、スッとメニュー表を手に取る。


「色々あるけど、なに食べる?」


 俺はなにも気にしていないぞとアピールをするために、ごく自然体を演じながら中越に問いかける。

 さすれば中越も、気にしてませんよと言いたげにメニュー表に目を向けた。


「やっぱりイタリアンと言えばパスタよね」

「だな」


 いつものように、ショッピングモールでの会話のように、自然な言葉たちが俺達の間を飛び交う。


 暗殺者たるもの、こんなのでは動揺してはいけない。

 いやまぁその心得を全うするには少し遅すぎる気もするが、過去は過去。今は今だ。

 いい経験になったと考えればいいだろう。


 頭の中で肯定するように頷く俺は、先ほどの出来事を抹消するかのように、ペラペラとメニュー表を捲りながら言葉を紡ぐ。


「んにしても良い買い物できたんじゃないか?」

「おかげさまでね〜」


 コイツ自身、俺に服も買ってくれ、手を繋いだから相当機嫌がいいのだろう。

 隣の席に立てかけた紙袋を、まるで我が子のようにポンポンと優しく叩く中越ははにかんで言ってくる。


 俺自身としてはなにも嬉しくないのだが、中越が最後の日を満喫できたのならひとつの目標を全うできたと言えるだろう。


「明日にでも着るのか?」

「洗濯して、もし乾いてたら着るかな?」

「なるほど」


 この後のことなんてなにもわからない中越は、意地悪な質問にすらも微笑みで答えてくれる。


 そんな姿に心苦しさなんて感じない。

 なんなら今すぐにでも始末したいぐらいに感情が煮え詰めている。


 なぜかって?そんなの決まってるだろ。

 この女が俺に対して脅しをしてきたからだ。


 あの手を繋いだのは、確かに動揺していて縦に頷くことしか出来なかったのもある。が、よくよく考えてみれば脅されている今、俺に断る権利なんてないのだ。

 そのせいで、純粋無垢な俺の手が汚され、相応しい人が見つかったら授けようと思っていた指先が、この女なんかに奪われてしまった。


 それも、あんなわざとらしく恥じらいながら、俺に決定権を促すようにお願いしてきたのだ!

 なんて極悪非道なんだ!暗殺者である俺ですらそんな考えには至らなかったのに、一般人であるこの女がなんでそんなひどいことを思いつくのか!


 とまぁ、そんな感じで今すぐにでもこの女を始末したい。

 そのためにもまずは料理を頼まないとな。


 何度かページを捲った後、パタッとメニュー表を閉じた俺は1ページ目を開いて写真を指差した。


「俺はこれにするけどどうする?」


 俺が指差したのは、この店で一番有名なカルボナーラ。

 父さんとこの店にはよく来るのだが、見る人殆どがカルボナーラを注文するほどの腕前。


 実際に俺も食べたことがあるんだが、本当に文句のつけようがない。

 濃厚チーズとコクの深いソースがベーコンとパスタに絡みついて、何度口に入れても飽きない。


 もしこいつに勧めるのならカルボナーラ一択なのだが、最後の晩餐なのだから好きなものを食わせてやろう。


「あっ、カルボナーラいいね。私もそれにしようかな?」

「いいんじゃねーか?この店で一番うまいし」

「ほんと?なら私もカルボナーラで」

「あいよ」


 俺が進めたわけでもなく、勝手に合わせてきた中越はメニュー表を閉じて壁に立てかけた。

 そんな様子を横目に、ベルを鳴らしてポケットに手を突っ込み、指先でジップロックがあることを確認する。


 俺がこれからすことは、この毒薬を隙を窺ってこの女の料理にぶち込む。それだけ。

 幸いなことに、俺が手に持つ粉は白。白が目立つカルボナーラに入れても、まずバレることなんてない。


 だから簡単な仕事なのだ。

 ただ毒薬を入れて、何食わぬ顔で倒れるクラスメイトを心配する。


 ただ……それだけのはずなのに……さっきまで感じなかった怖気が、俺の身体に襲い掛かってくる。

 暗殺するのにはなんの抵抗もない。昨日のうちに覚悟を決めてきたから怖気づくはずがない。

 そう思っても……こいつの顔を見れば怖気づく。


 なにが邪魔してるんだ?なにが俺の暗殺を邪魔してるんだ?

 そんな思考を身体中に巡らせるが、答えといった答えが見つからない。


 何に対して狼狽してるのかも、何に対してビビっているのかも、身に覚えにないのだ。

 今日、昨日、先週のことを思い出してもこいつを始末しない理由なんて見つからない。


 俺の中のなにかが、俺の無意識外から拒否してくるのだ。


「おまたせしました」という声が聞こえ、スッと表舞台へと帰した思考は2人分のカルボナーラを頼む。

 さすれば、店員さんは伝票にペンを走らせ「以上で大丈夫でしょうか」と確認の言葉をかけてくる。


「大丈夫です」

「かしこまりました。では、ご注文を繰り返させていただきます」


 店員さんの言葉の次に来るのは俺達が頼んだ商品たち。

 その隙を狙い、俺の中にいる邪魔者を排除しようと中越の顔を尻目に見やる。


 流石にこれだけ時間も立っていれば、顔からは赤みが消え、首筋を伝っていた汗は見えなくなっている。そして、カルボナーラを待ち遠しそうに頬を緩ませ、まるで子どもをお彷彿とさせる少女。


 そんな少女を見ても、俺の気持ちは何一つとして変わらない。……じゃあこの気持ちは一体?

 なんていう疑問が思い浮かぶばかりで、答えはひとつも出てこずに店員さんは席を離れていく。


「言われてみれば確かにみんなカルボナーラ食べてるね〜」


 顔を振り、辺りを見渡す中越はそう口にする。

 あまり他人の料理を見るのは好ましくないと思うのだが……まぁ、相手も気づいていないから良いか。


「だろ。まじで美味いから」

「おぉ。仁村くんが断言したよ」

「……俺のことをなんだと思ってる」

「んー無愛想な男の子?」


 なんて、先ほどの恥じらいがなかったかのように会話をする俺たち。

 きっとコイツ自身も先ほどのことを忘れたいのだろう。自分から誘ったくせにそのツラは非常に滑稽だが、こちらとしてはありがたい。


「そんな無愛想か?」

「少なくとも学校では無愛想だね」


 学校での俺をイメージするかのように無愛想な面を見せつける中越。


「今は?」

「怖いぐらいに表情豊かだね」

「……なるほど」


 そして今の俺をイメージするかのように微笑みを見せつける中越。

 まぁ俺の表情は全て演技なんだけどな。


 なんて言葉は中越の夢を潰しかねないので口にはせず、腕を組みながら考え込むように頷いてやる。

 さすればなにを勘違いしたのか、悪戯気に人差し指を唇の前に添えた中越は、口角を吊り上げて言って来たのだ。


「これが俗に言う、誰にも見せない顔ってやつだね?」

「そんなことはないと思うが……」

「いーや!この顔は私だけに見せてるね!」


 唇の前にあった人差し指をピッと俺の表情へと指差し、なぜか威張るように言ってくる。


「別にそれでも良いけどさ……そんなに俺の表情見るのが好きなのか?」

「え?うん。好き」

「……そうか」


 なんともまぁ、ジッと目を見つめてくる中越は「嘘じゃないよ?」と付け加えて言ってくる。


 いやまぁ、俺の表情が好きだと言ってくれるのならそれはそれでありがたいんだけど……なんかこう、さっきまでの赤かった顔はなんなんだ?ってなってしまう。


 当然のように恥ずかしいことは面と向かって口にできるのに、なぜか手を繋ぐ、弁当を作るなど、自分から行動したことに対しては恥じらいを抱く。

 けど、俺が誘ったらこいつは顔を赤くするどころかカウンターを仕掛けてくる。


 まじでなんなんだ?こいつは。どこで赤面になって、どこに恥ずかしさを抱くのかさっぱり分からん。

 もしかして俺がおかしい……は絶対ないな。というかこいつ、受け身は慣れているけど、自分が攻めるのに慣れてないだけだろ。


 まるで恥じらうようにスッと中越から視線をそらした俺は、店員さんが持ってきた水を口の中に注ぎ込む。

 恥じらうように。


「あれ?もしかして照れちゃった感じ〜?」


 ニヨニヨと口角を上げる中越だが、俺は演技でやってるんだ。

 なにを勘違いしてるかは知らんが、今の俺は時間を欲しているんだ。色々と考えることがあるからな。


 だからそんな前のめりに――更に追い打ちをかけるように胸を強調させて言ってきたって無駄だ。

 というか俺、微塵も性欲に興味ないんだよ。だからその脅しは無駄だぞ?

 そんな事を考えながら思考に浸り――


「ねね。なーんで目をそらしたの?」

「水飲みたかっただけだよ」


 軽く言葉を帰して思考に浸り――


「絶対嘘じゃん〜。私、相手の心読むの得意なんだよ?」

「嘘じゃねーよ」


 まぁ実際には嘘だが、気づきやしない。

 だから安心して思考に浸り――


「ね〜なんでこっち見ないの?」


 ――こいつ、カマチョか?

 なんだよ。さっきまでそんな素振りなかったじゃねーか。というか、揚げ足を取りたいだけじゃないだろうな?


「逆になんで目を合わせなくちゃいけねーんだよ」

「だって私と話してるじゃん。『人と話す時は人の目を見て話す!』って教わらなかった?」

「……教わりましたよ……」


 不承不承ながらも相変わらず身を乗り出す中越へと視線を戻し、どこを見ることもなくただジッと目だけを見つめる。

 うん、考えるのは無理だ。脳みそがひとつしかない俺には無理だ。

 カマチョになってるこいつを相手にしながら自分のことを俯瞰視するのはなにがなんでも難しすぎる。


「な、なんか呆れてない?」

「んなことねーよ。ずっと中越さんのことを見てる」

「ほんと?目の奥に呆れがあるけど……」

「気のせい気のせい」


 実際呆れてますけどね。

 そんな言葉は表情にも出さず、もちろん目の奥にも出していない俺は中越だけを見やる。

 さすれば当然、目をそらしていない中越と見つめ合う形になり、どことなく居た堪れない気持ちになる。


「この後ってなにするの?」


 そんな俺の気も知らない中越は平然と言葉をかけてくるが……そうだな。この後か。

 確かに始末した後のことはなにも考えてなかったな。というかこいつが生きて帰る前提のことはなにも考えてなかったな。


 顎に手を添え、わざとらしく考える素振りを見せる俺は、これまたわざとらしく「ふーむ」と喉を唸らせた。


「食べ終わるのって大体20時ぐらいだよな?それからどっか行くってのは無理じゃないか?」

「確かに。じゃあこのレストランでお別れ?」

「あーいや、家まで送っていくよ」


 なんて、淡々と偽りの言葉を口にする俺は、平然を装った顔で提案を問いかける。だがまぁ、送っていくのは俺じゃなくて父さんの部下なんだがな。


 というのも、俺に後始末はまだ早いということで父さんの部下がやってくれるらしい。

 そして遺体は本人の家に持っていくらしいから、俺が言ってることはあながち間違いじゃない。


 そんな思考とは対照的に、俺の言葉が気に入ったらしく「ありがと〜」と純粋なほほ笑みを浮かべて言ってくる。

 けどまぁ、そんな純粋な顔を向けられても本当のことなど言えないので、俺も同じようにほほ笑みを浮かべ続けた。


 そうこうしてるうちに店員さんが2人分のかるボーラを手に持って我が席へとやってきた。

 さすれば、目の前の女は最後の晩餐だともいうことも知らずに目を輝かせ、机に置かれたチーズが目立つパスタを凝視する。


 傍から見ればなんとも微笑ましいことこの上ないのだが、クラスメイトから見れば年相応の行動とは思えない。

 小学生……いや、幼稚園生ぐらいだな?なんてことを思っていると、伝票立てに紙を入れた店員さんが軽く頭を下げて席から離れていった。


「めっちゃ良い匂い!」

「だろ。まじで美味いから」


 まるで幼い子と会話するように口を開く俺。

 けれど、それはあくまでも表面上。内心は、この店に来てからずっと焦っていた。


 合間合間で己の感情のことを考えてみたのだが、結局答えは見当たらなかった。

 どんなにあたりを見渡しても、どんなにこいつの顔を見ても、ピンっとする答えが導き出せなかった。


 胸中で渦巻く気持ち悪い感情。

 嫌悪すら抱くこの感情に終止符をつけるのにはどうすれば良いのだろうか。

 そう考えた時、俺の脳にはひとつの答えが導き出された。


 皆まで言う必要はないだろう。なんたって、俺は暗殺者なのだから。

 この変な感情を打ち破っての暗殺者。邪魔されながらも任務を遂行してこその一人前。


 この言葉は父さんには言われてないが、自分が勝手に心得にしている言葉。というか今決めた言葉。

 ここまでクヨクヨと考えていたが、結局のところは暗殺者である以上――父さんの命令である以上、こいつを始末しなくてはならない。


 私事なんて必要ない。

 言われたことを全うするのだ。


「だ、大丈夫?」

「ん?なにがだ?」

「ボーっとしてたから……」

「あーいや、気にすんな。ちょっと考え事をしてただけだ」

「ふーん?」


 俺の言葉に対して訝しむ目を向けてくる中越だが、それ以上の詮索はしないらしい。

 店員さんが持ってきたカトラリーケースからフォークとスプーンを取り出し、お皿の前へと配置した中越は――


「あ、ごめん。ちょっと席離れてもいい?」


 突然ピタッと身体の動きを止めたかと思えば、ポケットからスマホを取り出してこちらに画面を見せてくる。


「あーなるほど。んじゃ待っとくよ」

「食べたかったら好きに食べていいからね〜」

「あいよ」


 小さく手を振って席を立った中越は、『お母さん』と表記された画面をスライドさせ、一時的に店を後にした。

 そうして訪れた静寂。まるで図られたように作られた空間からは、罪悪感が湧いて出た。


 きっと――いや絶対、中越のお母さんも俺の計らいは分かっていない。本当にたまたま娘に電話をかけただけだ。

 それが分かるからこそ、罪悪感が湧いてくる。


 1時間後には家に帰るはずの娘が、先ほどまで電話していた愛娘が、息をしていない状態で家に帰ってくるのだ。

 そんなことを考えれば、罪悪感が湧くのも自然なこと。


 鼻からため息を吐き出す俺は、ゆっくりと背もたれに体重を預ける。

 おもむろに腕を組み、冷め始める自分のパスタなんぞに目を向けず、相手のパスタとポケットを交互に見つめ続けた。


 まぁどんなに考えても、命令がある以上は始末しなくちゃいけない。が、初暗殺がこんなにも後味が悪いものになるとはな……。


 ポケットに手を突っ込み、ジップロックを取り出して周りから見えないように手のひらで包み込む。

 そして背もたれから身体を離し、前のめりになりながら相手のカルボナーラへと入れるのだった。

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