襲われた昨日の今日なら警戒もする
怖い。
昨日、階段の踊り場にやってきた蜜樹に対する第一印象だった。いや、この場合は第二印象なのかもしれない。もしかしたら、第三かも? 正解はなんだ。とにかく怖かった。
それは当然の感情で。
突然、押し倒してきたかと思えば、人の上でリップを塗りだして、そのまま俺にも塗ってくるのだから、奇行以外のなにものでもない。恐怖以外のなにを感じるというのか。
……まぁ、鼓動が速くなった理由の内訳に、恐れ以外がなかったわけじゃないけど。
人のいない、静謐な廊下を歩いて階段を上る。
屋上の手前。階段の踊り場が見えかけたところで足を止める。まさか、いないよね? そろりと首を伸ばしたけど、人影はなかった。
はぁ、と息をこぼしながら踊り場へ。そのまま昨日と同じ場所に腰を下ろす。
本当ならわざわざ登校なんてしないで、街で時間を潰したかった。教師だろうと、生徒だろうと見つかれば面倒だから。
でも、親にサボりがバレるのはもっと面倒。
制服に着替えて、いってきます。
その過程は必要で、制服のままでは平日の昼間は陽の下を歩きづらい。すねに傷を持っているみたいだ。
「似たようなものか」
薄暗い踊り場。陽の光は屋上の扉の横にあるはめ殺しの窓だけだ。わずかに差し込む光を避けるように影の中にいるのは、悪さをしたから身を隠す行為そのものだろう。
実際、罪悪感もある。サボって自由の身。清々しいとはならなかった。
鐘が鳴る。いやにお腹に響く。
ホームルームの鐘か、授業か。今日は教室にすら行っていないから、時間もよくわかってない。スマホを取り出せばいい話なのだけど、鞄から取り出すのも億劫だ。
不良街道まっしぐら。こういうのを落伍というのだろうか。なんでか笑えてくる。
「ふふ」
「なに笑ってるの?」
心臓がきゅっと締まる。唇もきゅっとする。
顔を上げたら、蜜樹が不思議そうに俺を見下ろしていて、「ひぅっ」と喉が鳴いた。
「なにそれ。鳴き声?」
かわいいね、と微笑まれて頬が熱くなる。
また来たのかとか、かわいくないとか、咄嗟に声を上げようとしたけど、羞恥が口を固く閉ざす。膝を抱えて俯く。
「来てないかと思ってた」
「……いる」
「教室にいなかったから」
膝に額を付けたまま、横目で蜜樹を見る。すると、琥珀の瞳と目があって慌てて視線を膝の内側に隠す。左耳を撫でる笑い声が羞恥を煽る。笑うな。
「ところで……?」
なにか話そうとした蜜樹だったけど、途中で止まった。
「なんで逃げてるの?」
「……」
押し黙る。
じりじりとお尻を動かして、距離を置こうとしていたのが早くも露見してしまった。少しは顔の熱も引いたので顔を上げると、蜜樹が眉をひそめていた。
いや、なんでって。
不審に目を細めると、きょとんっとされてしまう。まるでわかっていなさそうだ。だからって、俺の口から説明する気にはならないので、やっぱりじりじり距離を取る。
しばらく、「んー?」と考えるように蜜樹は首を傾げていたけど、あぁと納得したように呟いた。
微かに口の
まるで、ヘビが獲物の前で舌を覗かせるようで、縋るようにそばにあった鞄を抱きかかえる。
「気になるんだ?」
言って、蜜樹は薄い唇を人差し指でなぞる。丁寧に、じっくりと。
その仕草はまるで口紅を塗るようで、嫌でも昨日のことを思い出させる。
リップを塗って、塗られて。
心臓から全身に、血だけでなく羞恥や熱まで運ばれているようだ。蜜樹の視線が耳に向かって、くすりとからかうように笑う。思わず手で隠してしまうけど、きっとこの行動は彼女を喜ばせるだけなんだろう。実際、笑みが深くなっている。
「……違う、から」
「男の子だねぇ」
否定しても虚勢だってのは見抜かれている。もうやだぁ、と泣きたくなる。泣かないけど。
「男とか女とかじゃなくって。
あんなことされたら、誰だって気になる」
むすっと下唇を持ち上げる。
俺は不機嫌ですと伝えてるつもりなのだけど、やってみると構ってほしい子どもみたいだなと思ってしまう。思ってしまって、羞恥が頬を焦がす。不機嫌で結んだ唇が、あっさりほどけてしまう。
「だいたい、昨日も今日も、なにしに――」
と、誤魔化すためにまくし立てようとして、昨日、蜜樹が口にしていた言葉が頭の中で反響する。
――不純なことをしたくなった。
思い出して、固まる。
無意識に指が唇に触れた。もうリップなんて落ちているはずなのに、まだべったりと残っているような気がする。
「ねぇ」
呼ばれて、顔を向ける。
屋上の窓から差し込む光が蜜樹を照らす。まるで、舞台の女優を照らすスポットライト。光の中、場末の舞台で微笑む彼女が言う。
「セックスしようか」
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