ピアス穴を開ける。痛かった。そしたら、学園きっての才媛にリップで間接キスをされた。

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ファーストピアスを付けたら、学園一の才媛に使いかけのリップを塗られた。

 高校二年の春、左耳にピアスの穴を開けた。

 それは新しい学年デビューとかそういったのじゃなくって、一種の決意表明で、思春期らしい反抗だったと思う。


「どういうつもりだ?」

 俺が通う高校は進学校で、テストのたびに学年順位を張り出すような時代錯誤な学校だった。当然、校則は厳しく、ピアスなんてもってのほか。だから、こうして登校してすぐに、担任教師に詰め寄られている。

 ピアスを外せとか、校則違反だとか。

 予想の範囲内に収まるお叱りをクラスメートの視線が集まる中で受けていた。公開処刑かな。まぁ、俺が悪いんだけど。


 学年が上がって、クラスが変わって。

 様変わりしたクラスメートたちは、堂々と校則を破った俺に不審な目を向けている。進学校だけあって真面目な生徒が多い。彼らからすれば今の俺は馬鹿な奴なんだろう。俺もそう思う。


 けど、一人だけ。

 はちみつのような琥珀色をした瞳を真っ直ぐに向けてくる女子生徒がいた。どこを向いているんだ、という担任教師の注意が耳を通り過ぎていく。

 クラスメートが向けてくるあざけりや非難といった感情はない。ただ真っ直ぐに俺を見つめていて、なにを考えているのかは読み取れなかった。


 これはなんか……嫌だな。

 なんとなく居心地が悪くなる。だから、踵を返して教室を出る。呼び止める声がするけど、知ったことじゃなかった。もともと、今日はサボる予定だったし。


 逃げるように、というか、本当にただの逃避行動で廊下を歩く。すれ違った他の教師に「もう授業が始まるぞ」なんて声をかけられたけど、無視して歩く。歩いて……、

「……どうしようかな」

 ピアスを付けて、教室を飛び出す。

 昨日からそこまでは考えていたけど、それだけだった。知らない町に放り出されて迷子になったように、途方に暮れてしまう。予定というには稚拙で大雑把だったなと今になって思う。


 校舎を出るか。

 考えたけど、帰ったところで家にいる母親になんて言われるか。体調が悪いと嘘をいたところで、どうせ学校に連絡してバレるに決まってる。

 かといって、外で時間を潰そうにも、制服のままだと目立つ。声をかけられても面倒だった。

 なにか考えないと。とりあえず、どこかで休みたい。重くなった肩が下がるのを感じて、よりそう思う。


 いくつか教室の前を通り過ぎる。

 不思議な感覚だった。

 扉一つ隔てているだけなのに空気が違う。教室に向かうときに歩いた廊下と同じはずなのに、初めて歩いているような感覚があった。教室からホームルームをしている声が聞こえてくる。いつもとは違う環境を、脳が初めての場所と認識しているのかもしれない。


 どこかふわふわとした心地で校舎内を歩く。

 人がいない場所。静かな場所。求めて、上へ。

 気付けば屋上扉まできていて、試しにドアノブを捻ってみる。がちゃがちゃ。

「開かない、か」

 だよね。

 漫画とかアニメのように、都合よく屋上は開放されていない。危ないから。扉横の窓もはめ殺しで、光は差し込んでも人の出入りはできなかった。


 しょうがない。

 ずり落ちそうになった鞄の取っ手を肩にかけ直す。

 屋上と最上階、その狭間。

 階と階を繋ぐ踊り場で、ずるずると滑るように腰を下ろす。

「ここでも十分か」

 上までいけなかったけど、根を張るわけじゃない。

 人がいなくって、静かな場所という条件も満たしているのだから、これ以上を求めるのは贅沢だろう。


 四月は中旬を超えたところ。

 踊り場の気温は寒くなく、暑くもないと丁度いい感じだった。これが夏とか冬になると、外の気候に合わせて熱帯になったり極寒になったりするんだろうと思う。

 ただ、今の時期は過ごしやすい。とりあえずはよし、だ。


「……ふぅ」

 嘆息か人心地か。どっちともつかない吐息をこぼしたら、鐘が鳴る。屋上に近いせいか、その音はやたら大きく耳を打った。

 ホームルームが終わる。授業の始まり。

「本当にサボちゃったな」

 小学校からこれまで、体調不良以外で休んだことはなかった。初めての経験。それはもう少し開放的なものだと思っていたけど、思いの外、罪悪感が胸を締め付ける。簡潔に言うなら、やっちまったなぁ、だ。


 とはいえ、今更やめる気もない。

 耳たぶに触れる。一昨日までなかった硬い感触が指先に当たった。ファーストピアス。

「痛くないって書いてあったのに」

 ネットの動画を見ても簡単そうで、痛くなさそうだった。だから、えいやっとやってみたのだけど、予想よりも痛くって涙が滲んだ。今もジンジンとした痛みがある。

 人の体に穴を開けるんだから痛いのは当たり前なんだろうけど釈然としない。初めてで、やり方が悪かっただけかもしれないけど、どうなんだろう。開けるんじゃなかったって、ちょっとだけ後悔。


 触るのはよくないってわかってはいても、ついつい気になっていじってしまう。

 家に帰ったら消毒しないと。

 そう思っていたら、足音が聞こえてきて体が硬直する。

 耳鳴りするぐらい静かだったから、その音はよく響いた。たったっ、とくような足音。


「……誰?」

 今は授業真っ最中。

 職員室は一階で、たとえ授業のない教師がいたとしても、ここまで上がってくることはまずないはずだ。なら、用務員とか? それとも、知らないだけで見回りの教師がいるのか?


 不安で鼓動が速くなる。

 踊り場の隅に寄って息を潜める。誰であれ、まさかここまで上がってくるはずない。そう自分に言い聞かせて、やり過ごしたかったのだけれど、足音は着実に近づいてきて、大きくなる。

 止まって、ほっとして、階段を上がる音に心臓がすくむ。


 誰だよ、と迫り上がってくる緊張で息を止めながら階段を見ていると、

「いた」

 と、姿を見せたのは女子生徒だった。首を伸ばして顔を向けてくる。さらっと、黒髪が肩を撫でる。

 いた、って。

「……探してたの?」

 上ってきた相手が大人じゃなかったおかげか、強張っていた肩から力が抜ける。喉に詰まっていた息と一緒に吐き出した質問に、彼女は小さく頷くとそのまま踊り場まで上がってくる。


「隣、座るから」

 許可を得ず、宣言するだけして座る。

 なんだ、と不審に目を細めるけど、咎めることもできずその横顔を見つめるしかない。彫刻のように美しい鼻筋。髪を耳にかけると、隠れていた首筋がわずかに覗いた。うっすらと汗が浮いていて、妙に艶めいて見えて戸惑う。

 思わず視線を外すと、琥珀の瞳が追いかけてきた。

「なに?」

「それはこっちの台詞……」

 尻すぼみになっているのは、見てはいけないものを見たような小さな罪悪感があったから。けど、口にしたのは言い訳じゃなくって、彼女が来たときから思っていたことだ。


 本当になにしに来たんだ、この子は。

蜜樹みつき……だよね」

「へぇ。わたしのこと知ってるんだ」

「そりゃね」

 同じクラスだし。なにより、中学のときから名前だけは知っていた。


 掲示板に張り出されるテスト順位、その一番上。中学からずっと彼女の名前が書かれている。

 毎日どれだけ勉強しても五十位辺りをうろうろしている俺には無縁で、ただ見上げるしかなかった名前。中学に入学したての頃は次は自分がとやる気を出していたけど、いつの間にかぽけーっと口を開けて凄いなぁと感心するだけになっていた。

 中高一貫校で、高校に上がってからもそれは変わらない。けど、中学から高校というのは学生とって長い年月で、本人の噂だけは広まっていた。


 学園一の才媛。

 容姿端麗で大手アイドル事務所にスカウトされたとか、頭がよすぎて飛び級を提案されたけど一蹴したとか。

 他にも大学教授の論文を真っ向から否定して土下座させた、実は顔出ししないで歌手活動しているなんて噂もあるけど、ここら辺までくると面白がって広めただけなんだろうとわかる。噂に尾ひれ背びれ。校則が厳しいせいか、校内の話題は広がりやすく、大げさになりやすい。


 でも、噂されるだけはあるよなぁと端正な顔を横から窺う。

 校則を遵守した化粧っ気のない顔なのに、綺麗だな、と感じ入ってしまうのだから素材がいいのだろう。

 頭もいいし、顔もいい。

 天は二物を与えずっていうけれど、とんだ欲張りセットもあったものだ。


 羨ましいなぁ。

 膝を抱えて、淡い羨望を抱いていると、琥珀の瞳がこっちを向いてドキリとする。

「どうしてピアスなんて付けたの?」

「……わざわざ追いかけてきた理由って、それ?」

 尋ねると、「そう」という相槌を打たれる。


 なにそれ。ちょっと気が抜ける。

 優等生らしく非行に走ったクラスメートを更正しに来たとは思っていなかったけど、そっちの方がまだ現実味があった。なんでピアス。どうでもいいでしょ。

「それ、答える必要ある?」

「ないけど」

 でも、と蜜樹は膝を抱える。

「訊きたい」

 あぁ……またこの目だと思う。


 さっき、教室で見たはちみつのような琥珀の瞳。

 他が嘲りや非難の視線を向けてくるなか、一人だけ、ただ真っ直ぐに見つめてきていた。虚飾を見透かすような、純粋で、真摯な瞳だ。

 嫌だなぁ。

 見られているだけで、落ち着かなくなる。わかりやすい負の感情と違って、なにを考えているのかわからないからなおさら。

 好奇心なのかなんなのか。頭のいい人の考えなんてわからないなと辟易する。

 けど、さっきみたいに逃げられない。


 それに、膝を抱えて体を縮めるその姿にはふざけたものは感じない。はぁ、と諦めのため息が口から漏れた。なんでよく知りもしないクラスメートに……。

「勉強に疲れただけ」

 本心の一片。ピアスを付けた理由を端的に告げる。


 まぁ、よくある話だ。別段、珍しくもない。

 家でも勉強、学校でも勉強。

 よりよい成績を取れと、親も教師も口を揃えて言う。

 最初はよかった。新しいことを覚えるのは好きで、母親に花丸のテストを得意げに見せたものだ。

 けど、いつの間にか。

 勉強が嫌いになって、競争にすり減っていって。

 ……我ながら浅はかで、本当にどこにでもある話だ。


「だから、悪いことをしたくなった」

 そうすれば、ほっといてくれると思ったから。

 我ながら子どものようだ。左耳のピアスに触れる。開けたばかりのピアス穴はまだ痛みが残っていて、胸にある罪悪感に似ている。

 とはいえ、そうした心情まで昨日今日クラスメートになったばかりの女子に語って聞かせる気はない。

 そもそも、こんな気持ち、学年首席の彼女に共感できるはずもない。


 なのに、

「わかるよ」

 って、蜜樹にさらっと言われて、むっとなった。なにがわかるのかって。

 確かに俺の抱える悩みなんて、そこら辺に吐いて捨てるほど転がっている。だからって、なにもかもうまくいっている彼女に共感できるなんて思えない。思わない。

 それは共感を装った同情でしかない。

 だから、頭に上った血を吐き出すように文句を言おうとしたのだけど、そんな機会はやってこなかった。


「ッ⁉️」

 いきなり、両手を突き飛ばされる。

 勢いのままに背中を打った。なにするの、なんて衝動的な文句すら口にできなかったのは、ガバッと蜜樹が覆い被さってきたから。

 突然のできごとに呆然と目を見開く。

 ……こんなときだっていうのに、影の中に見える顔が綺麗だなと思うのだから、男の本能というのはいかんともしがたい。ただ、それは一瞬で、その後も見入っていたのは、その整った顔に疲労の影が見えたから。


 蜜樹が指先で左耳のピアスに触れてくる。んっ、とこぼれそうになった吐息のせいで恥ずかしさがこみ上げる。

「……わかるんだよ、君の気持ち」

 スカートのポケットからリップを取り出す。薬局とかでよく見る、飾り気なんてない薬用のものだ。俺に覆い被さったまま、彼女は薄い唇をリップでなぞる。

 人を押し倒して、なにしてるんだ。

 頭がよすぎると、行動が突飛になったりするのかなって思っていたら、ぐいっとリップを口に押し付けられる。


「んぐっ」

 あわや食べそうになって口を閉じると、それを待っていたように唇にリップを塗られる。

 子どもがクレヨンで落書きをするように。

 ぐい、ぐいっと唇の上をリップで撫でられて、心臓から広がっていく熱はなんなのか。羞恥なのか、それとも怒りなのか。どうあれ、体が熱くなって、我慢できずに手で払ったのだけど、丁度終わったらしく彼女の手が離れて空振ってしまう。


 手の甲で唇を押さえる。べたべたとした感触。

 なんなんだ、ほんと。

 睨むように見上げると、蜜樹は疲れたように微笑んで言った。

「だからわたしも、不純なことをしたくなったんだ」

 って。

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