第36話 じゃあさ

 放課後。将棋部の部室。


「どーん!」


「部長! 扉は静かに優しく開けてください! いつも言ってますよね!」


「うむうむ。弟子ちゃんのツッコミは変わらなくて安心するねー」


 あ。この人反省する気ない。


「今日は師匠ちゃんが対局の日だったよね。中継してる?」


 向かい側の椅子に座りながら尋ねる部長。僕は、はあっと小さくため息を吐いた後、彼女にスマホの画面を見せました。


「今は相手の手番ですよ。師匠の攻めがいい感じに決まってます」


「ほほう。それはよかった」


 安心したように笑って、部長はスマホを覗き込みます。数秒後。彼女は小さく頷きました。


「確かにいい感じだね。けど、持ち時間の差が気になるなあ」


 今回の対局では、お互いの持ち時間がそれぞれ6時間。それを使い切ったら一手を60秒で考えて指さなければなりません。


 師匠はここまで4時間20分使用。対する相手はもうすぐ3時間使用。要するに、一時間以上の差ができてしまっているのです。考えてもみてください。一手のミスも許されない重要な場面において、60秒しか考えられない人と、1時間考えることのできる人。どちらが有利なのかは明白でしょう。


「確かに時間は気になりますけど。この優勢が維持できればなんとか……」


「分かんないよ。時間に追われて悪手を指しちゃうことって結構あるし。師匠ちゃんだってそうなんだから」


「……ですね」


 思い出すのは8月31日に行われた対局。格上の相手に対して優勢を築いた師匠。ですが、最後の最後で悪手を指し、敗北してしまったのです。師匠曰く、「時間に追われちゃった」とのこと。


「師匠、頑張れ~」


 不意に口から出た言葉。それを聞いた部長が、「ふふっ」と笑みを浮かべます。


「部長?」


「いや。師匠ちゃんは幸せだなーと思ってね。弟子ちゃんがこんなに応援してくれるんだから」


「急に何言ってるんですか」


「弟子ちゃん。これからも師匠ちゃんのことよろしくね」


 それは、いつか聞いたことのある懐かしい言葉。どうにも違和感しか感じない言葉。


 師匠や部長と出会って約10か月。10か月前にも感じた違和感は、この時一つの考えを浮かび上がらせました。


「……あの」


「ん?」


「部長、何か隠してませんか?」


 それはあくまで直観でした。師匠と部長の間には何かある。そして、部長はそれを言わずに隠そうとしている。そんな、妄想じみた直観。


 僕の質問に、部長は顔を引きつらせました。


「……そう思う?」


「はい。何となく、ですけど」


「そっか。弟子ちゃんの『何となく』は怖いなあ」


 髪先をクルクルと回しながら、部長は顔をそらします。僕と視線を合わせたくない。言わずともそれが分かりました。


「…………」


「…………」


 広がる無言。部室の中を支配する静けさ。窓から入るオレンジ色の光が、僕らを弱々しく照らします。いつの間にかスマホの電源は切れ、暗くなった画面にはいびつな指の痕が浮かんでいました。


「……ねえ、弟子ちゃん」


「はい」


「今週の日曜日、時間ある?」


「へ? あ、ありますけど」


 首をかしげる僕に向かって、部長は顔をそらしたままこう告げました。


「じゃあさ。私とデートしない?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る