第33話 引退

 夏休み最終日。


『今日の午後から将棋しない?』


 部長からそんな連絡を受け取ったのは、僕が朝起きてすぐのことでした。珍しいこともあるもんだなあなんて思いながら部室を訪れた僕。扉を開くと、そこには将棋盤の上に駒を並べてる部長がいました。


「や。待ってたよ」


「部長。大会ぶりですね。今日は時間とれたんですか?」


「そうそう。いやー。最近は受験勉強に追われててさ。でも、たまには息抜きも必要かなって」


「それは確かに」


 席に着き、部長と一緒に駒を並べます。パチリ、パチリと部室に優しく響く駒音。窓の外はとても静かで人の気配を感じません。夏休み最終日ですし、他の部活動は休みなのかもしれませんね。


「さて、始めようか。君が先手ね」


「はい。よろしくお願いします」


 駒を並べ終え、一礼をしていざ対局。僕は、いつも通り盤上のに手を伸ばし、一マス前進させます。それに応じるように、部長も歩を一マス前進。


「あ。そういえば、全国大会はどうだったんですか?」


「二回戦負け。やっぱり全国は厳しいねー」


「それでも一回戦は勝ってるじゃないですか。さすがです」


「あはは。あんなのまぐれみたいなものだよ」


 たわいもない会話をしながら、お互いに駒を進めます。攻めの形を作り、王様の囲いを整え、開戦一歩手前。僕から仕掛けるか、はたまた部長の仕掛けを待ってカウンターを狙うか。頭の中で、次の展開を予測します。


 ここで歩をぶつけて……いや、こっちが悪くなるだけ。でも、攻めるならこのタイミングなのかも。となると、歩をぶつけた後に何か一工夫……。


「あーあ。私もついに引退かー」


 思考の波に揺られていた僕。そんな中、何気なく告げられた部長の言葉に、僕は盤上から顔を上げました。


「い、引退? え?」


「だってそうでしょ。私、三年生なんだから。夏休みの大会が終わったら引退だよ」


「あ」


 引退。部長が引退。そんなこと、ちっとも考えていませんでした。よくよく考えれば当たり前のことなのに。


「三年になってからあんまり部活に参加できなかったけど。まあいい思い出はできたかな」


「…………」


「弟子ちゃんと師匠ちゃんのイチャイチャをもう少し見たい気持ちはあるけどね。あはは」


「…………」


 部長は笑っています。笑っている、のに。どうしてでしょう。苦しんでいるように見えるのは。


「部長」


「ん?」


「嫌ですよ」


 どうしてそう見えたのかは分かりません。ですが、分かることが一つ。


 このままじゃ、いけない。


「嫌って……」


「部長が引退なんて、嫌です」


「…………」


「だって僕、部長とまだ一緒にいたいですし」


 瞬間、部長の目が大きく見開かれました。その後、口をパクパクと動かしながら視線を左右に行ったり来たり。頬には朱が差し、傍目から見ても困惑しているのは明らかでした。


「で、弟子ちゃん。そ、それってどういう意味なのかな?」


「どういう意味って。そのままの意味ですよ」


 部長とまだ一緒にいたい。その気持ちに間違いなんてありません。部長と部室で過ごすこの時間は、僕にとって心休まる時の一つでもあるのです。本当に自然体で話せる年上の異性。それが、僕にとっての部長なんですから。


「そ、そのままってことは、つまり……」


「?」


「つまり…………いや、違うね。きっと私の勘違いだ」


 そう言って、部長は小さく首を振りました。


 勘違い? 僕、何かおかしいことを言ってしまったんでしょうか?


「はあ。仕方ないなあ、弟子ちゃんは」


 わざとらしいため息をつく部長の顔には、とても優しい笑みが浮かんでいました。

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