第26話 もひゅもひゅ

 夜八時。自室。


「よし」


 覚悟を決め、僕は電話のコールボタンを押しました。


 プルルルル。


 プルルルル。


 プルル。


「はい」


「も、もひゅもひゅ!」


 噛みました。


 …………


 …………


 死にたい。


「えっと。どう反応すればいいのかな?」


「すいません。さっきの聞かなかったことにしていただけるとありがたいです」


「それは難しいかも。電話に出て聞こえた第一声が『もひゅもひゅ』なんて人生初だし」


「か、からかわないでくださいよー」


 電話の向こうで、師匠が笑っているような気がします。といいますか、絶対笑ってますよね。だって師匠ですし。


「まあ君が私との電話に緊張してるっていうのは置いておいて。いよいよ明日だね」


「はい」


 明日。高校生になって初めての公式戦。今朝起きてから今まで、「いよいよ明日か」と何度思ったことでしょう。優勝を目指しているとまでは言いませんが、せめて決勝まで進んで県代表に選ばれたいところ。


「頑張って」


「僕、大丈夫ですかね?」


「応援してる」


 電話越しに聞こえる師匠の声はとても優しくて。思わず笑みがこぼれそうになりました。


「ありがとうございます」


「……私からも、いい?」


「え? あ、はい」


「私、大丈夫かな?」


 質問の意味が分からず、思わず首をかしげる僕。ですが数秒後。彼女が明日、プロとしての対局を控えていることに思い至りました。


 昨日、不安だったら連絡してもいいって師匠は言ってたけど。


 もしかして、不安だったのは……。


 以前、師匠は言っていました。将棋の勝敗でいろいろなことが決まってしまう。それがプロの世界であると。負ければ、次の対局はありません。負ければ、雑誌の掲載やイベントへの参加が見送られるかもしれません。もちろん収入だって減ってしまうわけで。


「師匠」


「うん」


「応援してます。ずっと」


 大丈夫。絶対勝てる。喉元まで出かかったそれらを、僕はグッと飲み込みます。僕の知らないプロの世界。そこで戦い続ける師匠が負担を感じてしまわないように。


 一瞬の沈黙。その後聞こえたのは、「ふふっ」という笑い声でした。


「君は本当に相変わらずだね」


「はあ。それ、以前も言われましたけど、どういう意味なんです?」


「さて、どういう意味かな?」


「隠さないで教えてくださいよー」


 師匠の姿は見えなくて。師匠の顔も見えなくて。でも声は聞こえるから、すぐ隣にいてくれるような気がして。なんだか心の中がフワフワしてくるような。


 それから数分たわいもない会話を繰り返し、そろそろ電話を切ろうかという頃。


「師匠、これからも時々電話してもいいですか?」


「…………」


「師匠?」


「も、もちろんいいよ」


 電話越しに聞こえた師匠の声は、ちょっぴり慌てているように感じました。

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