STORY2 私の心は知らぬ間に⑩

 彼と師弟関係になって数日が過ぎた。彼の通う中学校とこの高校とは自転車でニ十分くらいの距離。遠すぎるというわけではないが、気軽に通えるほど近いというわけでもない。でも彼は、学校終わりに必ず足を運んでくれた。


「師匠、部長。こんにちは」


「こんにちは」


「弟子君、よく来たねー」


 会話して、将棋を指して、時間が余ったら詰将棋を解いたりなんかして。やっているのはたわいもないこと。彼がまだ中学生、かつ私の弟子。それを除けば、いたって平凡な将棋部の一幕。


 彼の前だと自分が素でいられる。作り笑いをしなくていいと思える。それはきっと、私の知らない私に彼が気づいてくれたから。『疲れてませんか?』と言ってくれたから。いや、もしかしたら、彼に私の恥ずかしいところを見られてしまったからかもしれない。


 彼との日常を過ごしていく中で、不思議と私の体調は良くなっていった。薬や栄養ドリンクを飲まなくてもよくなったし、プロとしての対局や取材にも身が入るようになった。


「師匠。昨日の対局中継見ましたよ。おめでとうございます」


「ん。ありがとう」


「まさかかくを犠牲にして相手の攻めを遅らせる手があるなんて気づきませんでした。感動で『おー』って叫んじゃって」


「ずっと狙ってた手だったから、成功してよかったよ」


「あ。その対局私も見てたー。師匠ちゃんすごかったねー」


 お互いに顔を見ながら笑い合う。プロ棋士としての緊張から解放される感覚。それはきっと、勘違いでもなんでもないのだろう。


「それにしても、君は将棋で感動したら叫んじゃうタイプなんだね。ちょっと見てみたいかも」


「う。か、からかわないでください」


 彼の頬にほんのり朱が差す。目線が泳ぎ、ちょっぴり口が尖る。でも、心から嫌がっているようには見えない。


「ふふ。相変わらず、君はからかわれるといい反応するね」


「な、何ですか、それ」


 ああ。


 楽しいなあ。


 本当に。


 楽しい。


 時が過ぎ、彼が高校に入学。彼が正式に将棋部の部員となったことで、彼と過ごす時間もこれまで以上に増えた。


 それなのに。


『私、そろそろ行かないと。じゃあね、師匠ちゃん』


 咲ちゃん。


 どうして?


 どうして私を……。


「――う。――しょう。師匠!」


「え?」


 私を呼ぶ声にハッと我に返る。見ると、彼が不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。


「師匠、どうかしましたか? ボーっとしてましたけど」


「……いや、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」


 今日は夏休み前最後の部活動。午前中に終業式を終え、午後からみっちり彼と対局。七月末には高校将棋選手権がある。師匠として、彼が勝って喜ぶ顔を見たい。といっても、プロ棋士である私は大会に参加できないし、大会当日は私の方でも対局があるから応援すらいけないのだが。


 やはりと言うべきか。今日も部長の姿はなかった。


 もしかして、私がいるから来れない、とか? いや、違う。きっとただの思い違いだ。部長が、咲ちゃんが、私を避けるなんてあるわけない。


 あるわけ、ない。


 頭に浮かぶ嫌な考え。よく分からない灰色の何かが、心の中でうごめき始める。


「師匠」


「ん?」


「僕にできること、あります?」


 唐突に告げられた彼の言葉に首をかしげる私。だが、その表情を見てすぐに分かった。彼が私のことを心配してくれているのだと。


 相変わらず妙なところで鋭いね、君は。


「問題ないよ。そんなことより、君は大会に向けて自分の心配をした方がいいね。今のままじゃまだまだだよ」


「う。も、もう一局お願いします」


「了解」


 セミの鳴き声と吹奏楽部のコーラス音を聞きながら、私たちは盤上に散らばった駒たちを並べ直すのだった。

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