STORY2 私の心は知らぬ間に⑨

「今日はいろいろすごかったね」


 校門横の石壁に背を預けながら、部長がポツリとそう呟いた。彼女の見上げる空は薄暗く、あと数分もすれば完全に夜だ。いつもの私なら、さよならを言って帰路についていたはず。けれど、できなかった。彼女に聞きたいことがあったから。


「ねえ、どうしてあんな提案したの?」


「彼があなたの弟子になるってやつ?」


「うん」


 明日から将棋部の一因になってほしい。しかも私の弟子として。それが、部長が彼にした提案。正直まともじゃない。結局、彼はその提案に首を縦に振った。いや、部長に振らされたと言った方がいいだろう。


「言ったでしょ。何となくだって。それに、将棋できる新入生には唾つけとかないとだしね」


「…………」


 何となく。本当にそうなのだろうか。私には、もっと別の何かがあるような気がしてならなかった。


「ねえ、私からも聞いていい? どうして泣いちゃったの?」


「…………」


「彼はさ、多分優しいんだろうね。あなたにその理由を聞かなかったし、無理矢理雰囲気を変えようとしてくれてた」


「だね」


「けどさ、私は彼みたいに優しくないんだよ。あなたが泣いた理由、聞きたくて仕方ない」


「…………」


「教えて」


 私の方を見ずに部長が告げる。彼女の視界に映っているのは空なのか。はたまた別のものなのか。いつになく冷たい風が、私の頬を撫でた。


「多分だけど」


「うん」


「疲れてたからだと、思う」


 ひたすら将棋に打ち込んだ。作り笑顔も練習した。どんな質問をされても無難に返せるように努力した。やっとの思いで手に入れたプロの資格。浴びせられる世間の注目。向けられる好奇の目。煩わしさに押しつぶされそうになりながら、プロ棋士としてふるまう日々。


 頑張って。


 頑張って。


 頑張って。


 そして、知らない間に私の心は。

 

 ポツリ、ポツリと私の口から出る言葉の数々。私に視線を向けず、時折頷きながら話を聞く部長。彼女が今何を考えているのか、私には分からなかった。


「彼に『疲れてませんか?』って言われてね。全部自覚しちゃったんだ。これまで誤魔化し続けてきたこと」


「そっか」


「だから、泣いちゃった」


「…………」


「…………」


 広がる無言の空間。この後何を話せばいいのだろう。彼のように場を和ませるようなことを言うべき? いや、私はそこまで器用なことができる人間じゃない。大人しく部長の言葉を待つくらいしか。


 私たちの目の前を、一台の車が通過していく。続いてもう一台。さらにもう一台。ライトの明かりに照らされる部長の顔は、どこか陰りを帯びていた。


「彼が」


 数秒後。部長がようやく口を開いた。


「彼が部室に来てくれるようになったらさ」


 心の中にあるものを絞り出すような口調。小さな小さな呟き。けれど、私の耳にははっきりと聞こえた。


「あなたは、何も気にしないで笑えるようになるのかな」


 彼への期待か。私への願いか。


 それとも……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る