STORY2 私の心は知らぬ間に①
私のおじいちゃんは元プロ棋士だった。名前を言ってもほとんどの人が首をかしげるだろう。一部の将棋関係者ならもしかしたら思い出せるかもしれない。それくらい、無名な一プレイヤー。
「わしはなーんにも残せんかったからのー」
笑いながら私を撫でるおじいちゃんの腕はとても細くて。苦しみながら一心不乱に将棋を指し続けてきたんだと、幼心にカッコいいと思ったことをよく覚えている。
両親が仕事で忙しいこともあり、私はよくおじいちゃんの家で過ごしていた。だから自然と将棋も覚えたし、勝負のコツなんかも教えてもらうことができた。時には熱の入った指導をされることもあったが、今になって思えばおじいちゃんは私に自分の全てを伝えたかったのかもしれない。将棋一筋。その中で生きてきた全てを。
「そろそろ将棋教室にでも行ってみんか?」
私が小学三年生になったある日。おじいちゃんがそんな提案をしてきた。
「将棋教室?」
「そうじゃ。お前もじいちゃん以外の人と指すことを覚えた方がいいと思っての」
「……怖い人、いる?」
「はっはっは。可愛い反応じゃなあ。大丈夫。丁度じいちゃんの知り合いが将棋教室をやってるんじゃが、そこにいるのは優しい人ばかりじゃよ。どうじゃ?」
「……ん。それなら行ってみたい」
おじいちゃんに連れられてやってきたのは、地元のコミュニティーセンター。毎週土曜日と日曜日、ここの和室で将棋教室が開かれているのだそう。
「どうも」
軽い挨拶とともに部屋に入るおじいちゃん。高鳴る胸を抑えながら、私もおじいちゃんの背中に引っ付くようにして中に入った。
狭い和室。鼻腔をくすぐるい草の香り。並べられた二つの長机と、その上には将棋盤。室内にいたのは、年老いた男性と少女だけ。少女の方は私と同年代くらいだろうか。二人は互いに将棋盤に向かい合っていたが、私たちが入ってきたことに気づくと驚いたように顔を上げた。
「おお、名人! 久々ですなー!」
男性がおじいちゃんに話しかける。
「名人はやめてほしいのう。所詮は無名の元プロ棋士なんじゃから」
「いやいや。私にとって名人は名人ですよ」
「そういえば、今日はお孫さんだけかの? 確か前来たときはもう少し人数がいたような気がするんじゃが」
「いやー。近頃はあんまり人が来なくてですね。寂しいもんです。ところで、そっちの子は?」
男性の顔がこちらに向けられた。ニコニコとした笑みに安心感を覚えつつ、私は小さくお辞儀をする。
「こっちはわしの孫じゃよ。小学三年生になったし、そろそろ将棋教室デビューかと思って連れきたんですわ」
「ほほう。小学三年生だと、咲の一個下ですな。ほら、咲。挨拶しなさい」
振り返る男性。声をかけられた少女は、「はーい」と元気に声を上げて立ち上がり、私の目の前へ。くせ毛の目立つショートヘアー。優しい印象の垂れ目に健康的な桃色の唇。
「こんにちは。私、咲っていうの。あなたは?」
それが、私と咲ちゃんの出会いだった。
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