第22話 ほえー

 放課後。将棋部の部室。


「負けました」


 駒台に手を置き、軽く頭を下げる僕。それにつられるように、師匠も頭を下げます。僕が彼女の弟子になってから、このやりとりを何度繰り返したことやら。


「今回もなかなかだったね。いい手がいくつもあったよ」


「はあ。僕にはどこがどういいのかさっぱりですけどね」


「私としてはそれがわかるようになってくれると嬉しいかも」


 いたずらっ子のように軽い微笑みを浮かべる師匠。ほんの少し、心臓の鼓動が早くなるのを感じました。


「そ、それにしても、最近また暑くなりましたね」


「ん。確かに。この部屋にもクーラーつけてほしいよ。難しいんだろうけど」


 七月上旬。いつの間にやら、外ではセミたちが鳴き声を響かせるようになりました。もともと部室棟の中は涼しいのですが、外よりましというくらい。


「明日は凍ったペットボトルでも持ってこようかな。扇風機の前に置けばまだましかも」


「僕もそうします」


 この前から使い始めている古めかしい扇風機が、僕たちにぬるい風を送ってくれます。気温も年々上がってきていますし、扇風機だけというのは物足りなさが半端ないですね。


「そういえば、プロ同士が対局する時、体がとんでもなく火照ってくるって聞きますけど、本当なんですか?」


「うん。一手考えるのにも頭をフル回転させるから、自然とそうなっちゃうんだよ。タイトル戦なんかだと、一局指しただけで体重がかなり落ちるらしいよ。まあ、聞きかじりだけどね」


「ほえー」


 タイトル戦とは、優勝者に称号が与えられる棋戦のこと。『名人めいじん』、『竜王りゅうおう』、『王位おうい』、『王座おうざ』、『棋王きおう』、『叡王えいおう』、『王将おうしょう』、『棋聖きせい』。合計八種類があり、タイトル保持者と挑戦者が熱い戦いを繰り広げるのです。最近は、対局途中のおやつだったり昼食だったりがネットニュースでよく取り上げられていますね。だから、将棋に興味はないけど一度は名前を聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。


「もし師匠がタイトル戦に出たら、どれくらい体重落ちるんですかね?」


 不意に浮かび上がる疑問。膨らみ始める好奇心。いつの間にか僕の視線は、とある一点に釘付けになっていました。


「あ、あんまりまじまじ見ないでほしいな」


 そう言って、師匠は両手でお腹を覆い隠します。自分がすごく恥ずかしいことをしているのだと理解するのに、それほど時間は要しませんでした。


「え? あ。す、すいません。つい」


「…………」


「えっと。えっと」


 そっぽを向きながら言い訳の言葉を探す僕。数秒後。窓の外で鳴り響くセミたちの合唱に混じって、師匠のこんな呟きが聞こえました。


「……エッチ」

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