第18話 スンスン

 放課後。将棋部の部室。


「……師匠」


「どうしたのかな?」


「えっと。僕の見間違いかもしれないんですけど、ちょっと遠くありません?」


 いつものように師匠と対局していた僕。ですが、先ほどから違和感を感じて仕方ありません。理由は明白。将棋盤を挟んで座る師匠と僕との距離が、いつもよりも遠いのです。具体的には、パイプ椅子半個分くらい。


「……見間違いだよ」


 そう言って、師匠は盤上にグッと手を伸ばします。駒を掴み、一マス移動。それだけの動作がなんだかやりにくそう。


「あの。もっと椅子を前に移動させた方が指しやすくないですか?」


「べ、別にそんなことないけど」


 普段なら、腕を少し伸ばしただけで盤上の駒を動かすことができるはず。ですが、師匠は頑なに盤に近づこうとはしません。僕は、首をかしげながら彼女を見つめます。


「ほ、ほら。次、君の手番でしょ」


「あ、はい」


 師匠に促され、盤上に顔を向ける僕。


 さて、師匠のことが気がかりではありますが、対局に集中しないとですね。局面は中盤の入り口。まだお互いの駒はぶつかっていません。こちらから仕掛けるべきでしょうか? それとも、もう少し陣形を整理してから? とにかくミスしないようにしないと。


 うーん……分かんない。


 頭の中で駒たちがグルグルと渦をなしています。これではいい手なんて思いつくはずがありません。頭を少し整理しようと、僕は盤上から顔を上げました。


「スンスン」


「師匠?」


「あ。ん、んん」


 わざとらしい咳払いをする師匠。まるで先ほどの行為をごまかすかのように。


 師匠、さっき何してたんだろ。制服の襟で口元隠してたけど。


 ますます師匠の行動が分からなくなってきました。ここは思い切って聞いてみるべきでしょうか。いや、それはそれで変な空気になりそうな気もしますし。ああ、もうモヤモヤしっぱなしです。


「と、ところでさ。君は、においに敏感だったりするのかな?」


「へ?」


 これも先ほどのごまかしの延長でしょうか。唐突に師匠がそう尋ねてきました。


「ま、まあ、においと言ってもいろいろだけど。例えば、そう。あ、汗のにおいとか」


「はあ。別に敏感ってほどじゃないですけどね。それに、汗なんて誰でもかくでしょうし。体育なんかの後、『汗臭いー』って騒いでるクラスメイトとかいますけど、僕はあんまり気にしませんよ」


 あ。そういえば、今日の五時間目、師匠は体育だったっけ。師匠のクラスにもそういう人いるのかな?


「そ、そうなんだ」


 その日。結局、師匠の謎行動の理由は分かりませんでした。ですが、僕がふと気づいた時、師匠はパイプ椅子を半個分前に進ませていたのでした。

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