第7話 ソンナコトナイヨ

 放課後。将棋部の部室。


「師匠、昨日はおめでとうございます」


 部室に入ってきた師匠に向かって、僕は開口一番そう告げました。


「あ。やっぱり見てたんだ」


「そりゃ、師匠の対局の中継ですからね。授業中は無理ですけど、休み時間とか部活中とかもスマホでずっと見てましたよ。もちろん家に帰ってからも」


「そっか。ありがとうね」


 学生カバンをテーブルの上に置き、師匠は普段座っている席に腰を下ろしました。その動きがいつもより軽やかに見えるのは、彼女が昨日の対局で逆転勝ちを収めたからなのでしょうか。


「それにしても、あの対局、夜の十一時くらいまで続いてましたよね。感想戦も合わせると、家に帰れたのかなり遅くありませんでした?」


 指し手の意図。迷った局面。勝敗を分けたポイント。それらを対局後に言い合うのが感想戦です。感想戦を行うか行わないかで、自分の力を高められるかどうかが変わってきます。聞いた話によると、二時間くらい感想戦を行うプロ棋士の方もいるのだとか。


「時間は覚えてないけど、確かに遅かったね」


「朝、起きれました?」


「君は私のお母さんなのかな? もちろん起きれたよ。対局で遅くなるのはよくあることだからね。もう慣れちゃった」


 平然とそう告げる師匠。もうさすがとしか言いようがありませんね。


「師匠。お疲れのところ悪いんですけど、昨日の対局で分からない部分がありまして。ちょっと教えてもらってもいいですか?」


「いいよ。どこかな?」


 僕は駒袋の中から駒を取り出し、事前にスマホで撮っておいた写真を頼りに駒を配置していきます。数秒後に出来上がったのは、昨日僕が首を傾げた局面。


「ここなんですけど、どうしてを動かしたんですか? 桂馬けいまの方が攻めやすいと思ったんですけど」


「ん。ああ、確かに桂馬も考えたんだけどね。でも、その後の展開で相手が……」


 その時、不意に師匠の言葉が止まりました。不思議に思って顔を覗き込むと、何やら我慢をしているような表情。目には、うっすらと涙が溜まっています。


 その表情には見覚えがありました。今日の五時間目。昼休み明けでお腹の満たされた後。黒板前にいるのは、ゆっくりした話し方が特徴的かつかなり厳しい性格の世界史教諭。何気なく横に視線をやった僕の目に映ったのは、師匠と同じ表情を浮かべたクラスメイト。


「あの、師匠。もしかして、今すごく眠いんじゃないですか?」


「…………」


「師匠?」


「……そ、そんなことないよ」


「いや、だって」


「ソンナコトナイヨ」


「あ、はい」


 その日。僕は、何も見ていないふりを繰り返すこととなったのでした。

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