第1話 僕で遊ぶのはやめてくださいよ

 放課後。将棋部の部室。


「師匠」


 僕は、目の前で本を読む女性に声をかけました。黒髪長髪。透き通った肌。柔らかい微笑みを浮かべた彼女は、僕の声に応じるように顔を上げます。


「どうかした?」


「少し聞いてみたいことがあるんですけど。プロ棋士ってどんな感じなんですか?」


「どんな感じって。また答えにくい質問が来たね」


 困ったように首をひねる彼女の正体。現役の高校生。かつ将棋界初の女性プロ棋士。要するに、超が付くほどの有名人です。


 あ。ついでに言うと、彼女は僕の師匠でもあります。


 ふふふ。ちょっと優越感……なんちゃって。


「プロの世界って想像つかないんですよね。僕は一般的な高校生男子ですし」


「ふむ。君が一般的かどうかは置いておいて。どんな感じ、か」


 ん? 今、僕が普通じゃないって言われたような……。


 腕組みをしながら天井を見つめる師匠。胸のあたりに結ばれた黄色いリボンが、彼女が高校二年生であることを主張しています。彼女の方が年上とはいえその差は一年。ですが、しぐさとか言動とか、どうにも大人びすぎている気がしてなりません。これがプロ棋士の力というやつでしょうか?


「いい答えが見つからないけど、それでもいいかな?」


「あ、はい」


「とりあえず、大変な世界だなとは思うよ。将棋の勝敗でいろんなことが決まっちゃうからね」


 顔を僕の方に戻しながら、師匠はそう言いました。


「いろんなことが決まる?」


「うん。次の対局があるかとか、雑誌に掲載されるかとか。あとは、何かのイベントに呼ばれるかとか」


「なるほど」


 サラリと告げられた言葉の一つ一つに、確かな重みを感じます。師匠が日々どんな思いで過ごしているのか。僕には想像することすらおこがましいでしょう。


「だからかな」


「え?」


「ここに来て、君とこうしてる時間がすごく楽しいよ」


 師匠の微笑み。髪をかき上げるしぐさ。そして、何よりその言葉。全てが、僕の心臓の鼓動を一段階、いや、十段階くらい加速させます。


「し、しし師匠!? き、きき急にどうしたんですか!?」


 言葉が上手く出てきてくれません。これまでにないほど顔が熱くなっています。今なら顔から火が出せるのではと思ってしまうほどに。


 困惑する僕を見て、師匠は口に手を当てながらクスクスと笑い始めました。


「まあ、君はからかうといい反応をしてくれるからね」


「…………へ?」


 からかう?


 からかうって、あのからかう?


 ということはつまり、さっきの言葉は……。


 その意味を理解した時、全身から力が抜けていくのを感じました。たぶん、空気の抜ける風船ってこんな感じなんじゃないでしょうか。


「もう。僕で遊ぶのはやめてくださいよ」


「ふふ。ごめんごめん」


 師匠と僕。二人の放課後は、こうやって過ぎていくのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る