第3話


ゾンビパニック四日目。


俺はまだゾンビにはなっていなかった。


自我は確実に蝕まれて行っていると思う。


性欲や睡眠欲などが薄くなり、食欲が脳を支配していた。


保存食をかきこむようにして食べたが全然満たされない。


人の肉が食いたい。


誰でもいいから人間にかぶりつきたい。


「ああくそ…だめだ…涎が止まらねぇ…」


ダラダラと勝手に口から涎が溢れてくる。


俺の精神は確実にゾンビ化しつつあった。


きっと数日後には、お外の仲間たちと一緒に生存者を求めてこの街を徘徊していることだろう。


「もう…みんな死んだのか…?」


いつの間にか悲鳴やサイレンは聞こえてこなくなっていた。


聞こえてくるのはゾンビたちの低い唸り声だけ。


もうここらに生存者は残っていないのかも知れなかった。


未だ救助隊が駆けつけてきたりとそういうことはない。


この街は完全に見捨てられたのか。


それとも日本全国にすでにゾンビパニックが拡散して、もう政府が機能していないのか。


「外はどうなってるんだ?」


腕を押さえながら、よろよろと立ち上がる。


四日前に子供に噛まれた右腕は、紫色に変色していた。


黒い血管が浮き上がり、皮膚の色は完全にゾンビのそれだ。


「誰か…いないのか…」


俺は片手でガラス戸を開けてベランダに出た。


俺のアパートは四階にある。


手すりから頭を出して、眼下を仰いだ。



ウゥウウウウウウウ…

ヴォォオオオオオオ……

グォオオオオ……



たくさんのゾンビたちが徘徊しているのが目に入った。


道路にはたくさんの車が乗り捨てられていた。


書類やカバン、衣服などが散らばっている。


あちこちに家や車の焼けた跡が散見され、焦げ臭い匂いが漂っていた。


生存者は見当たらない。


ゾンビたちは、腕を欠いたり、首が半分もげかけたりしながら、唸り声を上げてノロノロと辺りを徘徊している。



ウゥウウウウ…


「…っ!?」


近くに人の気配を感じた。


いまの今まで気づかなかったが、隣のベランダに人影があった。


隣の部屋の住人と思しき女が、虚な瞳でゆらゆらと揺れていた。


変色した皮膚を見るに、すでにゾンビ化しているようだった。


俺のように軽傷からウイルスに感染してゾンビ化したのか、体の形は保たれていた。


綺麗な人だったのに、勿体無いと俺は思った。


ゾンビ化した女性は、服をはだけさせ、その豊かな胸の上半分があらわになってしまっていたのだが、皮膚が変色しているせいで色っぽくはなかった。


そもそも俺の中から性欲は既に消え去っていた。


だが女を見ても、食べたいとは思わなかった。


感染者に対して食人欲求は抱けないらしい。



ウゥウウウウ…


ベランダの外に顔を向けていた隣人女性が、こちらに顔を向けた。


青白い表情が真正面から俺のことを見ていた。


襲われるかと思ったが、ゾンビは動かなかった。


じっと俺のことを見つめている。


口をぱくぱくと動かし、首を傾げたりして、ゆらゆらと揺れている。


どうしていいか戸惑っているような仕草だった。


半分ウイルスに侵されている俺を、獲物かどうか判断がつきかねているようだった。


「俺もすぐにそっち側に行くんで」


そう言って俺はベランダのガラス戸を閉めて家の中に戻った。


隣人ゾンビは、俺から興味を失い、再びゆらゆらと揺れながら外の景色を眺め始めた。



ずくり…

ずくり…


「…っ」


痛みに歯を食いしばる。


いよいよ俺もゾンビになる時が来たようだった。


腕の噛傷から広がった黒い血管が、肩を渡って胴体に到達しようとしていた。


体は高熱で熱っていた。


右半身が鉛のように硬直し、立ち上がることもできない。


俺はベッドに寝っ転がって天井を見つめながらひたすら痛みに耐えていた。


意識が段々と朦朧としてくる。


おそらく次に起きる時には俺はゾンビになっているだろう。


そんな確信があった。


目を閉じて、その時を待つ。


頭の中に走馬灯のように過去の記憶が駆け巡る。


思い出されるのは学生時代に告白に失敗したことや、辛かった就職活動、バイトでの失敗、そしてずっと死にたいと思いながら耐えていた社畜時代の苦い記憶だった。


死の前の記憶がこんなものか。


本当にしょうもない人生だった。



願わくば、ゾンビになった時には俺の自我は完全に消え去っていてほしい。


意識がある状態で生存者を探して街を彷徨きたくはない。



「…っ」


ズキリ…ズキリ…


痛みが心臓に到達した。


あの黒い血管が、俺の内臓を侵食しているのがわかる。


鼓動が早くなる。


視界が揺らぐ。


意識が遠のく。


「はっ…俺を使い潰したあのクソッタレ上司もきっとゾンビになってるんだろうな…ざまあみろ…!」


痛みに抗うようにそう吐き捨てた直後、俺は意識を手放した。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る